2019年9月23日月曜日

2019.09.23 わが友に贈る

◇今週のことば
尊き求道の教学試験だ。
御書根本の青春に
恐るるものなし
「鉄は炎打てば剣となる」
わが命を勝利の宝剣に!
2019年9月23日

月満御前御書 P1110
『釈迦仏は誕生し給いて七歩し口を自ら開いて「天上天下唯我独尊三界皆苦我当度之」の十六字を唱へ給ふ、今の月満御前はうまれ給いてうぶごゑに南無妙法蓮華経と唱へ給ふか』

【通解】
釈迦仏は誕生されると、すぐに七歩歩いて、口を自ら開いて「天上天下唯我独り尊し。三界は皆苦なり、我れ当に之を度す」の十六字を唱えられております。今の月満御前は生まれて、産声に南無妙法蓮華経と唱えられたことでしょうか。

〈寸鉄〉 2019年9月23日
全国で彼岸法要。広布に走る同志の祈りこそ真の追善。福徳の光は三世に
少年少女部の結成記念日創立100周年の希望の主役後継の宝樹を皆で大応援
「此の経文は一切経に勝れたり」御書。最高峰の哲理学ぶ誇り。堂々と語れ
良き思想家の文を読むように—恩師。良書は人生豊かに。まず開く事から
小中学校の冷房設置77%に。1年で20%増。命守る施策を公明が更に推進を

☆四季の励まし 「向上の人」こそ偉大! 2019年9月15日
人間の幸福といっても、
自分の臆病や
怠惰などの弱さと戦い、
勝つことから始まる。
人間革命とは、
自己自身に
勝利していくことである。
大事なことは、
強盛な信心に励み、
大功徳を受け、
生活も豊かになり、
幸福に満ち満ちた
悠々たる大境涯に
なっていくことである。
そのための
学会の活動である。

「人と比べる」よりも、
「きのうの自分」と
比べてどうか。
「きのうの自分」より
「きょうの自分」、
「きょうの自分」より
「あすの自分」を見よ——
そう生き抜く
「向上の人」こそ、
偉大なる人生の山を
登りきれる人である。
「栄光の旗」は
「努力の風」にこそ
悠々と、はためく。

人間革命とは、
一面からいえば
「一流の人間」に
成長することでもある。
一流の人は、
「力」とともに
「人格」も立派だ。
誠実である。
何ごとも、
薄っぺらな策ではなく、
自分の全人格で
ぶつかっていくことだ。

「勇気」が
「慈悲」に通ずる——
戸田先生の至言である。
真実を語り、
正義を叫び抜く。
折伏の功徳は、
限りなく大きい。
自分が得をする。
相手も得をする。
そして一家一族へ、
社会へと、福運は
幾重にも広がっていく。
広宣流布のために動こう
——その心が功徳を生む。
対話の秋である。
にこやかな笑顔で、
陽気に
歌を口ずさむように、
快活に進もう!

降り注ぐ陽光。眼前には、青々とした竹林が広がっていた——。先月上旬、池田大作先生が日高市の埼玉池田研修道場を訪れ、庭園の竹をカメラに収めた。
一本一本の竹は、土の中で地下茎でつながり、ため込んだ大量の栄養分を吸収しながら、勢いよく伸びていくという。皆で支え合って生き生きと成長する姿は、一人一人の人間革命を目指し、「異体同心の団結」で前進する創価家族と重なる。
小説『新・人間革命』の連載完結から1年。世界の同志も『新・人間革命』を"心の滋養"としながら、広布拡大に挑戦している。
さあ、世界の創価家族と共に前進し、わが人間革命の勝利劇をつづりゆこう!

☆虹を懸ける 池田先生とサンパウロ� 2019年9月21日
◇どこまでも師弟共戦の心で
エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ……。
サンパウロ州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館に、2万3000人の大歓声が轟いた。
1984年(昭和59年)2月25日の午後6時。ブラジル大文化祭の公開リハーサルに、池田先生が突如、姿を現したのである。
先生は手を振って、場内を1周。歓呼は瞬く間に会場全体へと広がった。しばらくすると、ブラジルSGIの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ(ようこそ、先生)」の大合唱が始まった。

♪先生!
あなたをブラジルに
迎えることができ
私たちの夢は
叶いました
…………
ありがとう 先生!
真心の花を捧げます

師匠と弟子の生命が結ばれた瞬間だった。合唱が終わると、先生はマイクを握った。
「広宣流布に進みゆく皆さん方を、日蓮大聖人は必ずや御賞讃され、御加護くださることは、絶対に間違いありません。私もまた、生命の続く限り、皆さん方を守りに守り抜いていくことを断言いたします」
66年以来、3度目となる先生のブラジル訪問。その実現に至る18年の間には、幾多のドラマがあった。

