2017年11月19日日曜日

2017.11.19 わが友に贈る

一人の勝利の背景には
無数の同志の祈りがあり
人知れぬ支えがある。
この麗しき人間の絆を
地域に社会に万代に!

南条殿御返事 P1578
『釈迦仏は我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給いて候』

☆女性に贈ることば 十一月十九日
人間、生老病死は避けられない。長い一生のうちには、自分や家族が病気に握ることも当然ある。
病気になること自体は、不幸でも何でもない。不幸なのは、病気に負けることである。

☆今日のことば365 十一月十九日
人間形成は、太い信頼のきずなで結ばれた、両者の暖かい生命の譜であり、時には火花を散らす熱烈な接触のなかに高められ、造成されるものではないだろうか。人間の内奥に秘められた無限の可能性、人格的な価値を発現させる方法は、この人間性のふれ合い以外には絶対にあり得ない。

☆御書と歩む 第93回 無冠の友の功労に感謝
『仏は文字に依って衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何、答えて云く涅槃経の十五に云く「願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ」文』(蓮盛抄、153ページ)

◇通解
仏は文字によって衆生を救われるのである。問う。その証拠はどうか。答えていう。涅槃経の巻十五に「願わくは、もろもろの衆生よ、ことごとく、みな、出世間(仏法の世界)の文字を受持しなさい」とある。

◇同志への指針
日蓮大聖人は民衆救済の御書を留められた。この金文字が輝き光る聖教新聞を日々、配達する無冠の友こそ御本仏の尊き使者であられる。諸天も讃嘆する大聖業だ。
どうか、「無冠即栄光」「無冠即福徳」の誇りも高く、健康・無事故の幸道を!
寒風の日も、雨や雪の日も、朝一番に届く真心の温もりに感謝合掌し、皆が聖教と共に生命の暁鐘を打ち鳴らそう!

☆地域を歩く 栃木県日光市 2017年11月8日
◇紅葉の美、人の輝き
日本の紅葉は、なぜ美しいのか。それは、色彩が豊かだから、という説がある。赤、橙、黄、緑——多色の木々が織りなす風景に、人は魅了されるのだ、と。
紅葉で知られる、栃木県の日光市(日光県)を訪ねた。JR宇都宮駅では、日光線だけが案内板もプラットホームも、焦げ茶色の"特別仕様"。電車内にはあちこちに、談笑しながら地図を広げる人がいる。
地元の住民は、紅葉も観光客も毎年の見慣れた光景だと語る。日光県のメンバーにとって、日光とは、どんな地なのか。そんな思いで、一人一人に聞いてみた。
「自分の人生を、色に例えるなら?」
◇ 
「創価班だから青、と言いたいですが(笑い)、紅葉でいうなら葉陰の、茶色ですかね。目立たなくても周りを支える、という意味で」(木村和宏さん、県男子部書記長)
外国人客も多く訪れるテーマパークで、イベント運営や、広報の担当を務める。
神奈川県の出身。大学4年の時、人を感動させる仕事がしたいと、現在の職場に内定を得た。
「でも、その思いとは裏腹に、私は子どもの頃から自分の存在意義を感じられず、つらいことがあると逃げるばかりでした」
そんな自身を変えたいと、卒業直前の2002年3月に入会した。
移住した日光は、進学や就職などで、地元を離れていく若者が多い地域だった。木村さんは、地元の学会員たちに大歓迎された。さらには、何かと頼ってもらえるようになった。

◇多色の人生が彩る 郷土広布の絵巻
「メンバーの訪問激励から座談会の司会、ちょっとした力仕事まで何でもお願いされるようになって(笑い)。そんな中で人と堂々と話せるようになり、自信を持てるようになっていきました」(木村和宏さん)
仕事でイベント運営や広報を任されるようになったのも、そうした変化の実証だろう。
「今は、この地の青年部として、仕事も信心も負けるわけにはいかないという思いです」
日光を、国内外に広く知られる"世界の日光"に——そんな思いを、静かに胸中に燃やす。

