信仰とは
諦めない勇気の異名だ。
「現状は変えられる!」
確信の祈りと行動で
宿命転換の勝利劇を!
新池御書 P1440
『始より終りまで弥信心をいたすべしさなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき』
☆女性に贈ることば 三月十五日
子どもは、いつか、独り立ちしていかなくてはならない。
「子どもを『幸福にすること』と『甘やかすこと』を混同してはいけない」とはフランスの思想家ルソーの言葉です。
子どもを幸福にするために大切なのは、どんな試練にあっても、それに負けない強さと勇気を育んでいくことではないでしょうか。
☆今日のことば365 三月十五日
絶望といい、不幸といい、それをそうと決めるのは、所詮、その人の心のしわざである。してみれば、希望というものは、まず自分自身の悲哀を克服したところに生まれるものだ。
☆魂のバトンを君に 池田先生と後継の友 中部 2017年2月27日
◇いざや築け!堅塁の金の城を
後継の友の輝く未来を信じ、共に祈り、共に語り、共に進む——各方面に刻まれた池田先生の青年部への激励行を追う新企画「魂のバトンを君に」。第1回は、中部を紹介する。
いざや起て
いざや築けと
金の城
中部の堅塁
丈夫勇みて
60年前の2月、池田先生は詠んだ。
戦いには急所がある。その舞台こそ、天下分け目の関ケ原があり、日本の中心に位置する中部であった。
中部に人材の堅き城が築かれてこそ、日本の広宣流布も盤石となる。それが先生の確信であった。
愛知、三重、岐阜——100回を超える中部への足跡。その一回一回を通し、先生は、中部の使命を語り、未来を託す青年たちを育ててきた。
◆◇◆
「青年部が前に来なさい」
1981年(昭和56年)11月27日。岐阜文化会館で、池田先生は語った。前方に座った青年たち。その一人一人の出身地などを尋ねながら、スピーチした。
「青年部は純粋だ。青年には未来がある」
翌28日にも、中部青年部の代表100人と2時間にわたり懇談。"文化祭を開催したい"との青年たちの熱意に、こう応じた。
「分かった。やろう! 君たち青年部が、一切を担って立つんだ」
当時、岐阜の男子部長だった石津泰伸さん(名古屋牧口総県主事)。「第1次宗門事件の渦中でした。池田門下が躍動する文化祭を通し、学会と先生の正義を示したかった」と振り返る。
その5カ月後。82年(同57年)4月29日に、第1回「中部青年平和文化祭」が岐阜県営陸上競技場(当時)で開催され、7万人の若人たちが乱舞した。
圧巻は、男子部3000人の組み体操。そこで、一つのドラマが生まれた。
5基のうち、中央の五段円塔が完成直前に崩れた。
観衆が息をのんで見守る中、不屈の心で再挑戦し、見事に完成させた。
その模様は、岐阜放送で実況中継され、学会青年部の心意気を満天下に示す文化祭となった。
やり切った!——誰もが満足感にひたったが、最後にあいさつした先生は、こう提案した。
"第2回の文化祭を開こう"。後日、その真意を語っている。
「倒れても立ち上がる不屈の精神、それが堅塁中部の魂なんだ」「一度で満足してはいけない。二度繰り返して本物になるんだ」
文化祭に、徒手体操で出演した飯沼研二さん(西濃圏、副圏長)。「"もう一度"との先生の提案に、青年を鍛えようとされる真剣さが伝わってきました」
「池田先生はすごい人だ、すごい師匠だ」。子どもたちにも常々、こう伝えてきた研二さんには、忘れられない光景があった。
77年(同52年)4月29日、中部第1総合研修所(現・三重研修道場)で行われた岐阜の青年部集会。先生は真心の激励を送った後も、バスで帰路に就く青年たちに手を振って見送った。「愛する青年たちのために、どこまでも心を砕く。これが先生なんだと胸が熱くなりました」
◆◇◆
第1回の文化祭から第2回までは、5カ月余り。次の会場は、三重の四日市市陸上競技場(当時)であった。
「短期間の準備であっても、同じ演目では意味がありません。あの頃は、新しいものを生み出そうと、真剣に語り合う姿が各所で見られました」。中部男子部主任部長だった中本好昭さん(中部参事)は言う。
