"重い車に油を塗るように
船を水に浮かべるように"
友の心が「軽く」なる
賢明な励ましを送ろう!
そこから広布の前進が!
上野殿御返事 P1554
『夫れ海辺には木を財とし山中には塩を財とす、旱魃には水を財とし闇中には灯を財とし女人は夫を財とし夫は女人を命とし王は民を親とし民は食を天とす』
【通解】
海辺には木が財であり、また山中では塩が財である。旱魃では水が財であり、また闇の中では灯が財である。また、女人は夫を財とし、夫は妻を命としている。国王は民を親のように本とし、民は食物を天のように尊く思うのである
名字の言 「二月闘争」で入会した壮年が頼りにしたもの 2022年2月9日
かれこれ40年ぶりに再会した同級生らと談笑中、通信手段を回顧する話題になった。幼少期、自宅に電話はなく、近くの家の呼び出し電話にお世話になった。学校に上がった頃、家に黒電話が付き、ポケットベルや携帯電話を持ったのは社会人になってから……▼技術開発で便利になるのは歓迎である。だが、一同は「不便な通信環境の時代を過ごせてよかった」とも語った。その理由はこうだ。以前は誰かと瞬時に連携を取り合うことがかなわなかった。でもその分、出会えた時の喜びやありがたみ、反対にすれ違いや別離の悲哀などを十分に味わえた、と▼70年前、出稼ぎで上京中の壮年が「二月闘争」を展開した蒲田支部による弘教201世帯の中の1人として入会した。その後、帰郷した壮年は地域を折伏に歩いた▼入会間もない彼は、対話をしても相手の質問に答えられない。その場で先輩に連絡を取ろうにも手段がない。頼りは手に入れたばかりの御書全集と、自分自身でつかんだ信心の確信。彼は仏法の功徳や学会の未来を汗だくで語った。その熱意に打たれた友人は入会し、共に広布へ歩みだした▼便利な生活は技術の進歩で築けよう。だが、豊かな人生を勝ち開くのは、いつの時代も人の心である。
寸鉄 2022年2月9日
地涌の菩薩は「其の心に畏るる所無く」と法華経。青年よ対話の道を堂々と
きょう民音の日。文化は生命潤す偉大な力。支える推進委員の奮闘に敬意
たゆまず流れ出ずる水の信心であれ—戸田先生。日々挑戦の祈りから出発
熱戦続く北京五輪。限界突破の選手に拍手。我らも拡大の新記録を今こそ
トイレ修理等の高額請求に注意。若者の被害急増。"格安"に釣られず要確認
〈社説〉 2022・2・9 コロナ禍2年、本紙の取り組み
◇変わらないために変わり続ける
"伝統とは、変わらないために変わり続けること"——純米大吟醸「獺祭」を醸す旭酒造の桜井博志会長が本紙のインタビューで語った言葉だ。
何を変え、何を変えないのか。コロナ禍にあって、聖教新聞の制作現場では、葛藤と挑戦の日々が続いている。
2020年2月、新型コロナウイルスの第1波に見舞われ、全国で会合が中止に。1、2面を飾っていた会合報道ができなくなった。さらに外出自粛に伴い、対面での取材は極めて困難になり、中止や延期にせざるを得ない企画が続出。迫り来る危機感から、「真っ白の新聞が届く夢を見た」という記者もいた。
ウイルスの脅威に対する不安が日増しに高まる中、"今こそ、希望を紡ぐ記事や写真を届けたい"——編集、写真、レイアウトなど部署を超え、全国の支社・支局と結束し、アイデアを絞った。オンラインや電話での取材に切り替え、対面で行う際は感染防止対策に万全を期した。
「危機の時代を生きる」「世界の友は今」「紙上教学研さん『世界を照らす太陽の仏法』に学ぶ」「青年部と医学者による会議」「信仰体験 新型コロナに立ち向かう」などの連載を開始。動画にも注力し、池田先生のピアノ演奏や国内外の同志による合唱も配信した。
まさに手探りの試行錯誤。最大の励みは読者の皆さまからの声だった。「世界が不安に陥る中、今や私のライフライン(命綱)になっている」「同じ境遇の友が奮闘する体験に奮起した。懸命に祈る中、好待遇の転職が決まり、10人を超える友人への購読推進も実った」など。読者の要望や率直な意見から、オンラインミーティングに関する情報やコロナ禍での妊娠・出産、家事、育児、メンタルケアについても紙面に掲載した。
