さあ一軒また一軒と
喜びの訪問・激励を!
会って語り合えば
自分も相手も元気に!
弾む命で大きく動こう!
妙密上人御消息 P1241
『日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人三人十人百人一国二国六十六箇国已に島二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず春を留んと思へども夏となる』
【通解】
また日蓮は日本国でただ一人、南無妙法蓮華経と題目を唱えたのである。このことは須弥山という大山を形成する最初の一塵であり、大海を構成する最初の一露である。二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国まで弘まり壱岐・対馬まにまで及ぶであろう。今は日蓮を謗じていた人達も題目を唱えるであろう。
また日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経の神力品が説かれているように、必ず一同に声を合わせて南無妙法蓮華経ととなえることがあるだろう。それは木は静かであると思っても風がやまないために動くし、春を留めようと思っても必ず夏が来るのと同じようにとどめようのないことである。
〈寸鉄〉 2018年5月12日
仏は慈悲で、凡夫は勇気で人々を救うのだ—戸田先生。励ましの光、今日も
人が真に向上できるのは逆境の時である—詩人。青年よ大胆な挑戦王に!
「国際看護師の日」。抜苦与楽に尽くす白樺の友に最敬礼を。幸福勝利あれ
流行続く「はしか」。妊婦、ワクチン未接種の人は注意。油断なく健康第一で
暑さに慣れない時期。早めの水分・塩分補給で熱中症対策。充実の日々を
☆みんなで学ぶ教学 第15回 難を乗り越える信心
◇何があっても"負けない"境涯を
信心に励む途上で、さまざまな困難や悩みにぶつかることがあります。なぜ、そうした「難」にあうのでしょう。また、どういった意味があるのでしょう。今回の「みんなで学ぶ教学」では、「難を乗り越える信心」をテーマに学びます。
◇悩みがない=幸せ?
——創価学会に入る前は、「悩みがないことが幸せだ」と思っていました。
悩みや苦しみのない生活に憧れを抱く気持ちも分かりますが、人生の途上には、苦難や課題がつきものです。
また、周囲からは幸せそうに見える人でも、心の内面が満たされているとは限りません。
私たちは、一生成仏、すなわち、この一生のうちに何ものにも揺るがない幸福境涯を築くことを目指して信心に励んでいます。
一方で、信心を実践していけば、必ず苦難に直面します。そうした苦難を、仏法では「難」といいます。
——どうして難が起こるのですか?
仏の境涯を目指す修行は、自身の生命を根底から変革する挑戦です。ゆえに、その変革を阻止しようとする働きとして、難が起こるのです。
仏道修行の過程で起こる障害に「三障四魔」があります。
日蓮大聖人は、「三障四魔」について、競い起こってきても、随っても恐れてもならないと仰せです。「三障四魔」に翻弄されないためにも、それらの内容について学びましょう。
◇「三障四魔」の内容
——「三障」とは「三つの障り」という意味でしょうか。
その通りです。「障」とは、障り、妨げの意です。信心の支障となる働きに「煩悩障」「業障」「報障」があります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡かなどの自身の煩悩(心身を煩わせ悩ませる心の働き)が修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(心身に関わる過去の悪い行為)により生じ、私たちの信仰を妨げるものです。大聖人は、例として、妻子など身近な存在によって起こると仰せです。
報障とは、過去世の悪業の報いとして、現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障害となることをいいます。大聖人は、自身に強い影響を与える権力者や父母などによって起こる妨げを配当されています。
——「魔」というと、「睡魔」「邪魔」といった言葉を連想しますが……。
「魔」とは、古代インドの言葉「マーラ」を漢字で表したもので、「奪命者」「奪功徳者」と訳されます。仏道修行者の心を悩まし、破壊しようとする働きのことで、「四魔」には、「陰魔」「煩悩魔」「死魔」「天子魔」があります。
陰魔とは、修行者の五陰(心身の働き)の不調和が妨げとなることです。
煩悩魔とは、煩悩によって信心が破壊されることです。
死魔とは、修行者の生命を絶つことで信仰を妨げようとする働きです。修行者の死をもって他の修行者に信心の疑いを起こさせることも、死魔の働きといえるでしょう。
天子魔とは、生命の根本的な迷いから起こる魔です。「第六天の魔王」ともいい、権力などありとあらゆる力を使って修行者に迫害を加えます。
池田先生は、「大事なのは、魔を魔と見破る眼を持つことである。そのために、教学があり、信心があるのだ」と教えられています。
◇困難を前進のバネに
——なんだか、怖くなってきました。
大丈夫ですよ。御聖訓には、「難が来たことをもって安楽と心得るべきである」(御書750ページ、通解)とあります。
信心に励む途上で直面する難は、たとえるならば、船が進む時に波の抵抗が起こるようなものです。その波浪を押し切ることによって境涯は開かれます。あたかもサーフィンをする際、サーファーが、向かってくる荒波を楽しむようなものです。
——困難を成長のエネルギーにすればいいのですね。
その通りです。その上で大切なことは、煩悩や家族の問題、心身の不調、死といっても、それら自体が障魔ではない、ということです。これに引きずられてしまう弱い生命、つまり、信心の迷いによって魔の働きとなってしまうのです。
大聖人は「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(同1091ページ)と仰せです。
三障四魔が出現した時こそ、信心を深める好機と確信して、むしろ喜ぶ"賢者の信心"で挑戦を続けることが大切なのです。
◇放課後メモ
「難を乗り越える信心」については、次の書籍の中でも言及されています。
○…『創価学会永遠の五指針』65ページ(聖教新聞社)
○…指導選集『幸福と平和を創る智慧』第2部[中]135ページ(同)
○…『教学入門』89ページ(同)