後継の育成こそ
広宣流布の命脈だ。
皆で新しい人を
どんどん伸ばそう!
個性輝く人材城を築け!
治病大小権実違目 P997
『元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり』
☆女性に贈ることば 二月二十一日
一流の人格の人は、友情を徹底して大切にする。信義を重んじる。
☆今日のことば365 二月二十一日
私はテレビ文化そのものを、否定しているのでは毛頭ない。ただ、その相対として、活字文化が軽視されるのを悲しむのである。テレビの楽しさを享受しつつも、それに埋没してはいけない。一人一人が主体性をもち、逆にテレビ文化を支配していくとき、初めてテレビ文化を超えたといいうるであろう。"家に本なきは、人に魂なきがごとし"と私は思うのである。
☆誓いの天地 東京・中野区 2017年2月2日
◇信心の歓喜広がる青年の街 「今」を勝ち「ここ」で勝つ!
JR中央線で新宿駅から4分。
中野区は、中野駅を中心に、北は西武新宿線、南は地下鉄丸ノ内線が走る交通至便の町である。
特に近年は、中野駅周辺の整備が進み、北口の西側に「中野四季の都市」が誕生。区民が憩う「中野四季の森公園」を囲むように、オフィスビルや3つの大学などが立ち並び、新たなにぎわいを見せている。
中野駅北口から真っすぐに延びる中野サンモール商店街に向かうと、まず目に飛び込んでくるのが、おやき処「れふ亭」——今川焼きの名店である。
多彩なメニューに、庶民的な価格。何より、その確かな"味"を求めて、客足は絶えない。一番人気は小倉あんこだという。
「区内だけでなく各地から、遠くは韓国にも常連のお客さまがいます」と語るのは、千葉拓雄さん(中野戸田区、男子部本部長)。1984年(昭和59年)に父・公毅さん(同区、地区幹事)が始めた同店の経営を、専務として任されている。店長の林正樹さん(同区、男子部副部長)との息もぴったりだ。
千葉さんは生粋の"中野っ子"。青春時代はスポーツに汗を流し、高校では卓球の東日本大会で優勝した経験も。しかし、その後は一転、荒れた生活を送るように。
転機は22歳の時。男子部の先輩の激励と妻・美智子さん(同区、白ゆり長)との出会い、さらには"宿命に苦しむ友人を救いたい"と初めての折伏に挑んだことが、発心のきっかけになった。
以来、3年連続で弘教を達成。2004年9月26日には「21世紀中野兄弟会」の一員として、「『中野兄弟』栄光の集い」で、師匠・池田先生との原点を刻んだ。
分区の牙城会委員長も兼務。人材育成に奔走する傍ら、特技を生かし、60人以上が所属する卓球サークルで友好を拡大。商店街の2代目たちとも交流を深める。
社長の父と母・富江さん(同区、地区副婦人部長)が信心で築いた店を守り発展させようと、誠実第一の接客を心掛ける千葉さん。
「あまりにも 日本一かな 今川の 焼きたて見つめて 同志らは笑顔に」——池田先生から贈られた和歌を胸に、きょうも来店客との一瞬の出会いに真心を込める。
都心へのアクセスがよく、若者に人気のエリアとなっている西武新宿線沿線。その一つ、野方駅周辺の地域で女子部本部長を務めるのは、白藤啓子さん(中野牧口区)。訪問介護の事業所に勤める多忙な毎日の中、「楽しく朗らかに」をモットーに、はつらつと学会活動に励む。21世紀中野兄弟会のメンバーでもある。
将来への夢がなく、仕事で悩んでいた時、介護施設で働く親友の職場を見学。人と触れ合う仕事に魅力を感じ、かつて同じ業界にいた母・由美子さん(同区、支部副婦人部長)の勧めもあって、現在の会社に入社した。
だが、しばらくすると、経営方針の変更により、同僚が次々と退社していった。慢性的な人手不足が続く介護の世界。白藤さんは意を決し、上司に"皆が働きやすい環境づくりを"と直訴する。その分、周囲の2倍、3倍の努力を重ね、懸命に信頼を広げた。
そうした姿が認められ、4年前からは事業所の最年少管理者に。社内表彰も2度受賞し、模範の実証を示してきた。「利用される方々全員に満足していただきたい。『ありがとう』と言われるたびにやりがいを感じ、この仕事が大好きになります」