移動制限により、本紙記者に代わって奔走してくださった通信員。"信心の糧として聖教新聞を待つ人がいる"と配達してくださった「無冠の友」。こうした皆さまをはじめ多くの方の支えにより、困難を一つ一つ乗り越えてくることができた。
コロナ禍になって2年。いまだに終わりは見えない状況だが、苦難に負けない哲学、人々の心をつなぐメッセージを届けるため、これからも変化を恐れず、価値創造への挑戦を続けていきたい。
☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第13回「御書発刊」 悩む"一人"の心に希望の灯をともせ
【「若き日の日記」1951年(昭和26年)6月9日から】
堂々と、自己の信念で
進みきれる人は、偉い人だ。
頑なでなく、偏狭でなく、
根本の真理を確信して。——
◇令法久住の布石
第2代会長・戸田先生が、弟子たちに"大楠公"を歌うよう言ったのは、『日蓮大聖人御書全集』(以下、御書)の完成を祝う集いの席上だった。1952年(昭和27年)春のことである。
"大楠公"は、南北朝時代の名将・楠木正成、正行の父子を歌った歌だ。
♪青葉茂れる桜井の……
一人また一人と出てきて舞ったが、戸田先生は首を横に振った。「ダメだ、次!」
最後に立ち上がったのが、24歳の若き池田先生であった。その瞬間、場の雰囲気は一変した。舞の途中で、手綱を持つような仕草をする戸田先生。馬上の父・正成のごとき恩師と、子・正行のごとき愛弟子・池田先生の"父子の呼吸"だった。
曲が終わると、戸田先生は言った。
「よし! もう一回!」
池田先生の舞は何度も繰り返された。
この年の4月28日、立宗700年の日に当たっての御書発刊は、両先生の"師弟の呼吸"の激闘があって実現した一大事業だった。
戸田先生が創価学会による御書の発刊について、固い誓いを述べたのは、第2代会長就任の翌月のことである。
「たとえ会員諸君が、不可能な難事業なるがゆえに、反対しようとも、決行すべき事業であることには変わりない」
実際、発刊のためには、いくつものハードルがあった。当時、学会員は5千人に満たず、御書に使用するインディアペーパーの発注などに要する経済的基盤がなかった。発刊を予定する立宗700年まで1年を切り、編纂、校正の時間も限られていた。しかし、御書発刊は、広布伸展のために、絶対に成し遂げなければならない"戦い"だった。
戦時中、軍部政府の弾圧で、多くの幹部が退転したことについて、戸田先生は、「信心の推進力となるべき、信心の何たるかを明かす教学がなかった。御書を読ませることを忘れていた」と述べている。
創価学会による御書発刊は、"令法久住の第一の布石"だった。
◇創価三代による結晶
"学会による御書の出版は了承するが、援助はしない"——学会の御書発刊事業に対する宗門の反応は、極めて冷淡なものだった。
戸田先生は、その時の心境を述べている。「難関は覚悟のうえであったが、宗門の援助が得られぬと決定した時には、胸にわき上がるものがあった……」
昭和初期、宗門では"御書新集"を出したことがあるが、「一生成仏抄」「生死一大事血脈抄」などの多数の重書が抜け落ち、他宗の誤った読み方を踏襲していた。戦時中には、軍部政府を恐れ、国家神道と衝突しそうな御書の御文を14カ所も削除。御書全集の発刊を禁止し、大謗法を犯した。
本来、日蓮正宗を自認する宗門こそ、聖典たる御書の発刊に尽力すべきであろう。しかし、立宗700年に向け、宗門が力を注いだのは、なんと「梵鐘(寺の鐘)」の鋳造だった。
戦時中、軍部に協力し、兵器資材として梵鐘を供出したため、戦後、再び造ろうとしたのである。宗門は、正法正義を守り抜く精神を失っていた。
聖教新聞の「寸鉄」で、戸田先生は宗門の姿勢を痛烈に戒めた。「御山でゴシュ(御酒)は作っても、ゴショ(御書)を作れぬ坊主が居るってね」
結局、恩師の陣頭指揮のもと、学会が一切の費用と校正作業等の人員を出し、御書発刊に総力を挙げたのである。
