感染症が拡大する中で
子育てに奮闘する家庭を
温かく励ましていこう!
「何か困っていないか」と
細かな気配りと配慮を!
経王殿御返事 P1125
『法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり』
【通解】
法華経の功力を思うと、不老不死は目前にある。
名字の言 98歳の女性部員が続けてきた日課 2022年2月24日
御年98歳。自営する喫茶店のカウンターに元気に立ち続ける"看板ママさん"がいる。「中高年の希望」と評判の女性部員だ▼石油ショック、バブル経済の崩壊など数々の危機を身をもって知る彼女が、多くの人生模様を見てきた実感をしみじみと語っていた。「派手な人、口ばかりの人は、いつの間にかいなくなっちゃった。やっぱり、コツコツ、コツコツ真面目に生きた人が、最後は輝くもんだねえ」▼彼女自身、水の流れるような地道な信心で、人生の起伏を乗り越えてきた。その中で、ずっと続けてきた日課がある。毎朝、池田先生ご夫妻の写真の前で、決意を固めて出発すること。"今日はあの人と仏法対話します""今日はこの人のために題目を"と。「私は先生の弟子なんだ。そう思うとエネルギーが無限に湧くんです!」▼思想家の新渡戸稲造がつづっている。「老人は過去に生き、青年は現在に生きる」(原文は英語、佐藤全弘訳)。その上で、どこまでも前を見つめ、決意に燃えて挑戦の日々を送る人は若々しい。広布を目指し、師弟の道を歩めば「永遠の青春」を生きられる▼ちなみに、彼女の地区には99歳で仏法対話に励む先輩、90歳で現役美容師の後輩もいる。皆さん、青春真っ盛りだ。
寸鉄 2022年2月24日
苦しい時も、楽しい時も御本尊を忘れるな—恩師 最後は"題目の人"が勝つ
「日蓮さきがけしたり」御聖訓。我らは御本仏に直結。今日も勇み広布へ(新1227・全910)
悩みを通して智は来る—ギリシャの箴言。青春の苦闘は財産。君よ果敢に立ち向かえ!
子を乗せた自転車の転倒事故など—8割が停止中に発生と。目を離さずに
SNSで違法薬物の売買横行と。好奇心で人生が破滅。社会全体から根絶
〈社説〉 2022・2・24 ポーリング対談から35周年
◇他者に尽くす菩薩道の実践を
歴史上で唯一、二つのノーベル賞(化学賞・平和賞)を単独受賞した「現代化学の父」。それが、アメリカの故ライナス・ポーリング博士である。きょう2月24日、博士と池田先生が初の出会いを刻んでから35周年を迎えた。1987年のこの日、博士はサンフランシスコの自宅から800キロの道のりを越えて、先生がいるアメリカ創価大学ロサンゼルス・キャンパス(当時)に駆け付けた。
当時は、東西冷戦のさなか。核兵器廃絶と平和運動に人生をささげる2人の巨人の対談は、"核の力より人間精神の力こそ偉大"との理念を共有するなど、1時間半にも及んだ。
以来、2人の語らいは4度。この間、対談集『「生命の世紀」への探求』が出版・翻訳され、世界各国で読み親しまれている。
先生が93年、米クレアモント・マッケナ大学で「十界論」に触れて講演した際、講評に立った同博士は名だたる学者らの前で語った。「私たちは十界論のうちの『ナンバー・ナイン(九界)』、つまり菩薩の精神に立って行動するよう努力すべきです」「私たちには、創価学会があります。そして、宗教本来の使命である平和の建設に献身される池田会長がいます」と。
菩薩の精神とは、悟りを求めて不断の努力を重ねる「求道」とともに、他者のために行動する「利他」の実践をそなえる。「自他共の幸福へ、自らを高め、行動する」のが菩薩道の生き方である。
博士自身、人々のため、世界の平和のために、民衆救済への、いわば菩薩の精神を貫き行動した一人だ。多くの悪意の非難・中傷などの圧迫をはねのけ、反核運動を半世紀にわたって続けた。だからこそ、池田先生と学会の平和思想に共鳴したのだろう。
