「意が声とあらはる」
友の幸福を真剣に祈り
誠実に紡いだ言葉は
必ず相手の心に届く。
声は力なり!
新池御書 P1440
『始より終りまで弥信心をいたすべしさなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき』
【通解】
始めから終わりまでいよいよ信心をすべきである。そうでなければ後悔するであろう。例えば、 鎌倉から京都へは12日を要する道のりである。それを11日あまり歩いて、あと1日になって歩くのをやめてしまったならば、どうして都の月を眺めることができようか。
〈寸鉄〉 2019年9月10日
「源に水あれば流かはかず」御書。師弟こそ一切の勝利の源泉。勇み続け
広布に働く人を大事に。これが大聖人の弟子だ—恩師。励まし週間を全力
学生部が各地で新出発。君らこそ青年学会の光!大情熱で対話の先駆担え
目標が明確な人は行動も明確—心理学。一人一人が決意固く。挑戦の一歩
保育所の受け皿整備等で待機児童数が過去最少。公明の尽力。対策さらに
☆御書と歩む� 第88回(完) 生命軽視の「無明」「魔性」と戦え
『元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり』(治病大小権実違目、997ページ)
◇通解
(生命に本来具わっている)「元品の法性」は梵天・帝釈などの諸天善神として顕れ、(本来具わっている)「元品の無明」は第六天の魔王として顕れるのである。
◇同志への指針
核兵器を廃絶せよ! その元凶となる生命軽視の魔性の思想を打ち破れ! 恩師の遺訓のまま我らは弛まず進む。
それは「元品の無明」を破って「元品の法性」を開き、民衆一人一人の心に平和の砦を築く地涌の挑戦である。「生命尊厳」を地球社会の柱に打ち立てゆく精神闘争だ。
この最極の道である「立正安国」の対話に、今日も挑みゆこう!
☆心大歓喜 師弟誓願の北陸
今回の「心大歓喜——紙上講義で学ぼう」には、手取屋北陸教学部長が登場。「上野殿御返事(竜門御書)」の御文を拝し、「師弟誓願」の誇りも高く、広布大願に生き抜く北陸の使命を、つづってもらいます。
◇御文
『願くは我が弟子等・大願ををこせ……法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云』(上野殿御返事、1561ページ1行目〜5行目)
◇通解
願わくは我が弟子たちよ、大願を起こせ……法華経の第三の巻には「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生とは、皆共に仏道を成ぜん」と説かれている。
★池田先生の指針から
わが偉大なる「誓願の同志」たちよ!
「誓」とは、歴史をつくる「力」である。
「誓」とは、暗闇を照らす「光」である。
「誓」とは、邪悪を破する「剣」である。(中略)
石川の友よ!
富山の友よ!
誇り高き北陸の同志よ!
