2018年5月27日日曜日

2018.05.27 わが友に贈る

「たすくる者
強ければらうれず」
仕事・育児・介護など
多忙を極める友にこそ
徹して理解と励ましを!

撰時抄 P289
『現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか』

【通解】
(仏法においては)事実、勝れていることを勝れているということは、慢に似ているようだが、じつは大功徳となるのである。

〈寸鉄〉 2018年5月27日
SGIの広がりは平和の推進を意味する—市議。誇り高く希望の連帯拡大
神奈川婦人部の日。地域にさわやかな対話の風!勝利を開く正義の太陽よ
友を仏の如く敬えば広布は進む—戸田先生。これ幹部の心得。感謝忘れず
情熱を持った人は人々の情熱の対象となる—詩人一人立て!闘魂は伝わる
10代の自転車事故多し。前輪に傘や鞄挟んで転倒と。使用法と規則守って

☆虹を懸ける 池田先生とパナマ� 2018年5月20日
◇福運の桜花に包まれた人生を
北南米を結ぶ地峡に位置する中米パナマ。太平洋と大西洋をつなぐパナマ運河がある"世界の十字路"でも、SGIの友の活躍が目覚ましい。同国に妙法の種子がまかれて50年余り。メンバーは、池田先生の3度の訪問を原点に、共感と理解の輪を広げてきた。パナマでつづられた師弟のドラマを紹介する。

北海道よりやや小さい国土に、約400万人が暮らすパナマ。
同国で活動するSGIの陣容は現在、9本部26支部まで発展し、高層ビルが林立する都市部にも、コーヒー畑が広がる地方部にも、幸福の楽土建設に尽くす創価の友がいる。
パナマSGIでは、これまで環境展示や平和フォーラムなどを開催。草の根の対話で、平和・文化・教育運動を多角的に推進してきた。その地道な貢献に対し、教育省の最高栄誉が贈られるなど、各界から厚い信頼が寄せられている。
——パナマ広布の始まりは、今から53年前にさかのぼる。
当時、運河とその周辺地域には、米軍基地が置かれていた。そこに赴任してきた軍人の妻たちの中に、SGIメンバーがいた。
1965年10月に7人で「班」が結成されると、翌年に「地区」、68年に「支部」へと発展していった。
「いつか池田先生をパナマに!」——それが草創の母たちの願いだった。彼女らが夫の軍務の関係で別の地に移った後も、この熱願は現地の人々に受け継がれていた。
待ちに待った"その日"がやって来たのは74年3月。
この時、池田先生はアメリカ・ロサンゼルス近郊にいた。
13日にブラジル入りを控えていたが、軍事政権下でビザが発給されず、予定を変えざるを得ない状況にあったのである。
断腸の思いでブラジル行きの中止を決めた先生は、前日の12日に行程を変更し、メンバーや政府から強い訪問の要請を受けていたパナマへ向かうことを決断したのだった。
"池田先生来る"の報は、瞬く間にパナマ中を駆け巡った。
元々、この平和旅で先生が中米上空を通過することを聞いていたメンバーは、会館等で無事故と大成功を祈ってきた。
そこに、パナマ訪問決定の知らせを耳にした同志が次から次へとやって来る。師の来訪を祈る題目のうねりは、日に日に大きくなっていった。
それから1週間後の18日午後7時過ぎ。先生はパナマの空港に降り立った。
すでに日は暮れていたが、懐中電灯や国旗を振って出迎える友また友。歓迎ムードに染まる空港には、メンバーやその家族、政府高官に加え、報道陣など約1500人が詰め掛けていた。
「あの日の光景を忘れたことはありません」
こう振り返るのは、マルタ・リベラさん(白ゆり長)。その半年前に入会したばかりだった。
信心との出あいは、71年。消化器系の疾患がある息子を救いたいと、わらをもつかむ思いで唱題を始めた。すると、息子の体調は少しずつ改善。やがて、胃腸の不調がぴたりとやんだ。
感謝の心で役員やコーラスの一員として、先生を迎えたリベラさん。訪問中には、たびたび先生の振る舞いを間近で目にした。
「日本語は分かりませんでしたが、先生の一挙手一投足に、感動の連続でした。握手をしていただいた時には、力強いエネルギーを感じました」
当時は夫が働きながら大学で学んでいた頃で、経済苦に悩まされていた。師の激励を胸に、さらなる宿命転換を決意したリベラさんは、先生の訪問直後、歯科助手としての仕事を得る。後年には資格を取得して歯科専門の診療放射線技師に。経済革命を成し遂げた。
広布の最前線で訪問・激励に徹するリベラさん。師の真心を同志に語り伝える毎日だ。

