確信の一言は
百万言の理論に勝る。
さあ 和楽の座談会。
皆で体験を語り合い
仲良く愉快に前進を!
光日上人御返事 P934
『何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべきいかにうれしかるべき』
【通解】
今の光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者となられた。よって必ず母と子がともに霊山浄土へ参ることができよう。そのときのご対面は、どんなにかうれしいことであろう。どんなにかうれしいことであろう
〈寸鉄〉 2018年5月23日
どんな人とも真っ向から渡り合える人に—戸田先生。激戦の中で己を磨け
婦人部総会を推進する全国のG長に喝采。地域を照らす主役に福徳は燦然
「足は経なり」御書。広布の為に動いた分だけ信頼は広がる。勇み友の元へ
食べられるのに捨てられる食品ロス、約半数が家庭から。意識改革が急務
80、90代も運動で筋力増強、転倒予防にも。充実した心身で人生の輝き更に
☆御書と歩む� 第19回 今日も歓喜の題目を
『口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』(法華初心成仏抄、557ページ)
◇通解
口で妙法をお呼びすれば、私たち自身の仏性も呼ばれて必ず現れる。梵王や帝釈の仏性は呼ばれて、私たちを守ってくださる。仏や菩薩の仏性は呼ばれて喜んでくださるのである。
◇同志への指針
題目の音声は、全宇宙の仏性を呼び覚ます。ひたぶるに題目を唱える人を、仏天の働きが厳然と守りに護る。
勤行は、小宇宙である自分を、大宇宙の根本のリズムに合致させゆく崇高な儀式だ。「何があっても負けない」という、絶対的な幸福境涯を築く源泉である。
さあ今日も、すがすがしい勤行・唱題から出発しよう!
☆みんなで学ぶ教学 第15回 難を乗り越える信心 2018年5月5日
◇何があっても"負けない"境涯を
信心に励む途上で、さまざまな困難や悩みにぶつかることがあります。なぜ、そうした「難」にあうのでしょう。また、どういった意味があるのでしょう。今回の「みんなで学ぶ教学」では、「難を乗り越える信心」をテーマに学びます。
◇悩みがない=幸せ?
——創価学会に入る前は、「悩みがないことが幸せだ」と思っていました。
悩みや苦しみのない生活に憧れを抱く気持ちも分かりますが、人生の途上には、苦難や課題がつきものです。
また、周囲からは幸せそうに見える人でも、心の内面が満たされているとは限りません。
私たちは、一生成仏、すなわち、この一生のうちに何ものにも揺るがない幸福境涯を築くことを目指して信心に励んでいます。
一方で、信心を実践していけば、必ず苦難に直面します。そうした苦難を、仏法では「難」といいます。
——どうして難が起こるのですか?
仏の境涯を目指す修行は、自身の生命を根底から変革する挑戦です。ゆえに、その変革を阻止しようとする働きとして、難が起こるのです。
仏道修行の過程で起こる障害に「三障四魔」があります。
日蓮大聖人は、「三障四魔」について、競い起こってきても、随っても恐れてもならないと仰せです。「三障四魔」に翻弄されないためにも、それらの内容について学びましょう。
◇「三障四魔」の内容
——「三障」とは「三つの障り」という意味でしょうか。
その通りです。「障」とは、障り、妨げの意です。信心の支障となる働きに「煩悩障」「業障」「報障」があります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡かなどの自身の煩悩(心身を煩わせ悩ませる心の働き)が修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(心身に関わる過去の悪い行為)により生じ、私たちの信仰を妨げるものです。大聖人は、例として、妻子など身近な存在によって起こると仰せです。
報障とは、過去世の悪業の報いとして、現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障害となることをいいます。大聖人は、自身に強い影響を与える権力者や父母などによって起こる妨げを配当されています。
——「魔」というと、「睡魔」「邪魔」といった言葉を連想しますが……。
「魔」とは、古代インドの言葉「マーラ」を漢字で表したもので、「奪命者」「奪功徳者」と訳されます。仏道修行者の心を悩まし、破壊しようとする働きのことで、「四魔」には、「陰魔」「煩悩魔」「死魔」「天子魔」があります。
陰魔とは、修行者の五陰(心身の働き)の不調和が妨げとなることです。
煩悩魔とは、煩悩によって信心が破壊されることです。
死魔とは、修行者の生命を絶つことで信仰を妨げようとする働きです。修行者の死をもって他の修行者に信心の疑いを起こさせることも、死魔の働きといえるでしょう。
天子魔とは、生命の根本的な迷いから起こる魔です。「第六天の魔王」ともいい、権力などありとあらゆる力を使って修行者に迫害を加えます。
池田先生は、「大事なのは、魔を魔と見破る眼を持つことである。そのために、教学があり、信心があるのだ」と教えられています。
◇困難を前進のバネに
——なんだか、怖くなってきました。
大丈夫ですよ。御聖訓には、「難が来たことをもって安楽と心得るべきである」(御書750ページ、通解)とあります。
信心に励む途上で直面する難は、たとえるならば、船が進む時に波の抵抗が起こるようなものです。その波浪を押し切ることによって境涯は開かれます。あたかもサーフィンをする際、サーファーが、向かってくる荒波を楽しむようなものです。
——困難を成長のエネルギーにすればいいのですね。
その通りです。その上で大切なことは、煩悩や家族の問題、心身の不調、死といっても、それら自体が障魔ではない、ということです。これに引きずられてしまう弱い生命、つまり、信心の迷いによって魔の働きとなってしまうのです。
大聖人は「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(同1091ページ)と仰せです。
三障四魔が出現した時こそ、信心を深める好機と確信して、むしろ喜ぶ"賢者の信心"で挑戦を続けることが大切なのです。
◇放課後メモ
「難を乗り越える信心」については、次の書籍の中でも言及されています。
○…『創価学会永遠の五指針』65ページ(聖教新聞社)
○…指導選集『幸福と平和を創る智慧』第2部[中]135ページ(同)
○…『教学入門』89ページ(同)