「一句をも人にかたらん
人は如来の使」御聖訓。
仏法対話の功徳は絶大!
互いに称え合いながら
尊き聖業に挑みゆこう!
撰時抄 P291
『若し爾らば法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり、修羅を随へば須弥山をもになひぬべし竜をせめつかはば大海をもくみほしぬべし』
【通解】
そうであれば、法華経を経のとおりに持つ人は、梵天にもすぐれ帝釈にもこえているのである。修羅を従えれば須弥山を荷い、竜を使えば大海も乾すことができるのである。
〈寸鉄〉 2019年9月22日
此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり—御書一人立つ人が真正の勇者
信心が強ければ周囲が全て幸福の力となる—恩師強盛な祈りで諸天動かせ
栃木・那須総県の日。戸田先生の戦後初の地方折伏が原点。拡大へ勇んで
骨粗鬆症の検診率低い程介護が必要になる傾向。早めの検査で健康を維持
台風17号、近づく。油断排し備え万全に。「無冠の友」も呉々も安全第一で
☆心に御書を 第2回 万人を照らす妙法の功力
『日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり』(善無畏三蔵抄、883ページ)
◇通解
太陽が東方の空に昇ったならば、南閻浮提(世界)の空は皆、明るくなる。太陽が大いなる光を備えているからである。
◇池田先生が贈る指針
ひとたび太陽が昇れば、闇は消え去る。
日蓮仏法は全人類を照らす太陽の仏法である。
題目を唱えゆく生命には、仏界という元初の太陽が昇る。元品の無明を打ち破り、希望の夜明けを告げるのだ。
全ての人を仏に——この御本仏のお心のまま、縁する友も、地域も社会も、世界まで、妙法の大光で晴らしゆこう!
☆「秋季彼岸勤行法要」のために 拝読御書「新池殿御消息」 2019年9月17日
◇「成仏は疑いなし」と大確信の祈りを
創価学会では、「秋分の日」である23日を中心に、全国の主要会館、墓地公園、納骨堂で「秋季彼岸勤行法要」を営み、故人への追善の勤行・唱題、焼香を厳粛に行います。ここでは、勤行法要の拝読御書である「新池殿御消息」について、御文の理解を深める解説を掲載します。(「大白蓮華」9月号にも、拝読御文と解説が掲載されています)
◇拝読御文
『今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり』(御書全集 1435ページ1行目〜2行目)
◇本抄について
弘安2年(1279年)5月2日、身延の地で認められ、遠江国磐田郡新池(静岡県袋井市)の門下である新池殿に与えられたお手紙です。
本抄は、新池殿が、亡くなった子どもの追善のために、米3石を御供養したことへの御礼です。
冒頭、真心の供養の品を御本尊の御宝前に供え、いとしい子が必ず成仏するよう題目を唱えたので、仏になることは間違いないと記されます。ここが、今回、拝読する箇所です。
続いて、因果の理法の上からも、「法華経の行者」に供養すれば、それが小さく思えても、計り知れない大功徳が得られると示されます。
世間では、念仏の教えが広まっていることを指摘した上で、法華経こそが釈尊の真意を説いた教えであり、妙法を深く信ずることによって、毒が変じて薬となるように、衆生は変じて仏になると教えられます。
さらに、大聖人が強く謗法を責めてきたので、国中の人々が憎み、迫害するようになったと述べられます。そうした状況にあって、新池殿が、大聖人に思いを寄せているのは、宿世の因縁が深いからであるとつづられます。
最後に、新池殿が、遠江から険しい山河を越えて、身延まで訪ねてきた志をたたえられます。
◇一遍の題目に力が
「いとをしみの御子」——日蓮大聖人は、はるばる身延を訪れた新池殿の姿から、亡き子どもへの並々ならぬ思いを感じ取られたのではないでしょうか。
大聖人は、門下の悲しみを余すところなく受け止められ、安心を与えられるように、"法華経の文にある「決定無有疑(成仏は決定して疑いない)」との大確信で、題目を唱えました"と励まされています。
新池殿は、"成仏は疑いない"との言葉に、どれほどうれしく、安心したことでしょう。
お手紙をつづられた時、大聖人は風邪で体調を崩されていました。しかし、病魔と闘いながらも、門下のために、全生命力を振り絞るように、「南無妙法蓮華経と只一遍唱え」、筆を執られたのです。