1951年(昭和26年)末に初校の作業が始まった頃、初代会長・牧口先生の霊艮閣版の御書が警視庁から戻ってきた。軍部権力に屈しなかった牧口先生、戸田先生が、43年(同18年)7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕された際、刑事に押収されたものであった。
戸田先生は、牧口先生の御書をなでながら言った。「牧口先生も、御書発刊と聞いて、この御書校正の席においでになったんだよ。われわれと一緒に、校正をやってくださるのと同じことではないか」
この恩師の深い思いを誰よりも理解し、陰ながら支え抜いていたのが池田先生だった。
この時期、戸田先生の事業は、最悪の状況は脱したものの、思わしい状況ではなかった。池田先生はつづっている。
「(戸田)先生は、発刊の資金のことを悩んでおられた。私は先生の事業のいっさいの責任を担い、御書発刊という師の聖業を、陰で黙々と支えた。その奮闘は、先生だけがご存じであった」
大聖人の精神を守り抜くために命を懸けた創価三代の師匠の実践がなければ、御書の発刊は成し得なかった。
経典がいかに優れていても、持つ一人一人が日常的に触れ、"生活の柱"としていかなければ、その精神は形骸化してしまう。御書発刊以前から、日々、大聖人の御金言を拝し、恩師の講義を受け、さらに、御文を通して同志に励ましを送り続けていたのが池田先生であった。
◇「歓喜」とは学会精神
"御書が出来上がったら、自分で御書を開いて調べてほしい"——御書発刊の光明が見え始めていた頃、池田先生が、ある同志に引いた一節が、「御義口伝」の「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(新1097・全788)であった。
「『歓喜』っていうのは『学会精神』のことだよ。『広宣流布』のことだよ。歓喜がなければ折伏もできないじゃないですか。一人が一人を折伏して、だんだん拡大していくことを『大歓喜』というんだよ」
友は先生の激励に奮い立ち、御書根本に活動に励んでいくようになる。
70年前の2月、先生が蒲田支部幹事として、支部201世帯という拡大の金字塔を打ち立てた「二月闘争」の最中、御書の予約申し込みが行われていた。
ある同志が指導を受けるため、先生の住む青葉荘を訪ねた。この時、先生は大聖人の御金言を拝し続けていくことの大切さを語った。「御書を読みましょう。御書は分かっても分からなくてもいいから読むんですよ」
対話・拡大の中で御書を拝し、決意を新たにして、再び対話へと駆けていく——。その実践によって、御書の精神は自身の生命に刻まれていく。
先生は、激闘の中で御書をひもといた。日記には、日々、拝した御文がつづられている。
「凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり……」(『若き日の日記』、1950年6月26日)、「……よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(同、51年3月23日)
御書の「発刊の辞」に、戸田先生は「大聖人の御書を敬い之に親しむこと天日(=太陽)を拝するが如く」と寄せている。毎日、日光を浴びるように、日常的に御書を開いていく——その実践を、池田先生は身をもって教えた。
学会の教学運動は加速度を増していき、1953年(昭和28年)11月、戸田先生は御書の再版を決定。池田先生は、男子部の第1部隊長や文京支部長代理を兼任しながら、十数回にわたって印刷所での校正作業に全魂を傾けた。
57年(同32年)も、「夕張炭労事件」の嵐が吹き荒れる中で、校正に当たっている。先生は、御書根本の励ましによって数々の拡大の金字塔を打ち立てていく陰で、経典の精神を守るための戦いにも尽力したのである。
御書を開くということ——それは、大聖人の精神を心に刻むことであり、創価三代の師匠の不滅の大闘争を継承するということである。
昨年11月18日、『日蓮大聖人御書全集 新版』が発刊され、池田先生は「序」に厳然と示した。
