2014年5月3日土曜日

2014.05.03 わが友に贈る

新時代の躍進へ
人材を見つけよう!
人材を育てよう!
わが地域から
平和と希望の大連帯を!

曾谷殿御返事 P1059
『命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候』

◇希望の明日へ
写真はあえて、その傾向性をいえば、"動"の芸術である。切迫感がある。絵画は、より"静"なる芸術といえよう。当然、優劣の問題ではない。ただ現代は"動"の時代であり、その時代性と歩調を合わせつつ、"今"を生きる人間と社会を表現するに当たって、写真は今後、いよいよ、大きな可能性を発揮すると確信している。
平1・11・26

☆希望の虹 〜世界の偉人を語る〜 第2回 看護の母 ナイチンゲール
みなさんは、「さつき晴れ」という言葉を聞いたことがあるでしょう。「さつき」とは、5月のこと。晴れわたった5月の空は、じつにさわやかです。
5月の5日は、わが創価学会の大切な大切な「後継者の日」です。みなさんが「さつき晴れ」の青空のような、かがやく心で、大きく、のびのびと成長していくことが、私の何よりの願いです。

「後継者の日」から一週間後の5月12日は、「国際ナース・デー(看護師の日)」です。これは"看護の母"として尊敬されるフローレンス・ナイチンゲールの誕生日を記念して決められたものです。
創価学会にも、看護の仕事をされている方の「白樺会」「白樺グループ」という集まりがあります。
また創価大学には、新たに「看護学部」ができて、みなさんの先輩たちが、一生けんめいに学んでいます。
こうした方々のお手本となっているのが、ナイチンゲールです。
ナイチンゲールは、今から200年ほど前の1820年、イギリス人の父母のもとに生まれました。
イタリアの花の都フィレンツェで誕生したので、その都の英語名であるフローレンスと名づけられました。
90年の生涯で、人類に、健康と幸福の花をおくり続けた、この偉大な女性のことを、きょうは、いっしょに学んでいきましょう。

みなさんも、かぜをひいたり、ケガをしたりして、看護師さんにお世話になったことがあると思います。大きらいな注射の時も、看護師さんにやさしくはげましてもらって、がまんできた経験はありませんか?
おさないころから体が強くなかった私も、そうでした。
とくに戦争中、肺結核という病気をかかえながら、無理をして鉄工所で働いていた時のことです。
ある日、体が重く苦しくて、たおれてしまいました。
その時、一人の看護師さんが、それはそれは親切に、めんどうを見てくださったのです。「ちゃんとした病院でみてもらいましょう」と、仕事場から病院まで付き添っていただきました。温かいはげましの真心は忘れられません。今でも感謝の題目を送っています。
ナイチンゲールも、かん者さんを安心させ、勇気づける、すばらしい人柄の持ち主でした。
ナイチンゲールの時代の病院は、今からは想像できないくらい、あちこちよごれていて、いやなにおいのする場所でした。病人の世話は、だれもやりたがらない仕事でした。
ナイチンゲールは、そのような時に、自分から進んで看護に取り組みました。そして、看護師という仕事を、だれからも尊敬される仕事に変えていったのです。
どうして、そんなことができたのでしょうか?
「人が喜ぶことをしたら、その人も自分も楽しく元気になれる」という生き方をつらぬいたからではないかと、私は思います。

ナイチンゲールの家は裕福な家庭でした。お母さんはやさしい人で、よく、同じ村のこまっている人に食べ物を届けてあげたり、病気の人のおみまいに行ったりしていたようです。おさないナイチンゲールも、母を見習って、近所にいる病人のお世話をすることがありました。「ぐあいは、いかがですか?」と声をかけ、薬を飲むのを手伝ってあげたのです。
そんなナイチンゲール自身がかぜをひいてしまい、何日も高い熱にうなされた時は、日ごろの彼女の助けに感謝していた、たくさんの人たちが、村じゅうから、おみまいに来てくれたといいます。
こうして、ナイチンゲールは、人のためにつくすことに喜びを感じるようになり、「看護師」を、自分の一生涯の仕事にしようと思い始めました。
しかし、じっさいに彼女が看護の仕事を始めることができたのは、30歳を過ぎてからでした。家族の大反対にあったからです。
そもそも当時は、裕福な家の女性がはたらくこと自体が"よくないこと"とされていました。ましてや、苦労の多い看護の仕事です。「看護師になりたい」と、ナイチンゲールが打ち明けると、お母さんは泣き出し、お父さんだけでなく、お姉さんまで大反対しました。
でも、彼女は決してあきらめませんでした。熱心に本を読み、看護の勉強を続けました。夢に向かって、何年も何年も努力をつみかさねたのです。
だんだん、味方をしてくれる人もふえ、お父さんの応援も勝ち取りました。そして仕事を始めると、それまでの勉強を役だて、みんながおどろくような、看護のゆき届いた最先端の病院づくりをリードしていったのです。
そんななか、イギリスと、ロシアとの間に戦争が始まりました。新聞からは、多くの兵士たちが命を落とし、けがをしていることが伝わってきます。
ナイチンゲールは立ち上がりました。彼女は自分から願い出て、だれも行きたがらない危険な地域の、あれ果てた病院に向かったのです。その深く尊い決意に、これまで反対しながらも見守ってきた、お母さんやお姉さんも心を動かされ、応援してくれるようになりました。
病院は、けがをしたり、病気になったりした兵士であふれていました。薬やベッドも満足にありません。でも、心を強くきたえてきたナイチンゲールは、断じて負けませんでした。寝る間もおしんで看病にあたりました。みんなが寝静まった夜も、ランプをもって病室を回り、苦しんでいる人がいれば、はげましていきました。
心も体も傷ついた兵士たちは、ナイチンゲールが通るのを見るだけで気持ちが休まり、よく眠れたそうです。
人々は、その姿を「ランプをもつ天使」と呼んで、感謝しました。
こうして、「人のために」がんばる看護師さんは、みなから尊敬される仕事になっていったのです。

日蓮大聖人は『人のために明かりをともせば、自分の前も明るくなる』(P1598、意味、「食物三徳御書」)と、言われています。
人が喜ぶことをすれば、自分の心も喜びでいっぱいになります。
みんなのお父さんやお母さん、また近所の学会員のみなさんも、同じ思いで、なやみがある人に会いに行き、話を聞いて一生けんめい、はげましておられます。
自分がなやみで大変であっても、それでも人のために行動します。時には、真心が理解されず、悪口を言われることもあります。でも、あきらめません。みんなで幸せになるために、ますます題目をとなえ、ますます元気になって、また行動していきます。これが、創価の生き方なのです。
その後継者である少年少女部のみなさんも、いつまでも、「人のためにという心」「人を思いやる心」を持ち続けてください。
その心には、「勝利の太陽」がのぼります。心に「勝利の太陽」がかがやけば、自分自身はもちろん、お父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん、周りの友だち、さらには世界の人たちまで、明るく照らしていくことができます。
5月の青い空のもと、さあ、元気いっぱい自分の目標に向かって、いっしょに、がんばろうよ!