偉大な事業は
一日にして成らず。
今できることから
一歩一歩 挑み抜け!
結果は必ずついてくる。
御義口伝巻上 P718
『疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す』
☆女性に贈ることば 三月十九日
観念だけでは、真に人間を育てることはできません。実際に体を動かし、汗を流し、ともに泣き、ともに笑い−−そうした人間同士の打ちあいのなかでこそ、人は磨かれていくものです。
☆今日のことば365 三月十九日
物事がわけがわからなくなったときには、原点にもどって、素朴に素朴にと考えれば、意外と本質が明らかになるものです。それを入れ物の小さい頭で、溢れているのも気づかずに、更に詰め込んで考えようとするから、みんな問題の本質がどこかへ逃げていってしまうのだ。
☆誓いの天地 東京・江東区 2017年3月9日
◇発展する街 伸びゆく青年 東京一の誇りも高く
2020年に行われる東京五輪・パラリンピック。江東区の臨海地域(有明、辰巳・夢の島、中央防波堤埋め立て地)では、多くの競技が実施される予定だ。
亀戸や木場など人情味あふれる下町と、開発が進む未来都市の側面を併せもつ。その注目度は高く、"平成22年から同47年までの間で、江東区は最も人口が増加する"と都は予測している。
鈴木英明さん(江東創価区、男子部部長)が住む北砂は、下町の地域。「とにかく、おせっかいな人が多いんです。ちょっと"うざい"時もあるけど(笑い)、そのあったかさが良いところです」
昨年から、北砂1丁目の青年会副会長を務める。防火・防犯のために近隣を回る夜警や盆踊りの太鼓演奏の指導などを行っている。
また、3年前からは自主防災組織である災害協力隊の一員に。避難訓練の運営に関わってきた。
生まれも育ちも江東区。多くの人に、お世話になった。地域活動に励むのも、そうした方々への感謝の思いからだ。
鈴木さんが9歳の時、母・直子さん(白ゆり長)が再婚。2人の弟が生まれた。だが、中学2年の時、再び離婚。再婚相手の金遣いの荒さが原因だった。
それでも、母は明るさを失わず、昼は保険の外交員、夜は清掃の仕事で働き、家族を養った。
"母の恩に報いよう"と、鈴木さんは大学院で政治学を学んだ後、インターネットのショッピングサイトを運営する会社に就職した。仕事に全力投球したが、逆に自分を追い詰めてしまった。
退職し、ふさぎ込む鈴木さんに、多くの同志が励ましを送り続けた。その間、鈴木さんは懸命に祈り、仏法対話にも励んだ。
その後、叔父が経営する葬儀社で働くように。今、地域に愛される会社を目指し、奮闘を重ねる。
「家族、学会同志への感謝を胸に、これからも地域に尽くしていきます」
◇
針谷由美子さん(江東池田区、女子部本部長)が活動の舞台とするのは、臨海エリアだ。
大観覧車がシンボルのアミューズメント施設「パレットタウン」など、多彩なスポットがある。
高層マンションの建設が進み、子育て世帯も増加。この地で、針谷さんは保育士として働く。
「幼稚園の時の先生が優しくて。"あの先生みたいになりたい"と、いつも思っていました」
保育士になって2年目の時。聞く耳を持たず、遊び回る子どもたちに、言うことを聞かせようと、注意することが増えていた。
そんな時だった。先輩から「子どものことを見てる? まずは、子どもたちと信頼関係を築かないと」と指摘された。悩み続けていた折、教育部の会合に参加した。そこで、「子どもたちの成長を祈る」ことの大切さを学んだ。
朝の祈りの姿勢が変わった。"一人一人の子の良さを褒めていこう"と接するようになった。今では職場での信頼も厚い。
妹の慶子さん(同、女子部副本部長)も保育士。体調を崩した時期もあったが、家族や同志の祈りに包まれ、再び保育の現場に立てるようになった。
子育てを取り巻く環境は今、大きく変化している。「だからこそ、"妙法の保育士"との使命に燃え、姉妹で前進していきます」と針谷さんは朗らかに語る。
池田先生はかつて、江東青年部に和歌を贈った。
「君もまた 創価の英雄 貴女まで 広布の女王 諸天は讃えむ」
師が「創価の英雄」「広布の女王」と期待する後継の青年たちが、発展する街を駆けている。
◇栄光の共戦譜
江東は墨田、江戸川などとともに、池田先生が男子部の第1部隊長として指揮を執った師弟の縁深き地である。