「この御書を抱きしめながら、創価の師弟は一丸となって『行学の二道』に邁進し、悩み苦しむ庶民一人一人の心に『人間革命』と『宿命転換』への無限の希望と勇気の灯をともしてきた」
「御書に展望された『仏法西還』さらに『一閻浮提広宣流布』の未来記を遂行してきたことは、創価の師弟の誉れである」
学会創立100周年へと飛躍する創価の弟子には、"仏の未来記"の新たなるドラマをつづりゆく重大な使命がある。
☆輝きの瞬間 2月の広布史
◇師弟共戦の魂光る2月11日
「実は、本日2月11日は、私の亡き恩師・戸田城聖創価学会第2代会長の誕生日なのであります」
1992年2月11日、池田先生はインドのガンジー記念館の招請を受けて行った講演の冒頭、恩師への思いを語った。
「私どもの『平和』と『文化』と『教育』の運動は、すべてこの恩師の精神と行動を受け継いだものであります」
2月11日——毎年巡り来る恩師の誕生日。この当日や前後の日に、池田先生は幾度となく、世界各地の要人や識者と会談。また、先生への名誉市民称号、名誉学術称号の授与式などが行われた。それらの席上、先生は恩師・戸田先生の偉業を宣揚し続けてきた。
93年の同日には、ブラジルのリオデジャネイロ連邦大学から名誉博士号が授与された。軍事政権時代には、先生の入国が拒まれるほど、創価学会に対する偏見が激しかったブラジルからの、第1号となる名誉学術称号だった。
先生は授与式で、「恩師は、戦後間もなく『地球民族主義』という理想を青年に提唱いたしました。当時は、全く評価されませんでしたが、民族紛争の激化に苦しむ現代世界は、この『共生の道』を志向し始めております」と、戸田先生の先見性を訴えた。
この日は、本紙に小説『人間革命』の最終回が掲載された日でもあった。先生は文末に、「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と記した。
翌94年2月11日、アジア平和旅の途次、先生は「偉大なる 恩師の写真を 胸に秘め 世界を旅せる 師弟不二かな」と詠んだ。96年の2月11日には「戸田記念国際平和研究所」を創立した。
70年前の「二月闘争」は、池田先生の"戸田先生の誕生月を広布拡大でお祝いしよう"との一念で築かれた広布史の金字塔である。
その戦いは、70年前だけではない。先生は毎年、恩師の誕生月を世界広布伸展の実証で荘厳してきた。「二月闘争」の精神は、後世永遠に輝く師弟共戦の魂である。
◇1961年2月4日 「仏法西還」の第一歩
「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」
1956年元日、戸田先生は、東洋広布への思いを和歌に詠んだ。アジアをはじめとする、世界広宣流布は、戸田先生の願業であった。それはそのまま、池田先生の誓願となった。
恩師が和歌を詠んだ5年後の61年1月28日、池田先生はアジア歴訪の旅へ。出発の5日前、訪問への思いを述べている。
——51年7月11日、戸田先生は男子青年部の結成式で、アジア、全世界へ大聖人の仏法を広宣流布するように叫ばれた。以来、この恩師の言葉を片時も忘れたことはない。今回、その東洋広布を成し遂げるために、アジアの地に第一歩をしるす、と。
池田先生は、香港、シンガポール、セイロン(現・スリランカ)をまわり、61年1月31日、インドに到着した。
2月4日、ブッダガヤを訪れ、「東洋広布」の石碑や「三大秘法抄」などを納めたステンレスケースを埋納。アジアの平和と繁栄を祈願した。
この日、先生は、世界の思想・哲学・文化を多角的に研究する機関の設立を決意している。
インド初訪問の時、現地のメンバーはいなかった。先生は、幾万、幾十万の地涌の同志が陸続と誕生することを祈念した。
師の祈りに呼応するように、その後、インド広布の水かさは着実に増していく。現在、インド創価学会(BSG)は目覚ましい発展を遂げ、25万人を超える平和の陣列を築いている。
御聖訓に「月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす。仏法もまたもってかくのごとし。正像には西より東に向かい、末法には東より西に往く」(新610・全508)と。