日蓮仏法の肝心たる"菩薩道の実践"を現代に展開しているのが創価学会である。唱題によって"強く、清らかな生命"を涌現し、他者の苦に思いを巡らせて真心の励ましを送る。こうした「利他」の生き方への転換にこそ、差異やエゴから生じる争いを乗り越えゆく直道がある。
地球上にあらゆる問題が山積する今こそ、一人一人が生命の境涯を高め、人のため、社会のために行動する"菩薩道の実践"を貫きたい。その広がりの先に、人間と自然が調和し、平和と共生の社会が実現することを確信する。
☆青年・飛躍の源流——二月闘争70周年 第3回 確信の祈り、確信の対話
「二月闘争」の開始に当たって池田先生は、"組2世帯の折伏"という目標とともに、蒲田支部の同志に、その具体的な実践を訴えた。
「祈りから始める」
「近隣を大切にする」
「体験を語る」
この三つである。いずれも、池田先生が自ら実行してきたことだった。
先生が住んでいた大森の「青葉荘」の近隣には、複数の学会員がいた。
市ケ谷にあった戸田先生の会社で身を粉にして働き、広布の活動に東奔西走する先生だったが、在宅かどうかは、聞こえてくる朗々たる題目の声で分かったという。
◇生命の勝利の炎
近隣のある友は、自宅での座談会に、急きょ先生に参加してもらった。折伏に苦戦していることを話すと、先生は「ちょっと外へ行ってきます」と。紙芝居をやっていた人を連れてきて対話し、入会が決まった。
「先生の力はとにかくすごいよ。結局、題目の力でしょうね」
先生が座談会を担当する時は、必ず早くに会場を訪れ、唱題した。そして、三々五々集ってくる同志を「ご苦労さま」「よくいらっしゃいましたね」と温かく励ますのが常であった。
広布の戦いは、祈りで決まる。あの56年(同31年)の「大阪の戦い」も、関西本部常住の御本尊の前に端座することから始まったように、先生のこの姿勢は一貫していた。
先生はつづる。
「『祈り』とは、観念ではありません。燃え上がる生命の勝利の炎です。この一念の炎があれば、祈った瞬間、生命はすでに勝っている」
「広布の目標に、『よし、戦うぞ!』『断じて勝ってみせるぞ!』と挑む。この『現在』の決意の一念が『因』となって境涯が開け、不可能をも可能にしていく力が発揮できるのです。私も、この師子奮迅の連続闘争で勝ってきました」(『御書と師弟1』)
また近隣には、51年(同26年)5月3日、戸田先生の第2代会長就任の日に、池田先生の折伏で入会した友がいた。先生は、朝は青葉荘で、夜は自宅を訪れ、勤行を教えてくれたという。
「先生の帰宅は、近所の私たちにはすぐに分かりました。いつも高くて大きい声で、『同志の歌』など学会歌を歌って帰ってこられたからです」
先生は、地域で堂々と創価の旗を掲げ、信仰の喜びの輪を広げていった。当時を述懐して先生は語る。
「特別な作戦などない。要は、一人ひとりが、自分のいる場所で、自分の身近な縁に目を向けて、そこから、勇気の対話の一歩を踏み出すことだ。
ここで戦うと腹を決めれば、会う人、縁する人に向き合う一念が変わる。自分の祈りが深まれば相手も環境も変わる。それを避けていたら、いつまでも、自分の『本国土』とはならないのだ」(「随筆『人間革命』光あれ」)
◇波動は全国へ
池田先生の真剣な祈りと励ましに触れ、蒲田支部の広布の戦線は東京を越え、函館、名古屋、大宮、水戸、浜松、沖縄など全国へ広がった。
蒲田支部から転任した同志によって、関西での折伏第1号が実ったのも、二月闘争のさなかである。
先生が、「"まさか"が実現」と世間を驚嘆させた「大阪の戦い」の栄光は、それからわずか4年半後のことである。
雪国の秋田にも、二月闘争の勢いの中で広布の灯がともった。蒲田支部を源流として発展した秋田は今年1月、先生との不滅の原点「雪の秋田指導」から40年を迎えた。
