新聞休刊日
十字御書 P1492
『今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし』
【通解】
今、日本の国は法華経を敵として、禍を千里の外から招き寄せています。このことから考えてみると、今また、法華経を信ずる人は幸いを万里の外から集めることでしょう。
☆「青年訓」 戸田先生の指導より
新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。
吾人らは、政治を論じ、教育を勘がうる者ではないが、世界大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教によって、人間革命を行い、人世の苦を救って、各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめんことを願う者である。
この事業は、過去においては、釈迦の教団が実行し、近くは、日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。釈迦教団の中心人物たる舎利弗(しゃりほつ)にせよ、阿難にせよ、みな若き学徒であった。
日蓮大聖人の門下もまた、みな若き学徒によって、固められていたのである。日興上人は、大聖人より二十四歳も若く、日朗もまた、二十一歳の年のひらきを持っていた。西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。
吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰(そんぎょう)し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に沒在(もつざい)せる東洋の浄土化を、弘宣(ぐせん)せんとする者である。
諸兄らは、この偉大なる過去の青年学徒群と同じ目的、同じ道程にあることを自覚し、これに劣らぬ覚悟がなくてはならぬ。霊鷲山会に、共々座を同じうしたとき、「末法の青年は、だらしがないな」と舎利弗尊者や、大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書きが泣くことを知らなくてはならない。
奮起せよ!青年諸氏よ。闘おうではないか!青年諸氏よ。
しからば、だれ人と、いかなるいくさを、吾人らは、なすものであろうか。
第一は、無智の者に永遠の生命を教え、日蓮正宗の本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯(ゆうげ)する、自在の境涯を会得せしむるために、忍辱(にんにく)のよろいを著(き)、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである。
第二は、邪智、邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗、邪義は一切この世のなかの不幸の原因であり、それがために、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世はみな乱れるなりと教え、邪智、邪宗をひるがえすよう、智慧の鎧を身にまとい、かれらが執着の片意地(かたいじ)を、精進勇気の利剣をもって、断ち切る戦いである。
第三は、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人が愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境涯を会得する、人間革命の戦いである。
しこうして、吾人はさらに、諸兄らの行動について、望むところをもつものである。
第一に、絶対的確信にみちたる信仰の境地立脚し、信行において微動だにすることなく、唯一無二の御本尊を、主・師・親と仰ぎ、日蓮大聖人と共にいますのありがたさにあふれて、地涌の菩薩の後身(こうしん)を確信することである。
第二に、行学に励み、御書を心肝にそめ、大聖人の仏法に通達して迷いなく、今はいかなる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし、日興上人のご遺誡をわが命(めい)として、努むべきである。
第三に、その行動の態度たるや、真摯にして暴言を用いず、理をつくして指導の任に当たり、威厳と寛容の姿の中に、邪義、邪宗、邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべきことである。
第四に、部隊長および班長の命を奉じて、学会精神を会得して、同志の士気を鼓舞し、広宣流布大願の中心人物たることを、自覚されたきことである。しかも、広宣流布の時は近く、日蓮正宗の御本尊流布の機は、今まさにこのときである。
ゆえに、三類の強敵は、まさに現れんとし、三障四魔は勢いを増し、外には邪宗、邪義に憎まれ、内には誹謗の声ようやく高し。驚くことなかれ、この世相を。これは、聖師の金言なり。
されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御おぼえにめでたからんと願うべきである。
愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。
大聖にほむるるは、一生の名誉なり。
心して御本尊の馬前に、屍をさらさんことを。
昭和二十六年十一月一日
大白蓮華巻頭言
☆第22回農漁村ルネサンス体験主張大会から(上) 宮崎県都城市 上田純市さん
◇無農薬で完熟の熱帯果実 本物の味求める"植物博士"
2・17「農漁光部の日」を記念して行われた、第22回「農漁村ルネサンス体験主張大会」。日本中に大きな感動と共感を広げた3組の体験主張を、3回に分けて紹介する。
私が植物に興味を持ったのは、幼稚園児だった時です。高校卒業時には、どんな植物を見ても品種が分かる、風変わりな"植物博士"に育っていました。そして鹿児島大学農学部時代に出合ったトロピカルフルーツに、すっかり惚れ込んでしまったのです。
大学院では「塩ストレスがパッションフルーツの生育および光合成に及ぼす影響」をテーマに、修士論文に挑戦。酸味を抑え、甘味をどうすれば強められるかという研究で、私が目を付けたのは、熊本県で栽培されていた塩トマトでした。
干拓地など海水を含む大地で栽培すると、塩分へのストレスで、作物は甘く栄養価の高いものが育つのです。これを応用しようと、本格的に研究を始めました。あいにく酸味は減りませんでしたが、塩に遺伝子が反応し、タンパク質を合成する生態を発見。世界初となるこの研究は、注目を集めました。
その後、公務員として就職したものの、どこか張りがなく、悶々としていました。内心、本格的に果樹栽培をしたい、と思っていたのです。
かといって栽培だけでは食べていけず、悩んでいると、男子部の先輩が激励してくれました。「自分を信じ、思い切って挑戦してごらん」と。
御本尊にぶつかるように祈っていたある日、タクワンなどの漬け物を作る会社の社長が声を掛けてくれました。なんと社長は私の話を聞くや、「うちで働きながら育てたらいい」と、入社と兼業を快く許可してくれたではありませんか。
公務員を辞めた後、アパートの裏に畑を借り、2棟のビニールハウスを建て、"戦闘開始"です。
植物博士として栽培には少し自信がありました。ところが、すぐに壁に直面。都城は冷え込みが厳しく、冬場、ハウスの温度が15度を下回り、南国産果実は、ほぼ全滅。色も味も付かないバナナを呆然と見つめ、農業の厳しさを思い知らされました。
その頃、工場では、技術製造部に配属されました。5年前には、漬け物日本一を決める「T—1グランプリ」への出品作品の開発を命じられました。
目指したのは「消費者に喜んでいただける商品」。こんな時こそ真剣勝負で祈る以外にないと唱題し、知恵を湧かせました。
そして作った"味よし歯応えよし"の「きんぴら大根」が、九州・沖縄大会で金賞を受賞。全国大会では準グランプリに輝いたのです!
この時の経験が信心の確信になりました。そして「食べる人の目線での物づくり」が私の転機になりました。
趣味や研究でなく、作物を育てる以上、消費者が喜ぶ安全・安心な果実を提供しようとの思いが膨らんだのです。しかし、輸入物の果実は輸送時間を考慮して早取りするため、本来の味を楽しめません。
"完熟・無農薬で、本来の味を楽しんでもらえるフルーツをつくろう"。使命感が私の中でふつふつと湧き上がりました。
ハウスは、コンピューター制御によるヒーターを設置した二重構造にしました。土づくりも見直しました。日本熱帯果樹協会の方々と情報交換を行い、数種類の土をブレンドし、通気性を確保しました。
足りない栄養分は補い、自家製の肥料を使用。農薬は一切使いませんが、病気はなくなり、樹木が順調に生育できる土壌ができました。ハウスに入ると、木々の一本一本に染み込ませるような思いで、題目を送ります。
作業のたびに「丈夫に育て」「寒さに負けるな」と声を掛けると、果樹も精いっぱいの甘さで応えてくれるのです。
有名な菓子店が、わが家のパパイヤを「ぜひ、うちの店で!」と契約してくれるようにもなりました。寒い日が続き、パパイヤの色付きが遅れても、市場は「上田さんのところは十分に甘いから」と早生物まで高値で引き取ってくれます。
4年前、こうした私の姿を見てきた未入会の父が、なんと「信心したい」と言いだしました。信心と土いじりが嫌いだった父が今では一日も欠かさず勤行を実践し、果樹の手入れもこまめにやってくれます。お陰でハウスを4棟に拡大することができ、バナナにライチ、アボカド、パパイヤ、パッションフルーツなど、以前よりも量産できるようになりました。
3年前、農園を父名義で合同会社「上田熱帯果樹研究所」に法人化。すると鹿児島や宮崎の大学が「よく育てたね。君のハウス自体が研究対象だよ」と、花や木まで買い取ってくれるようになりました。半年で収穫できる糖度抜群のパッションフルーツの新種も開発することができました。
うちのパッションフルーツを食べた皆さんに「うまい!」と言っていただけることが、私にとっての最大の喜びなのです。
人間が生きていく上で最も大切なのが、食を生産する農業です。
池田先生は"農業を大事にしない社会は、生命を粗末にする社会です。その社会は早晩、あらゆる面で行き詰まる"と言われています。私は、この尊い使命を胸に、安心・安全でおいしいトロピカルフルーツの栽培に、これからもチャレンジしてまいります。