断じて師と共に!
強き誓願から
無限の力が湧く!
その心で戦い抜く人に
栄光の人生は輝く!
唱法華題目抄 P1
『かりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人は余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず』
◇希望の明日へ
芸術が、ある程度、"宇宙生命に内在する力を発現させたもの"だとすれば、芸術作品に触れて、歓喜するということは、それを通じて宇宙生命に触れるということでもある。芸術は"宇宙生命に出あう扉"ともなり得るわけである。このように、自己と他者が、芸術を通じて、宇宙の根源のリズムに共感し、感動を共有していくところに、普遍的な人類の心の連帯が可能になると信じる。美に出あうとき、人間は人間に立ち戻る。生命に立ち戻る。立ち戻った人間という平等の次元では、いっさいの"壁"はなくなる。
平4・7・31
☆NZのニュースサイト「スクープ・インデペンデント・ニュース」掲載 SGI会長のインタビュー(下)
──平和構築のために、異なる宗教間の協力は可能だと思われますか。また、どうすれば最も効果的に協力を推進できるとお考えですか。
そうした協力は可能であるし、むしろ、積極的に努力を傾けていかねばならないと思います。私自身、仏法者の一人として、世界平和の構築に向けて人間と人間との心の連帯を育むために、40年以上にわたって、異なる宗教的背景を持つ各国のリーダーや各界の識者の方々との「対話」を重ねてきました。
その経験を踏まえて実感することは、宗教的な教義に関する見解や、信仰の根幹部分を支える思想は違っていても、「平和を求める思い」や「世界が直面する問題への懸念」、また「人類の未来に対する切なる希望」といった面では、同じ人間として共感できる部分が明確に存在しているという点です。
例えば、インドネシアの元大統領で同国最大のイスラム団体の指導者であったワヒド氏は、私との対談で、「青年には、自身の利益だけを考える人ではなく、社会の利益を考える人、世界の平和共存のために行動する人になってもらいたい」(『平和の哲学 寛容の智慧』潮出版社)と切望しておられました。
こうした思いは、信じる宗教は違っても、心ある人々の胸に等しく宿っているものではないでしょうか。
では、どのようにして「宗教間協力」を築いていけばよいのか──。
私は、紛争や環境破壊、貧困や災害といったグローバルな問題について、具体的なテーマを一つ一つ掲げながら、"自分たちは何をなすべきで、どのような智慧や精神を社会に発信していくべきか"について対話を進めて、具体的な活動についても協力を模索したり、意見交換を行っていく──いわば「問題解決志向型」のアプローチが有益ではないかと考えます。
人類史を振り返ると、宗教的な対立が原因となって起こった紛争は少なくありません。
しかし近年、宗教の違いなど関係なく、人々を苦しめるグローバルな脅威が"共通の課題"として深刻さを増す中で、「宗教と精神性は、動機づけ、包摂性、参加および持続可能性にとって強力なプラスの社会・文化的な力であり得る」(『宗教と開発』ジェフリー・ハインズ著、阿曽村邦昭・阿曽村智子訳、麗澤大学出版会)といった、宗教が果たす役割への期待も寄せられるようになってきました。
実際、SGIの代表も参加しましたが、東日本大震災の数カ月後(2011年6月)にジュネーブで開催されたUNHCR(国運難民高等弁務官事務所)とNGO(非政府組織)の年次協議会でも、「保護の強化──信仰を基盤とした団体の役割について」と題する分科会が行われるなど、宗教団体の役割に焦点が当たるようになってきているのです。
その意味から言えば、それぞれの宗教が、「破壊」ではなく「建設」、「分断」ではなく「連帯」を求める"人間の善性"を呼び覚まし、地球的問題群の解決に向けての貢献の行動を重ねて切磋琢磨し、その磨かれた人間精神の発現を通して、さらに協力関係を深めていく──こうした挑戦を、国連を軸に本格的に進めていくべき時代を、私たちは迎えているのではないでしょうか。
この挑戦について考える時、チェコのハベル元大統領が21世紀を展望して述べた、「来たるべき世紀のヨーロッパに課せられている唯一無二の重要課題は、〈最良の自己〉であること、すなわち、その最良の精神的伝統を蘇らせ、それを通じて、新たな形の地球規模の共生の実現に創造的に関わっていくことである」(『ヨーロッパは書く』ウルズラ・ケラーほか編、新本史斉ほか訳、鳥影社・ロゴス企画)との言葉が思い浮かんできます。