◇師弟に生きる
滞在2日目となる19日、池田先生は同国最初の国立大学である名門・パナマ大学へ。ロムロ・エスコバール・ベタンクール総長と会談し、大学の在り方や民間外交について意見を交わした。
「私の全ての尊敬と感謝の念を込めて歓迎します」と言う総長。
先生が友情のしるしとして、英文の蔵書3000冊の寄贈を申し出ると、「これを教育交流の輝ける第一歩としていきたい」と謝意を述べた。
未来を見つめた対談は、終始、和やかな雰囲気の中で行われた。
エドウィン・モリーナさんは、こうしたやりとりを感動の面持ちで見つめながら、夢中でカメラのシャッターを切った。
同大学の視聴覚コミュニケーション研究所の担当教授だったモリーナさん。先生の歴史的な来訪の一部始終を残そうと、随行の記録係を買って出ていたのだ。
いくつもの機材を抱えながら奮闘するモリーナさんに、先生はパナマを旅立つ直前、書籍に「いついつまでも英知と福運が輝き光ることを祈りつつ」と揮毫して贈った。
「この時の激励が、いつも私を鼓舞し、最大の支えになってきました」
モリーナさんはその後、支部長、本部長、副理事長などを歴任。90年代、パナマに宗門事件の嵐が吹き荒れた際には、マルティネス前理事長らと共に同志を守り抜いた。
仕事では、大学総長や大統領からの要請で国家プロジェクトに携わり、外交団の一人としてアメリカ大陸の各国が集うサミットに参加したことも。
「どんな困難も、全て勇気の信心で乗り越えてくることができました。先生の弟子として歩んでこられたこと自体が、人生最大の喜びです」

◇20年を目標に
この19日の午後、池田先生はパナマ会館の開所式に出席。"幼児が20年もすれば立派な大人になるように、まずは一人一人が「信心20年」を目標にして、パナマの平和と繁栄を担う第一人者になってください"と訴えた。
夜には、パナマ市内で行われた最高指導会議へ。全参加者の総意で、パナマ支部を「本部」にすることが決定した。
翌20日には、再びパナマ大学を訪れ、大会議室を借りて行われたメンバーの集いでスピーチ。1000人を超す参加者の中には、大学関係者や学生たちの姿もあった。
「非常に有意義な価値ある日々を過ごすことができ、心から感謝の意を申し上げたい」
先生は、陰に陽に尽力してくれた友に御礼を述べると、パナマ国歌の斉唱を提案。その後、仏教の成り立ちや宿命転換の法理などを懇談的に指導した。
「どうかパナマの愛する皆さん! 福運の桜花に包まれた人生を築き、パナマの輝く"平和の主役"となってください」
そしてスピーチを終えると、最前列にいたメンバーの元に行き、一人一人の手を握り、抱きかかえるようにして励ました。
「あの頃は、分かりやすく仏法を説明できる人は誰もいませんでした。先生のスピーチは、それまでの"奇跡を願うような信仰の姿勢"から、"自身の人間革命を懸けて、努力と向上を重ねる生き方"へと、一変させてくれました」
こう述懐するのは、プロスコピオ・ロンドーニョさん(地区部長)。幼少期は、重度のぜんそくに悩まされ、3日に1回は病院に通い、注射を打っていた。
師との出会いを機に、地道に行学の二道を歩んだロンドーニョさんは、着実に健康を取り戻していく。やがて、ぜんそくは完治。入会20年目となった87年、先生の第3次訪問で創価班の一員として任務に就いたことが生涯の誉れだ。
◇ ◆ ◇
3泊4日の訪問最終日(21日)。空港は、別れを惜しむ人たちであふれていた。
「ムーチャス・グラシアス(スペイン語で「大変にありがとうございました」)!」と国旗を振るメンバー。
先生も手渡された国旗を両手に持ち、同志の真心に応える。
「"帰ります"ではありません。行ってまいります!」。そう言って、次の目的地であるペルーへと飛び立ったのである。
その言葉を聞いた友は「アディオス(さようなら)」ではなく、再会を誓い、こう言って先生を見送った。
「アスタ・ルエゴ(また会いましょう)」
この"約束"は、7年後の81年に果たされることになる。