こうした、全国を舞台にした拡大戦の中で、「もう一つの二月闘争」ともいうべき戦いが繰り広げられたのが、多摩川を挟んだお隣の神奈川・川崎である。先生もガス橋や丸子橋を渡って、幾たびとなく座談会に入った。
新丸子の座談会でのこと。新来者の一人の青年が、ガムをかみ、柱に寄りかかって、不遜な態度だった。会場に漂う嫌な空気を断ち切るように、先生は毅然と言った。
「だらしない格好で、大聖人の偉大な仏法を聞き、正邪を判断することはできません。学んでいくこともできません。道を求めてこられた、ほかの方の邪魔になります。どうぞお帰りください」
驚いた青年は、居住まいを正し、真剣に先生の御書講義に耳を傾けた。2日後に、その青年は入会したという。
確信の祈り。確信の対話。礼儀正しく、それでいて、会えば必ず温かい声を掛けてくれる。"指導は会員が受けに来るもの"と構えていた幹部も多かった中で、組の隅々まで自ら進んで足を運ぶ——。
24歳の池田先生の振る舞いは、それまでのリーダーと全く違っていた。その姿を模範に、友も懸命に祈り動き、精いっぱい語っていった。
池田先生は述べる。
「信心に励む中で自らが実感する体験や喜び、確信を、飾らずにありのまま伝えていけばよいのです。それが真実の言葉です」
「相手の幸福を真剣に願って誠実に語る一言。満々たる生命力から発せられる確信と歓喜の一言。友の苦悩を突き破る勇気と希望の一言。その『一言』こそが、相手の生命の仏性を呼びさましていくのです。ゆえに『一文一句』でも語ること自体が立派な折伏行であり、その尊き聖業に福徳が薫らないわけがない」
「私が二十四歳の時にわが故郷・大田の地で拡大の指揮を執った折にも、この思いを胸に戦いました」(『勝利の経典「御書」に学ぶ11』)
◇「何でもこい」と希望に燃えて 原田会長を中心に各部代表者会議
第13回各部代表者会議が22日、原田会長を中心に、東京・信濃町の広宣会館(学会本部別館内)で行われた。
池田大作先生はメッセージを贈り、誠心誠意で広布のさまざまな陰の労苦を担う友の奮闘に感謝。
変わらざる信心の真心を尽くす南条時光を「法華経の御いのちをつがせ給うこと、三世の諸仏を供養し給えるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申すばかりなし」(新1869・全1512)と称賛された御文を拝しつつ、妙法流布のために祈り、心を砕き、行動していくことは、たとえ地道であっても三世永遠の仏天の威光勢力を増し、全人類の仏知見(仏の智慧)を開いていくことである。これほど深い聖業はないし、これほど大きな功徳もない——と強調した。
次いで、70年前の「二月闘争」を走り抜いた1952年(昭和27年)2月25日。各地区、各組からの報告が終わり「200世帯」で締め切られようとしたその時、地区担当員(現・地区女性部長)の方が「ちょっと待って!」「もう1世帯、弘教が実った!」と大歓喜の笑顔で飛び込んできて、劇的な「201世帯目」となった歴史に言及。「一人と仏縁を結べば、横には世界へ、縦には未来へ、限りない幸福と平和の波動が広がる」と訴えた。
最後に、ある年の2月、友が決意を込めて作成した文集に、「希望に燃えて」と題する一文を寄せた歴史を述懐。その結びにつづった「何でもこい!と、戦おう。そして勝とうよ」との言葉を今再び、全宝友に贈りたいと述べ、「弥生3月、青年部幹部会の大成功を祈ります!」と呼び掛け、メッセージを結んだ。
原田会長は、3・16「広宣流布記念の日」の歴史に言及しつつ、広布拡大の結果をもってこそ、「3・16」を迎えることができると力説。青年を先頭に各部一体で前進し、勇気の対話で飛躍の実証を示そうと望んだ。
さらに、小さな油断や慢心から広布の城は崩れると述べ、透徹した信心と団結で魔を打ち破り、「3・16」から「4・2」「5・3」へ、連続勝利のリズムをと訴えた。
また、長谷川理事長、谷川主任副会長、押金少女部長があいさつした。