2014年5月23日金曜日

2014.05.23 わが友に贈る

会場提供の皆様に
心からの御礼を!
近隣への配慮も大切に。
地域の宝城ありて
広布は朗らかに前進!

弥三郎殿御返事 P1451
『名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦多宝十方の仏来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし』

◇希望の明日へ
青春に一書を持てる人は幸せである。悪い書物は悪友と同じように、自分を堕落させていく。良き"一書"は、すばらしき親友と同じく、生涯にわたって自分を高めてくれる。
平4・11・1

☆生命の光 母の歌」 最終章 未来へ喜びの交響曲を(中)
サイフェルト博士 今日、近代的な技術により、若い人たちにとってネットワークを築いたり、世界的なスケールでコンタクトを取り合ったり、情報を共有し合ったり、新しいことを知り、それに取り組んだりすることが、20年、30年前に比べて簡単にできるようになりました。
差異というものは、いつの時代でもありますし、あって当然です。各人が、自身のアイデンティティーと文化的価値を持ち続けながら、隣人(他者)とその文化的環境を理解、尊敬し、違いを尊重しながら、共通項を見いだし、"共存"する努力をしていくことが要請されています。

池田SGI会長 自分たちの文化を大切にしながら、相手の異なる個性や文化を認め、尊重し、良い面を学び合い、吸収し合っていくことは、グローバル社会を生きる私たちが心すべき要諦ですね。
閉鎖的では、硬直化し、独善的になりかねない。"開かれた心"で交流してこそ、自身の可能性の新たな発見もあるのではないでしょうか。
これからの青年のために、視野を広げ、心の世界を大きくする機会を、一段と増やしていきたいものですね。

サイフェルト そう思います。私には義理の娘がいます。彼女は上海出身の中国人ですが、私たちの間には、日常の些細なこと、意識しないところでも、まだまだ文化的な違いがたくさんあることに気づかされます。
しかし、だからこそ、正面から向き合うことが大事なのだと思います。つまり、ばかにされたと感じるような時も、いじけるのではなく、文化の違いから生じる差異をすぐに理解できずに異論がある場合には、オープンに意見を述べ合うことが重要です。
そうした意味において、若いうちに自国以外の文化についても、知っていくことが非常に重要になってきます。外国語の習得も、自身の視野を広めることになると言われますね。専門分野の領域を超えた学生間の交流を、より推進していくことが望まれます。
かつて、息子が日本へ学びに行く機会がありました。それは当時、高校修了資格試験を終えたばかりの彼にとって、その後の将来を左右するほど、大変貴重な体験になったのです。
文化は、人間を人間たらしめるものです。そして文化的な教育は、これで十分施したということはできません。ここで言う「文化」とは、了見の狭い、偏狭な意味合いの「民族の文化」ではなく、「世界市民としての文化」です。

池田 深く共感します。創価教育が志向してきた大きな焦点です。今年の「SGIの日」記念提言でも、「青年」と共に「世界市民教育の推進」を国連の国際共通目標とするよう、提唱しました。これは時代の流れではないでしょうか。
アメリカ創価大学で進めている多様性を重んじた教育について、昨年行われた、ある雑誌の調査では、アメリカに約250校あるリベラルアーツ(一般教養)大学の中で、米国外からの留学生の割合で1位、人種の多様性(留学生を含まない)で5位、在学中に米国外への留学を経験する比率が100%で1位であると評価されました。
日本の創価大学でも現在、47カ国・地域の148大学と学術協定を結ぶなど、世界市民教育に力を注いでいます。
この4月には、待望の「国際教養学部」を開設しました。幅広い教養と専門性、高度な英語運用・コミュニケーション能力を備えた「グローバル人材」を育成するのが目的です。
創価大学からは、貴国のクラーゲンフルト大学にも多くの留学生を送り出すことができました。同大学評議会の一員であられたご主人のウンカルト博士が、両大学の交流に尽力してくださったご高恩は、一生忘れません。

サイフェルト ありがとうございます。夫が、かなり関わった事業です。今も喜んでいるでしょう。
平和のため、未来のために、私たちは、どこまでも沈黙してはいけません。いくつになっても、言わなければならない時は、発言しなければなりません。そしてそういう時、私はいつも創価の皆さまから力をいただいているのです。
人の一生は本当に短すぎると思います。年を重ねれば重ねるほど、自身の残された時間を過ごすのに、より慎重になっていくものです。だからこそ、たとえ社会の第一線を退いた世代でも、「自分の人生はまだまだこれからだ」と決意し、前向きに生きていくことが大切です。私も、自身の文化的な人間形成ということを、四六時中、念頭に置きながら、学び続けています。
若い世代に継承することだけでなく、自分自身が、スポンジが水を吸収するように成長し続けていく。そして語っていくことが大切だと思っています。

