人生の旅路は千差万別。
他人と比べて焦るより
前に一歩踏み出すこと。
自分らしい歩調で
使命の道を歩み抜こう!
御義口伝巻上 P740
『我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら四徳の香を吹くなり』
☆女性に贈ることば 十一月二十三日
"子どもの笑顔は万言に勝る"という。大人たちがどんなに言葉で平和を訴えるよりも、それ以上に、人びとの心を動かすのが、子どもたちの笑顔であり、純真な心である。
☆今日のことば365 十一月二十三日
長い人生航路には、うららかな陽光をあびた、春のような時もある。きびしい寒さと、たたかわねばならぬ厳冬の夜のような時期もある。苦闘時代とは、いわば人生の、冬の夜なのかもしれない。
☆誓いの天地 徳島・板野郡北島町 2017年11月6日
◇地域に信頼の根を深く
徳島県東部に位置する北島町。鳴門市、藍住町、松茂町、徳島市と隣接する。
町域の約3割を農地が占め、米作りを中心に、果樹、レンコンの栽培も盛ん。一方で、町内を流れる今切川周辺は、多くの工場が立ち並ぶ県内有数の工場地帯となっている。
"企業城下町"として栄えてきたが、近年は徳島市のベッドタウンとして発展。大型商業施設も建設され、宅地開発が進んできた。
人口も増えており、人口密度は、四国の全市町村の中でトップ。伸びゆく街で、生き生きと躍動する多くの青年がいる。
栗島和義さん(常勝喜多圏、圏男子部長)は、父の和彦さん(同、志国長〈ブロック長〉)が立ち上げたボイラーなどの修理、住宅リフォームを手掛ける会社で働く。
顧客との信頼関係を築くことを何よりも大切にし、「迅速」「丁寧」「正確」な仕事を心掛けてきた。
その仕事ぶりが評判を呼び、給湯器を取り付けた顧客から後日、住宅リフォームを依頼されるなど、売り上げを伸ばしている。
「自身の『人間性』から信頼は生まれる。学会の中で学んだことです」
一昨年、自宅を新築しようと家を取り壊した。ところが建築許可がおりず、立ち往生。さらに、妻の晴代さん(同、地区婦人部長)に卵巣のう腫、子宮筋腫が見つかった。
次々と試練に襲われたが、"絶対に宿命転換してみせる"と強盛に祈った。晴代さんは手術が成功し、病を克服。自宅も建築許可がおり、半年後にようやく家を建てることができた。
昨年11月、圏男子部長に就任した。この時の体験を語りながら、激励に奔走。今、新たな人材が陸続と誕生している。
「地域に信頼の根を深く張り、最高の仲間と共に、徳島広布に駆けます」
◇
立石美希さん(常勝喜多圏、圏女子部主任部長)は、父の光春さん(同、副支部長・地区部長兼任)と共に、サッシ・パネルの設計・施工の仕事に従事する。
3年前から、父の仕事を手伝い始めた。工事現場は男性ばかり。その環境に最初は戸惑うこともあったが、それ以上に汗水流して物を作り上げる手応えがあった。
立石さんは3姉妹の三女。光春さんは、娘たちに仕事を継がせるつもりはなかった。立石さんも、花屋になることを夢見ていたが、物作りの喜びを知り、父のもとで働くことに決めた。
自分一人でサッシの取り付けをできるようになり、"もっと、いろんな仕事を覚えていこう"とした矢先の今年7月、父に直腸がんが見つかった。手術は成功したが、がんとの闘いは、これからも続く。
今、立石さんが父の代わりを務める。"お父さんには本当に世話になったから"と、仕事の依頼が絶えない。父が積み上げてきた信頼の厚さを実感する。
「父への信頼は、父が自らの信心で築いてきたもの。私も『不退転の信心』を貫き、地域に信頼の輪を広げていきます」
栄光の共戦譜
●潔い信心の名士たれ
池田先生が徳島を初めて訪れたのは、第3代会長就任から7カ月後の1960年(昭和35年)12月6日。船で小松島港に第一歩をしるした。
先生は、徳島市内で開催された徳島支部の結成大会に出席。広宣流布への学会の尊き使命を訴える若き会長の師子吼に、友は奮い立ち、広布の道を切り開いていった。
この師の初訪問から20年後の80年(同55年)5月17日、小松島港を出発した徳島の同志1000人が、横浜港に到着した。
第1次宗門事件の嵐は、四国にも吹き荒れていた。友は耐えに耐えた。そして、"先生が会合に出てはいけないのであれば、私たちが先生のもとへ行こう"と立ち上がった。