ここでいう"ヨーロッパ"という主語を、"それぞれの宗教"に置き換えてみれば、21世紀の世界で宗教が果たすべき役割が、明確な姿を帯びてくるのではないかと、私は考えるのです。
さまざまな団体や機関と同様に、私が創立した三つの研究機関(東洋哲学研究所、戸田記念国際平和研究所、池田国際対話センター)でも、一貫して「宗教間対話」とともに「文明間対話」に意欲的に取り組んできました。
その最大の目的も、宗教や民族や文化といった豊かな多様性を互いに尊重しながら、対話を通じて、それぞれが〈最良の自己〉とは何かを見つめ直し、地球的問題群の解決のために互いの差異の垣根を超えて行動する道を、一緒になって模索することにありました。
現在、国連では、貧困や飢餓などに苦しむ人々の状況を改善するための「ミレニアム開発目標」に続く、2015年以降の新しい国際共通目標の検討が進められています。
この取り組みを、人類史を画する挑戦と位置づけ、新しい国際共通目標の達成を共に目指していく中で、「宗教間対話」、そして「宗教間協力」を軌道に乗せていくべきであると、私は呼び掛けたいのです。
──絶え間なく変化する現代世界において、インターネットや情報技術の役割をどのようにお考えですか。こうした現代社会において、私たち一人一人は、どのように行動していくべきであると思われますか。
今から30年ほど前(1982年)に基本概念が確立し、冷戦終結を機に急速に広まっていった「インターネット」をはじめとする情報通信技術の飛躍的な発展──いわゆる「情報革命」と呼ばれる新しい時代の波は、かの18世紀の「産業革命」に匹敵するインパクトを世界に及ぼしています。
その結果、瞬時にして世界各地で起きた出来事やニュースが伝わるというグローバルな情報伝達が可能になるとともに、冷戦時代には想像もできなかった、自由かつ柔軟なコミュニケーションの場がネット上で形成されるようになり、伝達手段という技術的意味合いにおいては、遠く離れて住む人々の交流を長らく隔ててきた地理的・物理的な制約は、急速に取り払われました。
そして何といっても、「情報革命」の大きな意義は、知識や情報が一部の人やグループに独占されることを防ぎ、民主的に、多くの人々に共有できる道を開いた点にあるといえましょう。
私たちは長い間、新聞やテレビなどのマスメディアが一方的に発信する情報に接してきたわけですが、貴紙のようなインターネット上のニュースサイトが、独自の視点でさまざまな問題を取り上げることの意義は大きく、その取り組みによって、人々が新たな問題に目を向けるようになったり、多様な視点に気づくことができるようになったりしたことは、社会の健全化の基盤となるものです。
私どもSGIも、長年にわたって途上国の視点に立ったニュースを配信してきた国際通信社IPS(インタープレスサービス)と共同で、「核兵器のない世界を目指して」と題するサイトをインターネット上に開設し、記事や論考を発信するプロジェクトを進めてきました。
2年前に行われたリオ+(プラス)20(国連持続可能な開発会議)の公式関連行事として、SGIが教育をテーマに円卓会議を開催した際、IPSのコスタンツォ中南米総局長が「私たちメディアが発信する情報は、読者の意識を高めることができます。報道の力によって、社会的な問題への関与が生まれます。メディアは情報提供によって、教育に携わっていると考えられます」と強調していましたが、貴紙をはじめとするインターネット上のニュースサイトの役割は、今後ますます大きくなっていくと思えてなりません。
もちろん一方で、情報技術の発展がもたらした可能性を悪用する動きもみられ、ネット空間が偏見や憎悪に基づく対立を増幅する温床として利用されたり、恣意的な情報操作やステレオタイプ(紋切り型)的なイメージの吹聴によって世論が巧みに誘導されたりしてしまう危険性も、よく指摘されるところです。その意味からえば、まさに「技術」を善の方向に生かすか、悪用するかは、それを使う「人間」の側にかかっていると言えましょう。
また、ネットで検索すれば、どんな知識もたちどころに閲覧できるようになったのは便利に違いありませんが、そうしたデータの多くは玉石混交であり、場合によってはミスリードを目的にした悪意に基づくものさえあります。
ゆえに、貴国やオーストラリアなどの国々が取り組んでいるような、「メディアリテラシー(情報や知識を主体的・批判的に読み解く力)」を磨くための教育を、世界全体で進めていくことが喫緊の課題であります。
