2017年2月23日木曜日

2017.02.23 わが友に贈る

他者に尽くす行動が
小さなエゴの殻を破り
境涯を大きく広げる!
学会と共に 同志と共に
人間革命の山を登れ!

法華初心成仏抄 P557
『譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』

☆女性に贈ることば 二月二十三日
人間として、たしかな目的をもって生き抜く人こそ、偉大であり、幸福です。

☆今日のことば365 二月二十三日
"遊ぶのはよいが、遊ばれてはいけない"とよくいわれる。遊びを楽しめることが必要なのであって、けじめつかずに流されてはいけないという意味らしい。虚無的な遊びは、結局、疲労と悔恨、そして悲哀がのこる場合が多いだろう。仕事にせよ、"遊ぶ"にせよ、もっとも生き甲斐を感ずるのは、人間らしい知恵を発揮して、何かを創造していく時であるらしい。

☆弟子の道−小説『新・人間革命』に学ぶ (下)
◇池田先生の「人間革命」 連載:1964年〜92年
学会再建に立った戸田先生

先生!伸一は征きます。先生がおっしゃった、わが舞台である 世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります!弟子の敢闘をご覧ください。
(小説『新・人間革命』=第29巻「源流」から)

池田先生は小説『人間革命』第12巻「あとがき」に、こう記しています。

「恩師の真実を伝える伝記を書き残すことは、私の青春時代からの誓いであった」
先生が戸田先生の小説の"続編"を記そうと思い立つたのは、 恩師の小説が新聞掲載される前、「小説を書いたよ」と原稿をポケットに入れ、うれしそうに話す師 を見た時でした。

1954年8月 には、戸田先生と共に、恩師の故郷、北海道の厚田村(当時)を訪問。 その思いを、さらに深めます。
執筆の決意が不動のものとなつたのは、長野軽井沢での、戸田先生との語らいの直後、57年8月14日でした。恩師の最後の夏であり、師弟の出会いから満10周年を迎える、まさにその日。池田先生は、恩師の生涯と精神を後世に伝えゆくことを、「不二の弟子とし ての私の使命」と誓ったのです。

「戦争ほど、残酷なものはない」。
池田先生が小説『人間革命』の執筆を沖縄の地で開始したのは、164年12月2日。戦争の爪痕が深く刻まれた地で、人間主義の平和の哲理を記し始めました。
先生が「最も頭を悩ませた」と語る小説の冒頭は、「地涌の菩薩」の使命を自覚した、戸田先生の出獄の場面から始まります。

第1章のタイトルは「黎明」。 後年、池田先生は随筆で「『人間革命』とは、人間の、そして人類の平和と幸福の『黎明』を開きゆく闘争である」とつづっています。出獄した戸田先生の心中にともされた、広布誓願の炎こそ、まさに、新しき時代を開く人類の黎明でした。

全12卷の小説『人間革命』は、 戸田先生が第2代会長となり、生涯の願業「75万世帯」を成し遂げ、弟子に広布のバトンを託すストリーになつています。その中で、山本伸一との出会いと、師弟不二のドラマが描かれています。
戸田先生の小説の「巌さん」と 同じく、「山本伸一」もまた、絶体絶命の苦境の中で、師弟の道を貫きました。第4巻「秋霜」の章では、戸田先生が、事業の破綻によって学会の理事長を辞任。多くの人たちがののしり、去る中で、 伸はただ一人、戸田先生こそが永遠の人生の師であると定め、次の和歌を、恩師に贈ります。
「古の奇しき縁に仕へしを 人は変れどわれは変らじ」

池田先生の小説『人間革命』の 執筆は、体調が優れない時にはロ述をテープに吹き込み、また時には、香峯子夫人の代筆により、続けられてきました。第10巻の連載が終了した78年8月からは約2年間、休載となり、その間、第1次 宗門事件によって、先生は79年4 月に会長を辞任。

80年09月、第11 巻「転機」の章から再開し、その後、世界広布の本格的な展開のためにカ走を重ね、10年半にわたる休載もありましたが、92年11月、 全12卷の執筆が完結。そして93年2月11日に連載を終了します。
当初、小説『人間革命』は、戸田先生の逝去をもって筆を置く予定でした。しかし、池田先生は、 伸一が第3代会長に就任するまでを描いた「新・黎明」の章を加えます。伸一の心に燃え上がる"弟子の一念"が、世界広布の黎明を告げたところで結んだのです。

◇池田先生の「新・人間革命」 連載:1993年〜
池田先生の世界広布の軌跡

「平和ほど、尊きものはない」 1993年8月6日、広島に原爆が投下されて48年に当たるこの日、恩師との思い出の地・長野の軽井沢で、池田先生は小説『新・人間革命』の執筆を始めました。
同年10月には、八王子市に東京牧ロ記念会館が誕生。学会創立記念日の11月18日から、聖教新聞での連載がスタートしました。
池田先生は、かつて随筆でつづっています。「弟子が師匠の誓願を受け継ぎ、その構想を実現する。広宣流布を事実のうえで伸展させる、この師弟不二という、 まことの後継の弟子の戦いを書き記さなければ、戸田先生、さらには牧口先生の本当の偉大さを宣揚することはできない」と。

第1巻の「はじめに」では、すでに、"完結までに30巻を予定"と明記されています。それは、弟子たちが織り成す後継の遥かなる道を描き抜く、人生を懸けた闘争宣言でした。

第1巻の冒頭は、山本伸一が、 第3代会長就任から5カ月後の3月2日、世界への第一歩を踏み出すシーンです。出発の日は、戸田先生の月命日である2日。アメリ 力、カナダ、ブラジルの3力国を歴訪する伸一の胸ポケットには、 恩師の写真が収めてありました。
池田先生にとって、『新・人間 革命』の執筆もまた、激務に次ぐ激務の中での闘争でした。先生は 「海外の旅先で、夜更けて原稿に向かった時もあった。地方指導の旅の車中で、構想を練り上げることも珍しくなかつた」と振り返っています。
池田先生の『人間革命』と『新・人間革命』。その共通テーマ は、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という哲理にあります。それこそが、「戸田先生が示された平和建設の原理」なのです。

戸田先生の小説のペンネームが「妙悟空」だつたのに対し、池田先生は「法悟空」という名を用いています。この対比について、池田先生は『新・人間革命』第1巻の単行本の「あとがき」で、詳しく説明しています。
もともと「妙悟空」は、『西遊記』の「孫悟空」をもじったものであり、生前、戸田先生は、「孫」には"小さなもの"の意味があり、この名は仏法で説く"空"の概念をわずかに悟ったことを表していると語りました。
それに対し、「妙悟空」の「妙」 は"妙法"を表しており、牢獄の中で生命の本質を悟つたことを示すペンネームになつています。
戸田先生と池田先生のペンネームを合わせると、「妙法」となります。池田先生は記しています。
「仏法では『妙』は本源、『法』 は現象。『妙』は仏界、『法』は九界」「いわば、『妙』は師、『法』 は弟子ということになる」と。

戸田先生の『人間革命』、池田先生の『人間革命』『新・人間革命』をひもとくと、その執筆の歴史、小説の内容の全てが、金剛不壊の"師弟の物語"そのものであることが明白になります。
「師弟して 人間革命 光あれ」
この池田先生の句の精神を胸に、日々の『新・人間革命』の連載を学び深めながら、自分自身の人間革命の大叙事詩をつづり残していきましょう。