同年1月14日、四国4県の同志1000人が「さんふらわあ7」号で、神奈川にいる師のもとへ集った。その4カ月後、再び徳島の友が駆け付けたのである。
徳島の友との懇談の場で、先生は語った。
「全員が広布の主体者である。それぞれの地域で、潔い信心をもった名士となっていくところに、広宣流布の一歩前進がある」
徳島の航海から3日後には、愛媛の友が神奈川に集った。3回の"求道の航海"から、四国広布の新たな暁鐘が響き始めた。
共戦の志あつき友の行動に、先生は「私の四国への御恩返しの訪問の決意は、一日一日、限りなく深まっていった」と。
その訪問が実現したのが、翌81年(同56年)11月9日。四国での"反転攻勢"の激励行である。舞台は徳島から始まった。
◇
この日、先生は北島町の徳島講堂を初訪問。落成記念勤行会に出席した。
江戸田邦夫さん(常勝喜多圏、圏副本部長)は、講堂の玄関前で受付役員をしていた。
先生が講堂に到着すると、「こんにちは」と元気にあいさつ。先生は「ご苦労さま。みんなで一緒に写真を撮ろう」と。役員を中心に70人ほどが集まった。
記念の一枚は、今も仏間に掲げられている。「写真を見つめ、常に師への誓いを新たにしています」
19歳の時、江戸田さんは肺結核を患った。喀血を繰り返し、体重も激減。明日が見えない不安の中で、信心と巡り合った。
医師から「3年の入院」を告げられたが、懸命な唱題と治療の結果、7カ月で退院。以来、真っすぐに広布の道を進んできた。
「信心して自分の人生は百八十度変わった。感謝しかありません」
その報恩の心は、拡大の実践に。毎月2部以上の本紙の購読推進を、約30年にわたり続ける。
長男の純一さんは県男子部長、長女の公恵さんは県女子部主任部長。"師弟一筋"の生き方が受け継がれている。
◇
落成記念勤行会の席上、先生は「妙法に包まれた大功徳の人生で、徳島ここにありとの気概を示しきっていただきたい」と望んだ。
会場の前方にいた片岡久代さん(徳島大城圏、圏婦人部長)。この時が初めての師との出会いだった。
「先生の包み込むような温かな人柄に、何があっても学会と共に進んでいこうと決意しました」
85年(同60年)4月14日の徳島青年平和文化祭では、女子部のリズムダンスの副責任者を務めた。この翌日、2度目の師との出会いを結んだ。
半年後に一夫さん(同、本部長)との結婚が決まっていた。「先生にご報告すると、大変に喜んでくださって。それが何よりうれしかった」
結婚後は、地域活動にも率先。現在、地元の社会福祉協議会の事務局長として活躍する。
昨年11月、圏婦人部長に。父の板東敬二さん(故人)はかつて、県長を務めた徳島広布の功労者だ。友の激励に歩くと、「お父さんの励ましに勇気をもらった」と、よく言われる。
片岡さんは、「今度は私が多くの方々の支えになっていきます」と誓う。
◇
楽聖ベートーベンの交響曲第9番が、日本で初演された地は、徳島である。
落成記念勤行会では、婦人部の「若草合唱団」が、「歓喜の歌」を披露。合唱団の一員だった白濱和希子さん(徳島大城圏、婦人部副本部長)も、歓喜の歌声を響かせた。
「先生の威風堂々の姿を見て、"いかなる障魔も乗り越えていこう"と決意を新たにしました」
この3年前にも黄金の思い出を刻んだ。78年(同53年)7月、四国研修道場で研修会が行われ、先生が出席。徳島の友は阿波踊りを披露した。
終了後、友との語らいが持たれた。その場にいた白濱さんは、子どもたちが成長している様子を伝えた。すると、先生は「いい子に育つよ」と。この言葉に、「わが子を広布の人材に」と固く誓った。
長女の「再生不良性貧血」、長男の不登校など、幾多の試練があったが、全て信心で勝ち越えた。3人の子どもたちは今、後継の道を真っすぐに進む。
夫の勤さん(同、副圏長)は、「ネフローゼ症候群」と闘いながら、広布の最前線で奮闘。昨年、警備会社を立ち上げた。
数々の勝利の実証を示した白濱さん。「わが地域の令法久住のため、青年部の励ましに全力を注いでいきます」
——81年11月9日に徳島から始まった四国の激励行は、15日まで7日間続いた。14日には学会歌「紅の歌」が完成。そして、15日に徳島の県愛唱歌「愛する徳島」が誕生した。
♪いざや徳島 いざや立て
師が歌詞の推敲を重ねた県愛唱歌を高らかに歌いながら、友は歓喜の行進を続ける。"徳島ここにあり"との気概に燃えて。