当時、青年部の合言葉は「鍛錬」。弘教拡大に挑みながら、練習を重ねた。
迎えた82年(同57年)10月3日の第2回文化祭。体操やダンス、力強い行進などが披露され、フィナーレでは、3万3000人の若人による中部歌「この道の歌」の歓喜の歌声が、会場の空にこだました。
固く手を握り、肩を抱き合う友、涙を拭う友、拳を突き上げる友……。
感動さめやらぬ会場に、池田先生から伝言が届く。
「本当によかった。大、大成功おめでとう」
この日、福冨あけみさん(鈴鹿常勝圏、支部副婦人部長)は、文化祭の生中継をテレビで見ていた。のちに夫となる栄さん(同圏、圏副本部長)が、役員として支えていた。
「夫から信心の話を聞いてはいましたが、『私はやらない』と壁をつくっていました。でも、テレビを見て、それまでの"宗教"のイメージが一変しました。若者たちの迫力に圧倒されました」
あけみさんは、この3カ月後に入会した。
◆◇◆
岐阜、三重と、1年に2回の文化祭を成功させた中部青年部。翌83年(同58年)4月、池田先生が中部を訪問した折には、さらなる構想が発表された。
愛知での「世界青年平和文化祭」の開催である。それは、3年後の86年(同61年)と決まった。
次なる目標へ、先生の励ましは続いた。
85年(同60年)10月7日は、三重研修道場内に中部青年部が築いた「三重池田青年塾」の開所式に出席。「これからが若き諸君の本舞台だ」と。
翌8日には、「道が大事だ。真っ直ぐに進むんだ。道を間違えては駄目だ」と、「道」などの書を揮毫。「さっき青年塾で書いてきたよ」と、代表の友に披露した。
86年(同61年)9月には、群馬の文化祭に中部青年部の代表を招待。終わると、すぐに伝言を伝えた。
「一緒に帰ろう」
同乗した上越新幹線では、青年たちのもとに、次々と激励が届いた。
今こそ、堅塁の底力を!
君たちの手で新時代を!
後継の成長を願う心が、ひしひしと伝わってきた。
そして同年10月5日。愛知県体育館で、「世界青年平和文化祭」が開かれた。
「この明るさ、この色、いいね」
文化祭では、一つ一つの演技に拍手を送り、その模様をカメラに収めた。
当時、長野耕三さん(副中部長)は、中部青年部長として、先生に演目の説明をしていた。「演技の合間にも、出演者に気を配り、電光石火で励ましの手を打たれていました」
長野さん自身も、激励の当事者となった。教員をしていた頃の教え子が、ミュージカルに出演していることを報告すると、すぐに"皆に紹介してあげよう"。頑張っている人を一人も励まさずにはおかない、という気迫がみなぎっていた。
「岐阜、三重、そして愛知での文化祭。その全てに出演する中で、先生に原点を築いていただきました」とは、音楽隊のフラッグ隊を務めた加藤英知さん(中川王者区、支部長)。
愛知の文化祭の前年、音楽隊員としてハワイへ。その折、先生は提案した。
"お父さん、お母さんを亡くした人は植樹を"
中学1年の時、母親を失っていた英知さんも、植樹に参加した。「先生が目の前で見守ってくださる中、植樹をしました。"全部、分かってくださっている"。そう実感しました」
師弟に生きる英知さんのもとで育った3人の子どもたちは今、男子部・女子部・学生部のリーダーとして、後継の道を歩む。
◆◇◆
87年(同62年)9月20日、池田先生は、中部文化会館(現・中部池田記念会館)を訪れた。
70年前後の"言論問題"では最も厳しい風雪に耐え、80年代にも宗門事件の嵐が吹き荒れた中部。しかし烈風の中で断固と勝ち抜き、岐阜、三重、愛知の文化祭を節に、凜々しく成長した青年たちの顔があった。
先生は、中部の同志を前に、高らかに宣言した。
「よくぞ、ここまで戦い抜かれた」
「皆さま方の今日までのご苦労をたたえ、中部の『大勝利宣言』としたい」
「堅塁」——その「堅」の一字には、どんな試練にも揺るがぬ「堅固」という意味がある。どんな苦難をも耐え抜く「堅忍」という意味がある。そして、どんな変化にも勝ち抜く「堅実」という意味がある。
本年4月に愛知、三重、岐阜の各県で行われる創価青年大会に向け、青春の汗を流す中部青年部。堅塁の新たな時代を開く後継たちの挑戦が始まっている。