間もなく迎える3月25日は、江東の「師弟勝利の原点の日」「婦人部の日」。
1980年(昭和55年)のこの日、先生は落成したばかりの江東文化会館を初訪問。集った友と勤行を行い、ピアノを演奏し、励ましを送った。
当時は、第1次宗門事件の渦中。師弟の絆を断ち切ろうとする退転・反逆者らの謀略が渦巻いていた。その中での師との出会いに、友の喜びは爆発した。
以降、88年(同63年)まで9年連続で、先生は江東区へ。その間、江東男子部は毎年、「日本一の弘教」という金字塔を打ち立てた。広布拡大の実証で、師の真心に応えたのである。
◇
材木店を経営する日向輝夫さん(江東牧口区、区主事)は、先生の同会館初訪問に駆け付けた。師との出会いを機に、対話の勢いは、加速度を増した。
80年12月22日、先生が同会館に3度目の訪問。この直前、日向さんは先輩から"銘木を持って来てほしい"と連絡を受けた。
当日、先生との懇談会に参加。その後、生涯、忘れられない場面に出会う。日向さんが準備した銘木に、皆の要請で、先生が揮毫を始めたのだ。
「創価山桜」「丈夫乃譜」「福運山桜」と次々に筆を走らせた。
「江東同志を思う先生の深い深い慈愛に、"拡大の結果でお応えしてみせる"と誓いました」
81年(同56年)4月12日、夢の島総合運動場で開催した東京家族友好総会で、江東男子部は六段円塔を達成。日向さんは、演目の副責任者だった。六段円塔は、「世界初の快挙」として、ギネスブックにも掲載された。
壮年部に進出してからも、懸命な挑戦を重ねた。本部長を務めていた2002年(平成14年)には、本部として1年間で、196世帯の弘教という圧倒的な拡大を成し遂げた。
現在も、本紙の購読推進に率先する日向さん。「学会の永遠性を確立する今この時、先生と共に戦える喜びを胸に、東京凱歌の歴史を築いていきます」と誓う。
近藤豊嗣さん(江東太陽区、副区長)は、先生が同会館に初めて訪れた折、役員として参加した。
「いかなる障魔が競い起ころうとも、大聖人の仰せの通り、広布を進める学会を守り抜こうと決意しました」
波瀾万丈の人生を歩んできた。生後7カ月で母が亡くなり、小学校入学まで施設で育った。
その後も、3畳一間に家族6人が暮らす貧乏のどん底だった。1959年(昭和34年)、育ての母が信心の話を聞き、一家で入会。父母は、折伏に駆け回った。
72年(同47年)、父が発電設備の設置工事を請け負う会社を始め、近藤さんも会社を手伝うように。
その後、一定以上の規模の建築物に「非常用発電機」の設置が義務付けられ、会社は一挙に活況を呈するようになった。これまで、114の特許を取得している。
6年前の東日本大震災の時には、大型発電機4台をトラックに載せ、被災地へ。その後も、"少しでも復興の力になれば"との思いで、発電機を送り続けた。
町会副会長を23年、地元商店会の会長を5年務めるなど、地域活動にも尽力する。
「これからも愛する地域に尽くし、信頼の輪を広げていきます」と声を弾ませる近藤さん。4人の娘も、後継の道を進む。
◇
五十嵐清美さん(江東戸田区、婦人部副書記長、総区婦人部総合長兼任)は83年(同58年)、江東区女子部長の任命を受けた。"女子部も拡大で、先生にお応えしよう"と出発。86年(同61年)には、かつてない弘教を達成した。
先生の9年連続の江東区訪問で、数々の励ましを受けた。なかでも、84年(同59年)1月21日は、"宝の歴史"として心に刻む。
この日、江東会館を訪れた先生は、役員だった五十嵐さんに、家族や仕事のことなどを尋ねた。そして、「幸せになるんだよ」と優しく語った。
結婚後、五十嵐さんは流産、死産を経験した。だが、「幸せになるんだよ」との師の言葉が、悲哀を乗り越える力になった。
その後、2人の子どもに恵まれた。師への感謝を胸に、夫・義裕さんと共に、広布に駆けてきた。
2年前、義裕さんは霊山へ。最後まで、師を求め続けた"師弟一筋"の心は、長女の恵さん(女子部部長)、長男の未来さん(ニュー・リーダー)に受け継がれる。
「わが家は、先生、同志に支えられてきました」と五十嵐さん。今、自らの体験を語りつつ、友の激励に全力を注ぐ。その心は、"生涯、師恩に報いる弟子の道を"との誓いにあふれている。
——2002年(平成14年)5月、先生は詠んだ。
「前進を 合言葉の 江東区 東京一なる 誇りも高くと」
東京凱歌を轟かせゆく「日本一の師弟の陣列」——その名を「江東」という。