この「仏法西還」の未来記を現実のものとし、太陽の仏法が地球を包む時代を切り開いたのは、池田先生である。恩師の願業を断じて実現しようとする、先生の一念こそ、世界広布の源流である。
◇2月1日 牙城会の結成記念日
「牙城」とは、「大将のいる所」「城の本丸」「戦いの根拠地」を意味する。かつて中国で、大将の旗は、竿の先に動物の牙を飾ったことから牙旗と呼ばれ、その旗の立つ城を牙城と呼んだ。
1971年の初頭、池田先生は男子部の首脳幹部から、会館担当のメンバーの育成について相談を受ける。その10年ほど前から、男子部などが学会本部や会館の警備に当たり、戸締まりや火の元などの点検を行ってきた。
"陰の力"に徹し、広宣流布を支え、学会を守る中に、最も尊い仏道修行の姿がある。そこに、男子部の永遠の精神がある。
先生は、人材育成機関として、会館の警備に当たるメンバーの組織をつくることに賛同し、名称を提案した。「広宣流布の牙城を守る人材育成の組織だから、『牙城会』は、どうか」
戸田先生は、学会の草創期から「牙城」という言葉を重視し、池田先生と語り合ってきた。恩師が大切にした「牙城」を、池田先生は男子部の人材育成グループの名に贈ったのである。
同年2月1日から、メンバーは「牙城会」として任務を開始。この日が、事実上の結成記念日となった。その後、全国各地に築かれた、創価の法城を厳護する尊い使命を担うことになる。
先生は語っている。
「『牙城会』には、本部、会館を、学会員を厳然と守る使命がある。それは、私と同じ使命だよ」
昨年、結成50周年を記念し、牙城会の「永遠の指針」である「信念の人」「努力の人」「忍耐の人」に、新たに「報恩の人」「勝利の人」が加わった。先生は「誓願の人生の途上に何があろうとも、最後に『勝利の人』と勝ち誇れる正真正銘の実力を、鍛え上げてもらいたい」と期待を寄せた。
世界が危機に直面する中、牙城会のメンバーは一人立ち、社会に希望の光を送っている。「今日も戦う 勝利の城にて」——牙城会歌を高らかに響かせ、師子王のごとく、結成の月・2月を正義の言論で荘厳する。
◇1982年2月7日〜12日 厳寒の茨城指導
茨城の同志は、あの「2月」を忘れない。
悪僧の謀略に苦しむ同志を守りたい——。1981年11月、四国から開始された、池田先生の本格的な反転攻勢の激励行。82年2月の「厳寒の茨城指導」は、その一つの総仕上げとなった。
茨城は鹿島地域などを中心に、学会攻撃の烈風が激しく吹き荒れた。悪僧らは葬儀などの場でも、学会への悪口を繰り返した。しかし、茨城の同志は、ひたすら耐え続けた。
当時、先生の体調は決して万全ではなかった。それでも、"一人でも多くの同志と会いたい"と、2月7日、寒風の中、茨城へ。9日までは、開館間もない水戸の茨城文化会館で、各地から集ってきた友に、渾身の励ましを送った。
「結局は、求道の人、着実にして地道な信心の人、生活という足元をしっかりと固めてきた人が、人生の勝利者になっています」
「信心は忍耐です。大聖人門下ならば、何があっても微動だにしない信心に立つことです。現実という嵐に挑み、耐え忍んで、人生勝利の旗を掲げてください」
同会館を起点に、10日は日立、11日は鹿島、12日は土浦へと足を運び、寸暇を惜しんで激励。ピアノを演奏し、共に勤行をし、記念のカメラに納まった。
中でも11日は特別な一日となった。戸田先生の82回目の誕生日でもあるこの日、茨城の同志は82個の梅の鉢植えを飾って祝福した。
正午過ぎ、茨城文化会館で茨城県青年部総会が開会。池田先生の出席はなかった。だが、"師匠のもとから出発しよう"と、広宣流布の決意みなぎる、3500人の男女の青年たちが駆け付けた。
会合中、青年部幹部のもとに1枚のメモが回ってきた。"終了後、記念撮影"——皆の歓喜が爆発した。先生と共に会館の駐車場で撮影会が行われ、全員で凱歌の勝ちどきをあげた。
2020年、2月11日が「茨城青年部の日」に制定された。茨城の友は今、一人立つ精神を受け継ぎ、新たな歴史を築きゆく。