2017年2月6日月曜日

2017.02.06 わが友に贈る

◇今週のことば
仏縁を結ぶ「勇気」
心を動かす「確信」
信頼を生む「誠実」
地涌の誇りも高く
幸の眷属を広げゆけ!
2017年2月6日

兄弟抄 P1083
『各各随分に法華経を信ぜられつるゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金はやけば真金となる』

☆女性に贈ることば 二日六日
負けるな! 断じて負けるな!
幸福が人生の目的だ。
そのために努力を!
そのために忍耐を!
生き抜くのだ。
愉快に生き抜くのだ。
強く生き抜くのだ。

☆今日のことば365 二月六日
信頼と尊敬に包まれた美しい人生の送れる人は、必ず、深く父母や師、また国家社会から受けた恩を知っている人だといえないだろうか。

☆二月闘争 65周年 池田先生の行動に学ぶ 2017年2月1日
「師弟の精神」は絶対勝利の力
〈拡大の要諦〉
・祈りから出発
・近隣を大切に
・体験を語る

恩師・戸田先生の願業である75万世帯の実現へ、池田先生が当時の支部における弘教の限界を打ち破った「二月闘争」から65周年。師の構想実現のため、弟子はいかに戦い、勝ったのか。その行動に学ぶ。

1951年(昭和26年)5月3日、戸田先生は会長就任式で宣言した。
「私が生きている間に、75万世帯の折伏は、私の手でいたします」
当時の会員数は約3000人。"戸田先生は、うんと長生きされるのだろう"と考える幹部もいたほど、「75万世帯の折伏」を、ほとんどの人が"夢物語"と受け止めたのである。
実際、広布は遅々として進まず、その年の12月の拡大は、全国で466世帯。このままでは、75万の達成には、100年以上もかかってしまう——。
年が明けた52年(同27年)1月、戸田先生は叫んだ。
「『雁行進』は、今月をもって、一切、打ち切りとする!」
雁は、横一列の編隊を組んで飛ぶ鳥である。横一線で、お互いが張り合っているのであれば、勢いも出るだろう。だが、馴れ合いになれば、惰性に陥るだけだ。
戸田先生は、「驀進あるのみ」と訴え、24歳の池田先生を蒲田支部の支部幹事に任命した。
闘争に臨む覚悟を、池田先生はつづっている。
「戸田先生が広布の大師匠として立たれた今、いったい誰が『戸田先生! 戸田先生!』と叫び抜いて、真実の『師弟不二の道』を示すのか」
「創価の師弟に流れ通う『絶対勝利の血脈』を、学会総体にみなぎらせるのだ」
「師と共に」「師のために」——この弟子の決定した一念こそ、一切の戦いの根本であることを、池田先生は、「二月闘争」で示したのである。

「二月闘争」で、池田先生は現在の「ブロック」に当たる「組」に焦点を当て、「組2世帯の弘教」という明確な目標を掲げた。
組には入会から日の浅い友もいた。組中心の戦いに対して、"できるわけがない"と言いだすリーダーまでいた。
だが、組単位の活動は、戸田先生の構想である。組中心の活動が軌道に乗るのか、停滞するのか——。
それは、師の広布の構想を実現する戦いであり、今後の学会の命運を決する試金石でもあった。
池田先生は「新しい人」を信じた。「新しい人」には、「新しい力」があるからだ。同志の勇気を鼓舞し、自ら広布の最前線に飛び込んで励ましを送っていった。
率先の行動を起こし、同志と共に動き、共に語りながら、先生は「二月闘争」で、三つの具体的な取り組みを展開した。
1点目は「祈りから始める」ということである。
先生は会合が始まる前に会場に到着し、必ず御本尊の前に座った。その姿を、蒲田支部の友は模範とした。祈りから出発することが、伝統となった。
2点目は「近隣を大切にする」である。
先生は当時、大田区内の「青葉荘」というアパートに住んでいた。近隣に爽やかにあいさつをし、時には子どもたちと、一緒に遊んだこともあった。
やがて、自らの部屋で開いた座談会に、隣近所の人たちが参加するように。入会する人も出た。
3点目は「体験を語る」。
先生は青年に、信仰体験を持つ壮年・婦人と一緒に対話に歩くよう訴えた。それは、「各部一体の団結」の先駆けであった。
また、自らの体験を語りながら、同席した友にも、体験や教学の基本を語るよう促すこともあった。その中で、皆が自信と確信を深めていったのである。

「二月闘争」の勝利は、2月だけに終わらなかった。蒲田支部は"三月闘争""四月闘争"も勝ち、その後も連続勝利の歴史を刻んだ。
その勢いは、四国や九州、東北、北海道など、全国に波及していった。「二月闘争」によって、恩師の願業実現への突破口が開かれたのである。
「二月闘争」とは、「壁を破る」先駆の戦いである。その精神は今、世界広布新時代を担う青年にも受け継がれている。
野中正博さん(東京・大田総区、区男子部主任部長)は、祖父と母が「二月闘争」の折に入会した。
9年前、条件のいい職場へ転職を勝ち取った。それまでは、仕事が多忙で、学会活動への参加は難しかったが、転職を機に、挑戦を開始。弘教も実らせた。
一昨年12月、先生が大田池田文化会館を訪問した。師の激励に応えようと、大田総区男子部は昨年2月、訪問激励に率先。翌月の記念総会を、1200人の男子部の陣列で飾った。野中さんも、師の青春の故郷で、人材の拡大に奔走した。
野中さんは現在、区牙城会委員長としても奮闘。「学会厳護」の使命に燃え、同志の激励に駆ける。
桑田啓子さん(同、総区女子部主任部長)の原点は、「二月闘争」50周年の時。この時、初めて友人を入会に導いた。
「"勝ってこその信心"。それが『二月闘争』の精神ということを教わりました」
祖母は、「二月闘争」の火ぶたを切った、鵜の木三丁目の集会所の「緊急組長会」に出席。「201世帯目」の弘教を実らせた。
緊急組長会で、池田先生は"戸田先生の誕生月を広布拡大でお祝いしよう"と語った。その心に、皆が呼吸を合わせたことが、「壁を破る」拡大を成し遂げた原動力となった。
桑田さんも今、"先生と共に"との心で、仲良き華陽姉妹と、地域で対話の花を咲かせている。

「二月闘争」の魂は今、世界の友にも広がっている。
昨年2月、インド創価学会(BSG)では、「カマタ(蒲田)キャンペーン」と題し、各地区で「二月闘争」を研さん。
友の心は勇気でみなぎり、対話に躊躇していたメンバーも歓喜をもって弘教に飛び出した。皆に「アイ アム シンイチ・ヤマモト(私は山本伸一だ)!」との決意があふれた。
時を同じくして取り組んだのが、「黄金地区」の達成である。
その内容は、地区で�1回の地区座談会に16人の新来者が参加�1カ月で60人の訪問激励を行う、というもの。
これまでにない戦いだったが、1000を超える地区が黄金地区を達成し、BSGは15万5000人の陣列を築き上げた。
75万世帯の達成へ、さらには今日の世界広布への「驀進」の原動力となった「二月闘争」。池田先生はつづっている。
「学会員は皆、偉大な菩薩である。ひとたび使命を自覚するならば、必ず第一級の広布の闘士として、本領を発揮できないわけがない。破れぬ壁など、断じてないのである」