かつて戸田先生は、この御文を通して、「この時、大聖人は題目を一遍だけ唱えられた。それで功徳があるという意味です。いかに題目が力強いかということを、お示しになったお言葉と拝します」と語られています。
「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」(御書13ページ)と仰せの通り、一遍の題目には、無量無辺の功力があることを示されているのです。
広宣流布に励む私たちが、故人を偲び、強盛な信心で唱える題目こそ、最善の追善回向にほかならないのです。
◇計り知れない功徳
拝読箇所の直後で、"枯れ草の野原に小さな火を付ければ、瞬く間に広大な草木が焼ける""竜は一滴の水を得ることで、三千世界に雨を降らせる"との譬えを引いて、法華経への供養は、わずかばかりの小善であるように思えても、計り知れない功徳があると教えられます。
さらに、"古代インドのアショーカ王は、過去世に土の餅を一つ供養したことで大王になった""釈尊の弟子である阿那律は、過去世において飢饉の時、辟支仏に稗の飯を供養したことで、食べ物に不自由しない境遇で生まれ、成仏の記別を与えられた"と、記されていきます。
それらの譬えを通して、「法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり」(同1436ページ)と仰せになっています。
法華経の行者への供養に計り知れない功徳があることを、「因果の理法」によって教えられています。
それは、"亡き子どもの成仏は間違いない"との確信を、新池殿に与えられるためであったと拝せます。
供養には、物の供養だけでなく、広宣流布のためにわが身を使って行動することも含まれます。
私たちが、自他共の幸福のために、広宣流布のために行動していることは、想像だにしない功徳があり、それは必ず故人にも回らし向けられるのです。
◇悪への供養で悪道に
一方、"わずかに思えるような小善でも、無量の功徳がある"のと同じ道理で、わずかな謗法であっても、その影響は計り知れません。
大聖人は「真心からの供養であっても、悪への供養であれば功徳とならず、かえって悪道に堕ちてしまう」(同1486ページ、趣意)と仰せです。
つまり、悪に供養することは、たとえ故人のことを思っての供養であったとしても、故人も自分も不幸になってしまうのです。
日顕宗の"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない"などの主張は、御書のどこにもない全くの邪義です。彼岸の時期、"塔婆を立てないと追善回向できない"などと迫ってきても、それはあくまでも、故人を悼む心情につけ込んだ金儲けであって、成仏や回向とは、なんの関係もありません。
「御義口伝」に、「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(同712ページ)とあります。
創価の同志による、真心の題目に勝る追善はないのです。
★池田先生の指針から
日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈さや偏狭さはない。心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。
「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。
仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そして一家眷属も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目なのである。
戸田先生は、彼岸に関連して、正しい仏法のあり方を、さまざまに語り残してくださっている。そのまま、ご紹介させていただきたい。
「彼岸といいお盆といい寺に詣でる者多く、あたかも日本は仏教隆盛の国のようにみえる。しかるにその真実は仏法の形骸のみあって真の仏法はない」
そして先生は、日々の学会活動にこそ、「彼岸に到る」道があると教えられた。日々の倦まぬ実践の積み重ねだけが、自身を幸福の彼岸に運んでくれることを強調しておられた。
"全同志を、幸福の彼岸へと導きたい!"——これが、戸田先生の叫びであった。また、創価の三代の心である。(2006年9月19日付本紙、「霊鷲山」と「彼岸」を語る)
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