◇勝利の因に
さかのぼること10年前の74年3月、池田先生は世界平和文化祭などの諸行事に参加するため、サンパウロを訪問する予定だった。
しかし、当時のブラジルは軍事政権下にあり、学会への誤解も渦巻いていたことから、入国のビザが下りず、直前で訪問は中止に。先生は電話で現地のリーダーを励ました。
「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう……。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ」
さらに言葉を継いだ。「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」
ブラジルの同志は、学会の正義を示し、必ずや社会から称賛されるような時代をつくろうと誓い合った。
クラウジオ・ホーマン・マルトゥッシさん(参議会参議)も、その一人である。74年の文化祭では、ダンスに出演した。
「先生が座るはずだったイスを見つめながら、精いっぱい踊りました。この悔しさを絶対に勝利の因にしようと決意しました」
どんなに仕事で多忙を極めても、学会活動には一歩も引かなかった。一人また一人と対話し、次々と折伏を実らせた。
その後、総合方面の男子部長に就任。84年2月の大文化祭では、演出責任者を務めた。
「リハーサルで先生のお姿を見た時、"私は勝ちました!"と、心の中で叫びました。この原点が、私の力になっています」
6年前、脳梗塞を発症。多血症も見つかり、医師からは「最悪の場合、あと2年の命」と告げられた。だが、マルトゥッシさんは負けなかった。真剣に唱題に励む中で治療も奏功し、快方に向かう。
2014年には、総本部の広宣流布大誓堂での誓願勤行会に参加することができた。
「師を求め抜く時、不可能を可能にすることができると確信しました。師弟の誓いを貫き、前進の日々を歩んでいきます」

◇絶対に負けない
「私たちは今、最高に幸せです。喜びにあふれています。この喜びをサンバ、歌、ダンスに託します」
司会の弾む声で、ブラジル大文化祭の幕が開けた。1984年2月26日。会場のイビラプエラ体育館に、青年たちの熱と力がほとばしった。メイリ・ヒラノさん(婦人部長)も鼓笛隊の一員として、池田先生の前でフルートを奏でた。
4歳の時に母と共に入会。8歳から鼓笛隊に入り、信心の土台を築いた。
74年の文化祭には、鼓笛隊のポンポン隊として出演した。
「先生をブラジルにお迎えできず、悔し涙を流しました。この時、本物の味方をつくろうと誓ったんです」
小説『人間革命』を学びながら、会う人会う人に仏法を語った。その中で初めて友人を入会に導いた。
10年後、師との出会いを刻み、広布一筋の青春を走り抜いた。
2004年7月、ブラジル婦人部の代表として訪日。懇談会の折、先生は「オブリガード!(ありがとう!)」と言って、ヒラノさんたちのもとへ。手を差し出し、握手を交わしながら、婦人部の友に語った。
「私と一緒に前進しよう!」
ヒラノさんは、満面に笑みを浮かべる。
「婦人部のモットーは『どこまでも師弟不二で生き抜くこと』です。どんなに今、大変で苦しい状況にあっても、『師弟』でつながっている限り、私たちは絶対に負けません。たとえ先生にお会いできなくても、同じ心で戦えば、それは直接、先生につながっていることになるんです」
17年4月、ヒラノさんはブラジルの婦人部長に就いた。この2年の間で、5世帯の弘教を実らせている。

◇「私も壮年部だ」
1983年7月、池田先生が滞在する鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に、ブラジルの代表38人が駆け付けた。「私たちは先生にブラジル訪問をお願いするために、日本にやって来ました」と、ナオト・ヨシカワさん(最高指導会議副議長)は述懐する。
先生は一行を真心で迎え、共に記念撮影。求道の友を「ブラジル霧島会」として、互いに励まし合いながら進むように提案した。
懇談会の際、男子部長だったジュリオ・コウサカさん(同会議議長)が叫んだ。
「先生! ブラジルに来てください!」
すると先生は優しくうなずき、「近い将来、必ず行かせていただきます!」と。さらに38人全員を、自らの部屋に招き入れた。
「どんなに遠く離れていても、皆さんは愛する家族であり、兄弟です。最も信頼し、尊敬する同志です」
そして「わざわざ霧島まで来てくださったんだから」とピアノに向かった。
奏でたのは「厚田村」「熱原の三烈士」「荒城の月」の3曲。"なんと力強い調べなのか"——初めて聴く師匠のピアノ演奏に、ヨシカワさんの目から涙があふれ出した。
演奏が終わると、先生は「手が腫れているから、強く握らないでね」と言いながらも、全員と握手。小説『人間革命』を執筆し、メンバーと握手を交わし続けた先生の手は、真っ赤になっていた。
ヨシカワさんは振り返る。「そんな状況でも、先生はわざわざピアノを弾いてくださった。どこまでも弟子の勝利を願う師の慈愛に心が震えました」
帰国したヨシカワさんたちは、先生との出会いの喜びをメンバーに語った。"先生が来てくださる"との確信が皆の胸中にみなぎり、唱題の渦が大きく広がっていく。その一念のうねりは、状況を動かしていった。
84年2月、フィゲイレド大統領(当時)の招聘によって、先生の18年ぶりのブラジル訪問が実現したのだ。
ヨシカワさんには、もう一つ忘れられない思い出がある。
2005年1月、ブラジルの壮年部長として日本へ。協議会の折、先生が真っ先に向かったのは、婦人部のテーブルだった。
先生は「今の学会があるのは婦人部のおかげです。その次に青年部がいます。最後に、見えないところに壮年部がいます」と、ユーモアを交えて感謝を述べた。
その後、先生はヨシカワさんたちのテーブルへ。ヨシカワさんは意を決して「ブラジル壮年部は、たとえ見えないところにいても、ブラジル広宣流布の柱となっていきます」と抱負を語った。
すると、先生はにっこりとほほ笑み、ヨシカワさんの胸をトンとたたいて言った。
「私も壮年部だ。一緒に戦おう!」
ヨシカワさんは晴れやかな顔で語る。「先生は私に"戦う壮年部"の魂を打ち込んでくださいました。偉大な師匠をもった私たちは、最高の幸せ者です」
ブラジルに脈打つ"師弟共戦の心"は今、後継の若人に厳然と受け継がれている。