私の師であり、教育者であった、創価学会の戸田城聖第2代会長は、「知識を智慧と錯覚しているのが、現代人の最大の迷妄である」「知識が即智慧ではない。知識は智慧を開く門にはなるが、知識自体が決して智慧ではない」と喝破していましたが、どれだけ情報を集めても、かえって自分の考える力を埋没させたり、悪意の情報に流されてしまえば、本末転倒になってしまう。「知識」へのアクセスがより簡易になり、多くの人々に開かれた時代であればこそ、その「知識」を正しい方向に生かしていく「智慧」を育むことが欠かせないのではないでしょうか。
私は、こうした「智慧」の源泉となるものは、自分の生き方の基盤に"何のため"という目的観を据えることであり、メディアリテラシーの力を磨く努力とともに、そうした確固たる人生の目的観を涵養(かんよう)する「人間教育」に焦点を当てていくことが、一切の基盤になると考えるものです。
──池田SGI会長は以前、牧口初代会長の著作を通し、ニュージーランドについて言及されたことがありますが、「水半球」の中心と位置づけられるニュージーランドの担う役割とは、どのようなものとお考えですか。
創価学会の牧口初代会長は、"国家に奉仕する人間"を育むことが教育の最優先課題とされていた戦前の日本にあって、「子どもたちの幸福」を第一義に掲げた教育者でした。
その一方で地理学にも造詣が深く、20世紀初頭(1903年)に著した『人生地理学』(以下、『牧口常三郎全集第1巻』第三文明社を参照。引用は現代表記に改めた)で、地球の姿を従来のように国境線が引かれた平面図として捉える見方だけでなく、人間の生活に与える影響という面から地球を「陸界」と「水界」に二分して捉える視座を提示し、具体的にロンドンを一方の極とした「陸半球」と、ニュージーランドをもう一方の極にした「水半球」を、それぞれ球体を示す円形の地図として紹介していました。
その上で牧口会長は、海を他の国々との間を隔てる"壁"とみなすのではなく、他の国々との間をつなぐ"道"と捉えて、世界に「平和の道」「友情の道」「調和の道」を開いていく気風を育むことが重要になる、と訴えました。
そうした限りない可能性に満ちた海を中心に構成される「水半球」の中心に、貴国ニュージーランドが位置していることは、現代的な視座からみても、極めて意義深いと、私には思えてなりません。
歴史を振り返れば、第2次世界大戦中、「大西洋」が第1次世界大戦に引き続いて戦場となっただけでなく、ニュージーランドと日本が面する「太平洋」もまた、激しい戦闘が繰り広げられた場所となりました。
こうした歴史の教訓を踏まえて、「水半球」から平和と共生のゾーンを広げるためには、貴国が長い歳月をかけて育んできた「多様性を尊重する文化」に加えて、明確な非核政策に基づいて「南太平洋非核地帯」の成立に尽力した努力のような、悲惨な戦争を二度と起こさない断固たる意志が欠かせません。
また、貴国は、世界でいち早く国政レベルでの女性参政権を実現させるなど、人権保障の確立に力を入れると同時に、社会福祉制度の充実を図ってきたことで知られており、「人権」と「人道」を国家の重要目的に据えていることは、世界の多くの国が後に続くべきモデルとなる存在に他なりません。
牧口会長は、先の『人生地理学』(以下、『牧口常三郎全集第2巻』第三文明社を参照。引用は現代表記に改めた)において、国家間の競争の主軸を、自国の利益を限りなく求めるあまりに他国に多大な犠牲をもたらすことを厭わない「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」から、他国や世界全体への貢献を良い意味で競い合い、その努力を通じて自国の姿をさらに良いものへと磨き上げていく「人道的競争」へと転換しなければならないと訴えていました。
私は、こうした「人道的競争」を21世紀の世界においてリードしていくのが、ニュージーランドであると考えております。
いつまでも、弱肉強食的で冷徹な"ゼロサム・ゲーム(覇権争い)"によって、多くの国の人々が虐げられるような世界の状態を、続けて良いはずがありません。
そうではなく、自他共の平和と幸福を追求する「人道的競争」を通じて、どの国の人々の尊厳も輝く"ウィン・ウィン(共存共栄)"の世界を目指す必要があり、私は、貴国のリーダーシップに日本をはじめとして多くの国が続く形で、こうした新しい地球社会が建設されていくことを、強く願っているのです。