観光地の多い日光の、学会活動の在り方を、沼尾重夫県長、中村道代県婦人部長に聞いた。
「例えば鬼怒川など、温泉街で働く方が多い地域では、夜の会合はできません。座談会は、旅館などが休憩時間に入る、昼間にやるんです」
「でも、会合に参加しにくい分、訪問激励などで心を結びながら、信心に励んでいますね」
そうしたメンバーと、市内各地で出会った。
「自分を色で表すなら……赤ですね。ここで、学会の旗を掲げ続ける決意に燃えていかねば、という意味で」(木下一幸さん、地区幹事)
中禅寺湖のほとりで、食事処を経営する。一昨年に亡くなった父・清さんから継いだ店だ。
清さんは終戦後、親戚を頼って東京からこの地に来た。焼きそばの屋台で、5人の子を養った。1958年(昭和33年)に信心を始めた。
「私が中3の時、母が胆のうがんで亡くなり、それからは父が男手一つで育ててくれて」
旧習の深い地で、強盛に信心を貫く父を助けたいと、木下さんは中学卒業後、調理学校に進む。
20年前に屋台を終え、現在の店舗を構えた。手打ちそばもメニューに加えるなど、妻・美和子さん(地区副婦人部長)と工夫を重ねてきた。
「こういう商売で、なかなか会合にも出られないけど」、支えてくれている人がいる。
「地区部長です。昔から、地元の青年団で一緒だった人で、よく会いに来てくれる。そのたび、この地に貢献する生き方を決意し直すんです」
その人、大金謙治さんは近所のガソリンスタンドに勤めているという。
訪ねてみると、姿があった。あいさつし、木下さんが語っていたことを伝える。「なーんもよ」。大金さんは言葉少なに、はにかんだ。
鬼怒川温泉駅の前で、土産物店の店長を務める壮年にも話を聞いた。
「紅葉で言えば、自分は"黄色の中にそっとある赤"でありたい。控え目に、皆をホッとさせられれば、と」(梅宮一義さん、地区幹事)
高校を卒業後、鬼怒川温泉の大手ホテルで営業・販売を担ってきた。
「近年は団体客から個人客が中心になり、ここ数年で海外のお客さまが急激に増えたりと、変化が大きいですね」
だからこそ、学会で教わる「一人を大切に」という軸を持ち続けることが必要なのだという。

「今は、黄色とか……そう、幸せの色ですね」(齋藤芙士子さん、地区副婦人部長)
世界遺産である日光東照宮の近くで、享保8年(1723年)から続く茶屋を営む。生まれは東京だという。
「でも、戦争で疎開した宮城から列車で東京に戻る途中、私だけ宇都宮の駅で降ろされた。要は"口減らし"だったの。9歳の時でした」
日光の親戚の家に引き取られた。他に行き場はなく、何でも従うしか、生きる方法はなかった。縁談も、いつの間にか。そうして結婚した夫の母が茶屋を営んでいた。
「そして、一緒に店に立っていた人が学会員で、私も入会して、人生が変わったんです」
客ではない、何でも話せる「友人」ができた。結婚15年目、夫が胃がんで亡くなった時、婦人部の先輩たちが変わらず寄り添ってくれたことに、今も感謝する。
86年(昭和61年)9月14日、日光を訪問した池田先生は齋藤さんのことを聞き、激励の伝言を。
「先生は、私の今までの忍耐を、全て分かってくださっているんだと、本当にうれしかった」
人生の師匠と同志のおかげで、自分の人生を認められるようになった。店は今、メディアの取材が頻繁に入る、地域の有名店になっている。

「信心は真っ赤に燃え尽くしたい。学会創立100周年に、勝利の姿でいられるように」(平田滿義さん、副本部長)
日本最古のリゾートホテルとされる「日光金谷ホテル」で半世紀近く勤務。副支配人を務めた。心筋梗塞を機に、38歳で入会。病を越えて、妻・宮子さん(県婦人部主事)と共に、日光の広布の草創を築いてきた。
夫妻には忘れられない"生涯の宝"がある。
第1次宗門事件の時。平田さんは、邪智の坊主に「私は池田先生と共に歩む!」と言い切り、夫妻でメンバーの激励に歩いた。
さらに86年9月14日、ホテルが経営するベーカリーに、池田先生が立ち寄ったのだ。また、翌日に開催された第1回栃木県支部長会で、先生は平田さんのことに言及して激励した。
この会合のスピーチで先生は語っている。
「私どもは生涯、この無上道の妙法を師子吼しながら、自分らしく生きていけばよいのである。そこにのみ自らの生命に忠実に、自らの個性を光り輝かせながら、限りなき福徳の境涯を開き、成長していく方途がある」

人間社会も紅葉と同じなのかもしれない。多様な色の人生が交差し、入り交じり、支え合う——その団結の中に、わが地にしかない彩りで輝く、郷土広布の絵巻もある。