正・副役職の団結から
栄光勝利の劇が始まる。
全員が広布の主体者だ。
異体同心のスクラムで
わが地区の大躍進を!
上野殿母御前御返事 P1570
『乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて故南条殿故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ、一つ種は一つ種別の種は別の種同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給いなば同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし』
【通解】
乞い願うところは、悲母がわが子を恋しく思われるならば、妙法蓮華経と唱えられて、亡き夫君と御子息と同じ所に生まれようと願っていかれなさい。
一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう。
〈寸鉄〉 2019年9月13日
青年2級へ受験者が真剣に研鑽。最高の哲理学び語る尊き青春。皆で応援
府中の日。大東京の中核。輝く師弟共戦の人材城。誇り高く先駆の拡大を!
強き生命力と逞しき智慧で人生を支配せよ—恩師我らの題目は最強の利剣
各地で夏の暑さ続く。熱中症は夜間にも。小まめな水分・塩分補給で防げ
風疹患者が増加。自分だけでなく妊婦等守るため抗体検査、予防接種必ず
☆9月度座談会拝読御書 曾谷殿御返事(成仏用心抄)
「いまだこりず」と仏縁を結ぼう!
◇拝読御文
『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり』御書全集 1056ページ13行目〜15行目
◇キーワード� 深き師弟の絆
冒頭にある「此法門」とは、仏の真意である法華経に基づいて、"根本の師匠を誤ってはならない"との意です。間違った法や師に従うことは、成仏の道を閉ざすことになるからです。
当時、諸宗は阿弥陀仏や大日如来を信奉し、釈尊をないがしろにして、法華経を誹謗していました。従うべき師を誤っていたのです。
過ちを指摘されても、素直に聞き入れられないのが道理です。いわんや、大聖人の明かされた"万人を仏にする根本の仏種"である「南無妙法蓮華経」は、当時の成仏観を根底から揺るがすものであったので、邪師を信奉する人々から激しく憎まれました。この事実は、妙法に衆生の仏性を目覚めさせる力がある証拠でもあるのです。
ここでは、法華経を説いた釈尊は、一切衆生が従うべき根本の師であることが示されています。その上で、末法の衆生にとって、万人成仏の南無妙法蓮華経を明かされた大聖人こそ、「本従の師」であることが示唆されています。
本抄では「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」等の文を引いて、過去世から従ってきた宿縁深き師弟の絆を示され、「返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし」と仰せです。
私たちにとっても、深き縁で結ばれた師弟の絆を違えずに、不二の道を歩んでいくことこそ成仏の直道なのです。
◇キーワード� 仏性を呼び覚ます
拝読御文では、末法の弘通の在り方について、譬えを通して教えられています。
まず、自らが「いまだこりず候」と、いかなる迫害の連続であっても、民衆救済のために、不惜身命で弘法を貫く御覚悟を示されます。
これは、門下たちにも、同じ覚悟で信心に励むように教えられていると拝せます。つまり、師匠と同じように不惜身命の実践に励むことが、「本従の師」に従う生き方であり、成仏の軌道に入っていくことができるからです。
では、具体的に、どのような実践に励むことが、師弟の道を歩むことになるのでしょうか。
ここでは、"仏は、衆生の心という田に、妙法という成仏の種を植え続ける"と仰せです。
成仏の種とは、あらゆる人々を仏にする根源の仏種、すなわち南無妙法蓮華経のことです。
私たちも、仏と同じように、仏法を語り、人々の心に妙法の種を蒔くことで、相手の生命にある仏性を触発し、呼び覚ましていくことができるのです。
仏法を語って、すぐに相手が信心に目覚めなくても、たとえ反発したとしても、「いまだこりず」の精神で仏縁を結び続ければ、必ず相手の仏性を呼び覚ますことができます。
私たちの弘教の実践は、自他共の幸福を願う、尊き仏の振る舞いであり、この実践の中にこそ師弟の誓願に生きる崇高な人生があるのです。
★池田先生の指針から/たゆまず妙法の種を蒔く
大聖人の仏法は「下種仏法」である。
悪世末法における妙法の「下種」(種を下ろす)とは、こんな荒れ地に種を植えても無駄であると見放されてきた衆生の心の大地にも、光を当て、手を差し伸べていく未聞の挑戦である。
御書には、「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(1553ページ)と断言なされている。
どんな人であれ、どんな境遇であれ、題目を唱えゆくならば、仏の生命を現すことができるのだ。
ゆえに我らは種を蒔く。妙法という究極の幸福の種を、我と我が友の心田に蒔き続ける。いかに厳しい現実の宿命があってもたじろがず、「絶対に仏になれる。一緒に幸せになろう」と語り切りながら!
なかなか折伏が成就せずに悩んでいる、けなげな同志を、戸田城聖先生は温かく労われた。
「何も嘆くことはないよ。すぐに信心する発心下種と法を聞かせる聞法下種は、功徳は同じだ。必ず実る時が来る。だから、どしどし下種をするんだ」(中略)
日々、勤行で読誦する自我偈には、「寳樹多華果 衆生所遊楽(宝樹は花菓多くして 衆生の遊楽する所なり)」とある。私たちの広宣流布は、たゆまず妙法の種を蒔き、人材の宝樹を育てて、生きる喜びに躍動する平和と共生の緑野を、この地球上に創り広げていく戦いであるといってよい。
(「大白蓮華」2015年10月号の「巻頭言」)
◇ ◆ ◇
日蓮大聖人は深き誓願によって、一人、法華経の行者として厳然と立ち上がられました。謗法の悪縁に迷うすべての人を救おうと、断固たる行動を貫いていかれた。その結果は、大聖人が予見された通り、日本中の人から憎まれ、嵐のような大弾圧を受けることになりました。
しかし大聖人は、「悦んで云く本より存知の旨なり」(御書910ページ)との御心で、「然どもいまだこりず候」(同1056ページ)、「日蓮一度もしりぞく心なし」(同1224ページ)、「今に至るまで軍やむ事なし」(同502ページ)との決然たる御心境で戦い続けられたのです。
大聖人の生涯の壮絶な闘争を支えた原動力は、ひとえに誓願の力であったと拝することができる。誓願を貫くことによって仏の心と一体化し、生命の奥底から仏界の無限の力を涌現することができることを示し、教えてくださったのである。(『開目抄講義』上巻)