妙法は、永遠に勝利だ。
師弟は、永遠に一体だ。
(随筆「人間世紀の光」〈創価の使命の花咲く天地〉)
◇
北陸の勝利は 即
恩師の勝利である。
北陸の栄光は 即
創価の師弟の栄光である。
(長編詩「太陽は昇る! 栄光の北陸に!!」)
◇
人間なにごとかを成し遂げようとするならば、気合いよく体当たりしていく態度というものが、非常に必要なのではないかと思うのであります。
その意味で、学会活動にせよ、文化活動にせよ、はたまたあらゆる職業の展開にせよ、潔い信心を根幹として、ほんとうに腹の底から好きになっていくことが大切であろうと思うのであります。
(1974年4月28日、北陸広布20周年記念総会)
◇
人間を決するものは、格好や服装ではない。形式でもない。なにごとも心意気である。
これをわれらの立場でいえば、信心の一念から発する情熱であり、行動である。
(1982年9月9日、北陸広布開拓25周年記念勤行会)
北陸教学部長 手取屋七直
●「誓」「師弟不二」の魂で喜び勇んで使命の道を
35年前(1984年〈昭和59年〉)の8月24日、池田先生は10度目の北陸指導のさなか、若き友の成長を喜ばれ、急きょ、懇談の機会をもってくださいました。
その日は、先生の入信記念日。未来を託すように「一切は青年で決まる。逃避も諦めも悲観も乗り越えて、地道に懸命に伸び伸びと生き抜くことだ」と語ってくださいました。
2日後の26日には、「第1回北陸平和文化祭」に出席。「新世紀 胸に抱きて 乱舞せる 北陸健児の 栄光開けり」と、健闘をたたえられました。
巡り来る「8・24」は「北陸青年部の日」、「8・26」は「北陸の日」として、師匠の渾身の期待を受け継ぐ日となっています。
日蓮大聖人も、後継の青年を大切にされました。今回拝する「上野殿御返事(竜門御書)」は、若き南条時光に送られたお手紙です。本抄は弘安2年(1279年)11月、「熱原の法難」の渦中、身延の地で認められました。命にも及ぶ迫害に遭っていた門下に、大願を貫く人生を教えられています。
この御文を拝するたび、1982年(昭和57年)9月の北陸指導が思い起こされます。先生は、魂をとどめるように次々と揮毫してくださいました。
石川での「誓」——まさに「我が弟子等・大願ををこせ」と、誓願の人生を示してくださいました。
誓いは、一度誓ったら終わりではありません。常に誓いを新たにしていく連続闘争の日々にこそ、喜びにあふれる誓願の人生があります。
また、先生は一貫して、北陸人の気質を打ち破るかのように「潔い信心」「勇猛精進」という積極性を教えられてきました。誓いも、お仕着せや借り物では意味がありません。どこまでも自身の信心の発露として起こすものだからです。
富山でのご揮毫「師弟不二」——広宣流布の大願を、師匠と弟子が同じくすることの大切さを教えてくださいました。
私たちの大願は、どこまでいっても広宣流布です。それは、本抄に仰せの「皆共に仏道を成ぜん」との願いにほかなりません。一人一人が「山本伸一」となって、自身の人間革命、広宣流布に挑戦していくことが大切です。
姉の病をきっかけに入会した私は、姉の体調が良くなる姿を見て、信心の確信を深めていましたが、「御本尊」とは何なのだろうという漠然とした疑問がありました。
忘れもしない74年(昭和49年)4月28日の「北陸広布20周年記念総会」。その日は「立宗宣言の日」で、先生は「本尊」とは何かについて、「大聖人の仏法は『一切の根源は"生命"それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに"人間生命"そのものである』という哲理であり、思想なのであります」と、明確に語られました。自身の生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体であるということを知り、私は目が覚める思いでした。
今、教育にあっては、自己肯定感の大切さに注目が集まっています。子どもだけでなく、大人にとっても、重要な問題です。自分の存在を大切に思えることが幸福への第一歩であり、その人は他人も大切にできるからです。
究極の自己肯定こそ、私たちにとっては、我が生命に仏界があることを信じて祈ることにほかなりません。地涌の菩薩の自覚こそ、宿命を使命に変える自己肯定の極意です。それは師弟不二で誓願に生きる人生ともいえます。
「絶対に乗り越えられる」と確信をもって語る友。「祈れること自体が幸せ」と笑顔で語る友……。多くの同志が、地涌の使命に生きる喜びを体現してくださっています。
私は、仏法の素晴らしさを伝えようと、2010年(平成22年)から「会館御書セミナー」と題し、友人などにも分かりやすい連続講義を、北陸の各会館で200回ほど開催してきました。セミナーを通して、入会された方もいます。
学会の中で、「誓」「師弟不二」に生き抜くことが、どれほど偉大なことなのか。多くの同志の姿を通して、仏法の偉大さを痛感しています。
先日始まった北陸の「誓願拡大月間」を、同志と共に、人間生命の賛歌を響かせながら前進してまいります。