新聞休刊日
曾谷入道殿許御書 P1033
『此等の大菩薩末法の衆生を利益したもうこと猶魚の水に練れ鳥の天に自在なるが如し、濁悪の衆生此の大士に遇つて仏種を殖うること例せば水精の月に向つて水を生じ孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し』
☆女性に贈ることば 十一月十三日
今、自分たちは何をすべきか、その目的を忘れての恋愛は邪道である。互いに目的を達成していこうと励ましあっていくことが大切である。
☆今日のことば365 十一月十三日
人は、自分に都合の悪い部分は、つとめて無視したいものだ。真理をわざわざ見過ごそうとするところに、誤りの共通点がある。
☆希望航路 池田先生と進む人生旅 タイ1 2017年11月2日
◇アジアの灯台 使命の天地
池田先生がタイへの第一歩を刻んだのは、1961年2月。以来、6度にわたって同国を訪れ、同志を励まし続けてきた。師弟の絆に貫かれたタイ広布の歩みを紹介する。
55年前、アジア初の支部として「バンコク支部」が結成された。
第3代会長に就任した池田先生は、1961年2月にタイを初めて訪れた。翌62年2月11日にタイを再訪し、座談会を開催。そこでバンコク支部結成を発表したのである。
この日は恩師・戸田城聖先生の誕生日。前年にタイを訪れていた日も同じ2月11日であり、池田先生は師に思いをはせつつ、タイの地涌の使命を訴えた。
「戸田先生は『雲の井に月こそ見んと願いてし アジアの民に日をぞ送らん』との和歌を詠まれましたが、タイは、そのアジアに幸の光を送る一大拠点であり、アジアの灯台となる使命の天地であります。また絶対にそうなっていただきたい」
前年の初訪問の時、タイの同志はわずかに日本人2人。この62年の再訪では、15人ほどのメンバーが空港で先生を出迎えた。
その一人がラッタナー・チッウィブーンさん(副総合婦人部長)。
「両親、弟、5人の妹と一緒に、先生をお迎えしました。一人一人をねぎらい、握手をしてくださいました」
台湾からタイにやって来たラッタナーさん一家は、知人に勧められて入会したばかり。
父は肺病を患って失業。母の内職だけでは生計が立たず、ラッタナーさんは学業を断念して働きに出た。
日系企業でタイピストとして勤務。「信心は一人前、仕事は三人前」の指導に奮い立つ中で、秘書に抜てきされた。父も病に打ち勝ち、6年ぶりに職を得ることができた。
その後、タイ女子部長に就任したラッタナーさんは、65年8月に来日。部旗授与式で、池田先生から直接、温かな激励を受けた。
「最初はメンバーのほとんどが(広東省の)潮州や台湾出身で、中国語が中心でした。共産主義者の集まりと誤解されたこともあります。やがてタイ語や英語ができる友が加わり、弘教が広がっていきました」
当時、タイはなかなか政情が安定せず、クーデターが頻発していた。戒厳令が敷かれ、5人以上で集まることが禁じられた。そうした制約の中での活動だったが、友は少しも臆することはなかった。信心即生活の実証が、仏法の偉大さを雄弁に物語っていたからだ。
初のアジア歴訪で、池田先生は同行幹部に広布の展望を語った。
その模様が小説『新・人間革命』第3巻の「平和の光」の章に描かれている。
先生は、東南アジア総支部長となる日本の幹部に問い掛けた。
「30年後には、それぞれの国の広宣流布を、どこまで進めようと思っているのかい」
答えに窮する幹部に先生は続けた。
「(私は)タイやインドにも、今の学会本部以上の会館が建つぐらいにしたいと考えている。そうでなければ、戸田先生が念願された東洋広布など、永遠にできません。時は来ているんです」
