2017年3月9日木曜日

2017.03.09 わが友に贈る

何のための信仰か。
何のための人生か。
わが使命を自覚した時
計り知れない力が出る。
信念の道を朗らかに!

顕仏未来記 P508
『月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く』

☆女性に贈ることば 三月九日
幸福というも、地獄というも、骨、自分自身の胸のなかにある。心のなかにある。

☆今日のことば365 三月九日
人生には反省も必要であろう。反省のない人に向上はあり得ない。だからといって、反省が自己嫌悪になっては無価値となる。それはあくまでも、明日への向上のためのものでなければならないのだ。

☆御書と歩む 第54回 一遍の唱題に無量の福徳
『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』(観心本尊抄、246ページ)

◇通解
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足している。私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。

◇同志への指針
私たちの唱える題目の力は無量無辺である。釈尊はじめ一切の仏の修行の功徳も、仏の威徳も、全部この妙法五字に具わっている。
ただ一遍の唱題でも、功徳力は絶対である。ましてや、自行化他にわたる誓願の唱題行の福徳は、三世永遠に、わが生命とわが眷属を包んでいくのだ。「歓喜の中の大歓喜」の題目を、今日も朗々と唱えゆこう!

☆親が子に語る物語 人々を敬い続けたフキョー 2017年2月26日
◇一人ももれなく尊い存在
はるかとおいむかし、ダイジョーという国がありました。立派な仏様がいらっしゃって、人々はその教えを守り、豊かに、仲良く暮らしていました。
仏様がなくなると、国は、だんだんすたれていきました。人々は仏様の教えを忘れ、おたがいのことを信じられず、いさかいがたえません。
「おい、うちの畑から野菜を盗んだろう!」
「知らないね。おまえこそ、うちの鶏小屋から卵を盗んだろう!」
そんなとき、ひとりの若者があらわれて、ふたりの男に合掌し、ふかくこうべをたれて、こう、いいました。
「わたしは、あなたがたを軽んじません。尊敬します。なぜなら、やがて仏になられるからです」
ふたりは、拍子抜けしていさかいをやめました。
「なんだ、こいつ」
「へんなやつだな」
若者は、誰に会っても、「あなたを軽んじません」と、いうので、いつかフキョー(不軽)と呼ばれるようになりました。

フキョーは、毎日、町をいく人に声をかけました。
「わたしは、あなたを軽んじません。尊敬します。なぜなら、やがて仏になられるからです」
すると、ひとりのひげをはやした大男が、立ち止まって怒りました。
「おまえは、なんのつもりで、そういうことをいうんだ? 仏でもないのに、おれの未来を予言するのか?」
大男は、たずさえていた、つえをふりおろしました。
すると、フキョーは、身をかわして、つえのとどかないところから、同じことをいいました。
「なまいきな!」
大男が、足元に落ちていた石をひろって投げようとしたら、フキョーは、走り去り、遠くから大きな声でいいました。
「わたしは、あなたを軽んじません!」

フキョーが人々をうやまう礼拝行をするようになって、長い歳月がすぎました。
若者だったかれも、年をとって、髪が白くなっていました。もう、誰もフキョーのことを気にせず、町の風景のひとつになっていました。
ある日のこと。
「わたしは、あなたを軽んじません」と、フキョーがいいかけたとき、空から仏様の声が、きこえてきました。
「フキョーよ、あなたは仏になる。なぜなら、あなたは仏のすることをおこなってきたからだ」
フキョーは、見るからに威厳のある、立派な仏様になりました。かれをさげすんでいた人々は、びっくりしました。
「おい、フキョーが仏になったぞ」
「おれも礼拝行をするぞ」
フキョーのおかげで、ダイジョーは、人々が、おたがいを信じて、尊敬しあう豊かな国になりました。
◆ ◇ ◆
ぶん・村上政彦
え ・三浦哲

おうちの方へ
今回の「人々を敬い続けたフキョー」は、法華経常不軽菩薩品第20に説かれる「不軽菩薩」の話が基になっています。不軽菩薩は、釈尊が過去世において修行していた時の姿の一つです。
——威音王仏の像法時代の末に出現した不軽菩薩は、「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557ページ)という、「二十四文字の法華経」を唱えながら、会う人ごとに礼拝を行じました。
慢心の人々からは悪口罵詈や杖木瓦石の迫害を受けましたが、不軽菩薩は、この礼拝行を貫き通したことが因となって、「六根清浄」の功徳を得ます。不軽菩薩を迫害してきた人々も、一度は不軽を軽んじた罪の報いを受けますが、やがて罪障消滅し、再び不軽菩薩に巡り合って救われたのです——。
日蓮大聖人は、「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と、釈尊がこの世に生まれてきた目的が、"不軽菩薩のように万人を尊敬する生き方"を説くことにあったと述べられています。
誰もが尊い存在であるとの思想を、私たちは子どもたちに伝え、相手を敬う心を育んでいきたいものです。