池田 同感です。共に対談集を発刊した、平和学者エリース・ボールディング博士が、私に言われていた言葉を思い出します。
それは──今日という日は、満100歳の人たちが100年前に生まれた日であり、また100年後に満100歳となる赤子が生まれている日でもある。
私たちは、「200年」の範囲に生きる人々と共に、皆で「より大きな共同体の一部」をなしている。
「私たちはこの一生の中で、若者から年配者にいたるまでの、何と多くのパートナーに接することでしょう」──と。
ボールディング博士は、大変な闘病の中、亡くなる最期まで平和への志に生き抜かれました。お見舞いに訪れた次代の女性リーダーには、このように語り残されたと伺いました。「平和の文化は、放っておいては実現しません。自分かつくらなければ。一緒にやるのです」「歩みを止めないで! 自身がやっていることに喜びを持って!」と。

サイフェルト 感動しました。心から共感します。
思い出したことが一つあります。面白い物語です。
──あるところに、2人の駆け出しの聖職者がいました。
彼らは、生命がいつから始まるのか、つまり生殖の段階なのか、出生時なのか、議論していました。
そばのベンチに老婦人が座っていました。聖職者たちは「彼女なら知っているだろう。聞いてみよう」と言って質問します。
「私たちは、人生が一体いつ始まるのかと思案しているところなのですが、あなたはどのようにお考えになりますか」
老婦人の答えはこうでした。「そりゃあ、子どもが成長して巣立っていって、夫と飼い犬が亡くなった時さ」と──(笑い)。
そう、その老婦人は、まさにその時点から自分の人生について考え、そして彼女自身の人生を"生きる"時間を得たのです。

池田 難しい哲学の言葉は使わなくても、現実の大地に根を張ってたくましく朗らかに生き抜いてきたおばあちゃんにはかなわない。どこの国でも、母は偉大です。
日蓮大聖人が、門下の女性に「年は・わかうなり福はかさなり候べし」(P1135、「四条金吾殿女房御返事」)と激励されたお手紙もあります。
正しい信仰を貫き、行動していけば、年齢を重ねるごとに、いよいよ若々しく、福徳が増していく、と教られています。誰もがそうした人生を歩んでいきたいと心の奥深くで願っているのではないでしょうか。
今日のSGIを築いてこられた多くのお母さんたちは、年配になっても、若々しい心で、人々のため、社会のために、尽くしてくれています。

サイフェルト 私はSGIの婦人部の方々から、たくさんの精神の宝をいただきました。多くの力をいただきました。このことを、感謝の思いを込めて言わせていただきたいのです。感謝することは、何かをお願いすることより非常に大切なことです。
東京の信濃町に、素晴らしい、新しい建物──「広宣流布大誓堂」が落成したとも伺いました。
あらためて、おめでとうございます!
日本に行くと、いつも本当に温かい世界に触れて、幸せを感じます。ぜひまた創価学園や創価世界女性会館などを訪問したいと、強く願っています。

池田 オーストリアのSGIの婦人部の皆さんも、博士のような偉大なリーダーからさまざまに学ぶ機会をいただき、心から感謝し、喜んでいます。
日本の各地の女性リーダーも、博士との出会いの思い出を今も懐かしく大切にしています。

サイフェルト ありがとうございます。
私は「奇跡を信じないものは現実主義者ではない」という言葉を座右の銘にしています。偏狭で近視眼的になった学者や、自分の考えのみによって全てのことを判断してしまうような人たちが、これに該当します。本当に気の毒です。都会から離れた地域にいる農家の女性のほうが、はるかに精神的に富んでいます。
例えば、乳母車にいる子どもの手から人形が滑り落ちてしまって泣いていたら、(その悲しみに同苦して)空の星が震えている──そんな捉え方ができるのです。
"重大な"政治的出来事や経済的動向などより、人生に起こる些細で劇的な出来事こそが、実は世界をも揺り動かしているということを感じて、最も重要視していくべきと思うのです。

池田 豊かな感性が伝わってくるようです。「アフリカの環境の母」と讃えられたワンガリ・マータイ博士とお会いした際、印象的な話をされていました(2005年2月)。
博士が幼き日、母に「どうして空は落ちてこないの」と聞いたところ、「周囲の山々にいる大きな水牛の大きな角が空を支えているから」と答えてくれ、とても安心できたそうです。自然がどれだけ人間を守っているか、そのありがたみが子ども心に鮮やかに刻まれていった。それが後に、あの4,000万本もの植樹運動に結実しゆく揺籃となっていったわけです。
小さいことのようで、それがその人の心の奥底を動かし、人生を方向づけていく出来事があるものです。それは、いわゆる哲学や科学や政治、経済などの次元だけでは捉えきれない人生の実像です。
恩師は、よく言われていました。
「いかに優れた思想、哲学でも、たった一人の人間を救うことさえ容易ではない。できたとしても、せいぜい気休めの慰めぐらいのことではないか。ましてや、一国を根底からまるまる見事に救ったことなどない」──と。
だからこそ、一人の人間生命の尊厳性と可能性を信じ抜き、その人間革命を目指すことから全てを出発する創価の運動の深い意義もあり、平和・文化・教育の活動へ展開する必然的要請もあると思っております。