家族の事故や病、経済苦などの困難を、信心で乗り越えてきた白藤さん。生まれ育った中野では、中学の同窓会の幹事となって、卒業後も友情を大切にしている。
本部の女子部の活動者も増加。"楽しいところに人は集まる"との師の指導のままに、広布と社会の女性リーダーとして、縁する全ての人たちに希望を送り続ける。
◇栄光の共戦譜
中野は池田先生が手塩にかけて育てた、妙法の人材山脈である。
来る2月4日は「中野の日」。
1973年のこの日、先生は中野駅近くの中野体育館へ。「中野・青少年スポーツの集い」に出席し、参加者と記念撮影を行った。
先生は男子部・女子部・学生部・未来部のメンバーを「中野兄弟会」と命名し、ある提案をする。
一つは「将来の希望をメモに書いて、提出すること」。もう一つは「30年間、2月4日を中心にして、毎年集まること」であった。
「一流のジャーナリスト」と記した上田康晴さん(中野牧口区、副本部長)は当時、大学4年生。学会が権力から弾圧を受けた言論問題の後であり、胸中には正義の炎が赤々と燃えていた。
当初はアルバイトだった大手出版社で正社員採用を勝ち取り、漫画雑誌の編集部では担当した連載作品が大ヒット。「社内一の売り上げ」という目標を達成し、編集長、編集本部長に抜てきされる。
50代で取締役、常務取締役となり、学会組織では支部長に就任。唱題根本に病魔も克服し、信心の功力を深く実感してきた。
だが4年前、試練に襲われる。社内での意見の相違から、退社を余儀なくされてしまったのだ。
収入もなくなり、妻の香代子さん(同区総合婦人部長)と共に、ただ祈るしかなかった。折れそうになる心を支えたのは、師匠への誓いであり、欠かさずに参加してきた中野兄弟会の誇りだった。
1年後、フリーの編集者として新出発することに。かつての実績が高く評価され、企画編集の依頼が次々と舞い込むようになった。
「池田先生を範として、『一流のジャーナリスト』の道を追求していきたい」。上田さんは生涯、信念のペンを振るい続ける。
「大実業家」と書いたのは、学生部だった金子裕次さん(中野池田区、副支部長)。あの日、卓球の試合に"参戦"した先生の慈顔が、目に焼き付いて離れない。
大学を卒業し、父が営む工務店に就職。しかし2年後、父が亡くなると、潮が引くように取引先が去っていった。
題目を唱える中、リフォーム業を手掛けることを決意。最初は全く仕事が入らなかったが、具体的な目標を掲げ、祈り動いた。
経営は徐々に軌道に乗り、28歳で「金子外装工事」を設立。入会時はバラック小屋だった実家に、広布の拠点となる4階建ての会社兼自宅を新築した。妻・裕美さん(同区、婦人部副本部長)との間に誕生した3人の子は皆、21世紀中野兄弟会。夫婦で大病も乗り越え、報恩の道を一筋に歩む。
中野総区の団地部女性部長として、近隣友好に尽くす佐藤通子さん(総区副婦人部長)は振り返る。「記念撮影の折、清掃役員だった私に、池田先生は『風邪を引かないように。ありがとう』と、温かく声を掛けてくださいました」。夫の文孝さん(中野戸田区、副区長)は中野兄弟会である。
佐藤さんには忘れられない場面がある。85年6月15日。中野牧口区の中野北会館を訪れた先生ご夫妻と、中野駅南口近くで、ばったり出会ったのだ。先生は不登校になった小学1年生の長女・範子さん(蒲田広宣区、地区婦人部長)の両肩に手を置き、力強く激励。長男・伸孝さん(中野戸田区、男子部副部長)の前にしゃがみ、優しく頭をなでた。「また会おう!」。その後、範子さんは元気に学校へ通えるように。二人が21世紀中野兄弟会の一員となったことが佐藤さんの最大の誉れだ。
両兄弟会をはじめ、中野の隅々で綴られた師弟の共戦譜。池田先生は93年6月3日、中野池田区の中野南文化会館を車で視察。昨年5月25日には、中野戸田区の中野文化会館を写真に収めた。
何より中野は、戸田先生が学会再建の一歩を踏み出し、池田先生が中野駅から入信の儀式の場へと向かった広布誓願の天地。
「仏法の勝負は、常に『今』であり、『ここ』である。だから、『今』を勝つのだ! 『ここ』で勝つのだ!」——厳寒の冬から、躍進の春、栄光の夏へ、仲良き中野は先生と共に、新時代の凱歌の扉を、さっそうと開きゆく。