そう語り、先生はアジア広布の青写真を練り上げていく。日本からの派遣幹部の体制も整備されていった。
国民のほとんどが上座部仏教を信仰するタイにあって、派遣幹部は、日蓮大聖人の教えが釈尊の仏法の精髄であることを教え、膝詰めで研さんを重ねた。66年には初の教学試験も開催されている。
また研さんの指針として、機関誌の発刊も決定。ラッタナーさんらが作成に携わった。
「皆で支部長の家に集まり、大きい紙を折って作りました。最初の30冊が完成した時には、インクで手が真っ黒。会合が思うようにできない中、機関誌で同志の心を結べればと一生懸命でした」
これが今に続く月刊誌「サーン・クンカー(価値創造)」の淵源となっている。
バンコク在住のラッタナーさんは、機関誌の編集作業に奮闘する傍ら、週末は北部の同志のもとに通った。
金曜の夜行バスで出発し、日曜夜に帰宅。国境沿いの地域で内戦に苦しむ同志や、村で流行したエイズと闘う友に寄り添った。御本尊をひたぶるに信じ、宿命転換を成し遂げる姿を数え切れないほど目にしてきた。
ラッタナーさん自身も宿命の嵐に見舞われた。悩みに押しつぶされそうな時、同じ問題で悩む同志に出会う。
「絶対に解決できます!」——ラッタナーさんは自分に言い聞かせるように、信心の確信を語った。見事に苦境を打開し、その同志と共に問題を乗り越えることができた。
池田先生はラッタナーさんと再会した折、こう詠み贈っている。
偉大なる
使命を帯びて
タイ国に
佛子と生きゆく
幸の王女よ
先生の和歌を心の宝に、ラッタナーさんは師弟の絆の偉大さを伝え続けている。
3度目の訪問となった64年10月2日、池田先生は、バンコクの支部長・支部婦人部長に就いた潘鏗鏘・和子さん夫妻(ともに故人)らと語らった。
日本語ができる和子さんが、タイの状況をつぶさに報告した。
学会への誤解から活動が警戒されていること、組織を協会にする申請を出したが却下されたこと……。
先生は、当時、誤解によって、学会活動が制限されている国が他にもあることに触れ、「信心は一歩も引いてはいけません」。個人の信仰は自由であり、学会は人々の幸福のために奉仕する団体であることを確認した。
「潘さんご夫妻も、堂々と、このタイにあって、学会の真実と正義を訴え抜いてください。社会は動いています。時代は変わります。いや、みんなで変えていくんです」と強気の実践を促している。
和子さんは東京・目黒区生まれ。17歳の時、自分を育ててくれた父母が、実の両親でないことを知る。本当の親を捜したが、見つけることはできなかった。
終戦後、タイに渡り、料理人の鏗鏘さんと結婚。鏗鏘さんは同僚から折伏を受け、61年に信心を始めていた。その後、ラッタナーさん一家を入会に導いている。
夫妻は経済苦と家庭不和に苦しんだが、全てを信心で受け止め、前進の糧としてきた。その背中を見て育った4男2女が広布のリーダーとして活躍する。
娘のスリーポーン・アサカワさん(支部副婦人部長)は、女子部本部長などを歴任。舞踊グループ責任者として、多くの後継者を育てた。
「"池田先生がいらっしゃらなかったら、タイの人は南無妙法蓮華経を知らなかった""先生にお応えしたい。広宣流布しかない"が両親の口癖でした」
"先生一筋"に生きる両親の姿を胸に、スリーポーンさんは師への感謝を語ってきた。
"タイの全てのメンバーが、先生と信心の原点を築けるように"——潘夫妻の決意は、いかなる苦難をも越えゆく不動の信念となって友の心に伝わった。
三世まで
常楽わするな
師弟かな
タイ広布の礎を築いた潘夫妻をたたえ、池田先生がしたためた揮毫である。
そして、師を求める心が全土に躍動した88年2月、24年ぶりとなる先生のタイ訪問が実現することになる。