万人を幸福にする仏法を
自信満々と語りぬこう!
広布の請願に燃え
勇気と希望あふれる声を
友の胸中に響かせよう!
太田左衛門尉御返事 P1015
『予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか』
【通解】
私の法門は四悉檀を心掛けて説くならば、成仏の理に大きく違わないのであれば、とりあえず、一般社会の道理を用いるべきである。
〈寸鉄〉 2018年5月13日
SGIは人類共和の構築に貢献した—元大統領。心結ぶ対話へ堂々前進!
ただ信仰の力に生きんと心掛けんのみ—戸田先生強き祈りで宿命を使命に
母の日に望むのは"物"より子や孫の元気な姿と。偉大な母に感謝の言葉を
御書「結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す」。師弟の誉れは三世に輝く
4月の倒産件数28年ぶり低水準。実感できる経済再生へ公明よ更に尽くせ
☆誓いの天地 京都・京田辺新世紀圏 2018年5月1日
◇報恩の心で地域に尽くす
滔々たる木津川の流れ。緩やかな丘陵地に広がる緑鮮やかな田園。京都南部の「山城」と呼ばれる一帯は、かつて山城国に位置し、古くから、大阪・奈良を結ぶ要衝として栄えた。
京田辺市は、豊かな自然と学術研究都市が融合して発展してきた。
日本の「六玉川」の一つ「井手の玉川」が流れる井手町は、万葉の時代から、数多の歌人が歌に詠んだ景勝の地。
緑茶発祥の地といわれる宇治田原町には、歴史薫る文化財や史跡が点在する。
この1市2町を広布の舞台とするのが、京田辺新世紀圏である。友は広大な地域で訪問・激励に徹し、人材の連帯を広げる。
先月、圏男子部書記長に就いた大西広和さん。地元・京田辺市で、少年野球チームのコーチを務めている。
幼い頃から野球に打ち込み、中学卒業後、関西創価高校へ。主将として、関西校初となる春の選抜甲子園に出場し、ベスト4に輝いた。創価大学でも野球部主将を務めた。
4年次のリーグ戦で優勝した直後、創立者の池田先生に優勝旗を手渡す機会があった。先生は旗を受け取ると、エールを送るように重い優勝旗を八の字に大きく振った。師の大激励を胸に、チーム一丸で大学全国ベスト4を成し遂げた。
卒業後、地方銀行に就職。創価の人間野球で培った精神を胸に、仕事にも全力投球で臨んだ。だが、職場の人間関係で行き詰まった。その時、"負けたらあかん!"と支えてくれたのが、男子部の先輩だった。
"環境を変えるために、まず自分が変わろう"——そう決意し、学会活動にも挑戦。友人に弘教を実らせた。その後、職場の環境は改善し、取引先にも地道に信頼を広げていった。
2年前、長男が野球チームに入ったことを機に、指導に携わるように。
「学園、創大で池田先生から学んだ"心で勝つ"ことの大切さを、地域の子どもや後輩たちに伝えていきたい」
◇
福祉施設で働く岩田翔子さん(圏女子部主任部長)は、井手町で育った。実家は昨年から広布の会場として提供している。
かつては学会活動に積極的ではなかった。何度も通ってくれる女子部の先輩の励ましに発心。真剣に信心に励むようになった。
岩田さんは数年前、将来のことで深く悩んだ時期があった。目の前の仕事などで心が揺らぎ、悶々とした日々を過ごした。自分が悩んだ時、いつも励ましてくれる先輩が言った。
「"どんな人生を歩んでいきたいか"を明確にしていこう」
共に祈る中で、"自分らしく広宣流布の人生を"と心が定まった。
支えてくれた同志の恩に報いようと、対話に駆け、弘教を成就。「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書790ページ)の御聖訓を胸に、訪問・激励に歩いてきた。
今年、関わってきた支部では、10人を超す女子部の新たな活動者が誕生。岩田さんが地道に蒔き続けてきた励ましの種が花開いた。
岩田さんは「大好きなわが町に、華陽のスクラムを広げていきたい」と誓う。
◇栄光の共戦譜
●幸福と和楽への「京都革命」
本年11月は、池田先生が落成間もない京都国際文化会館を初訪問してから20周年の佳節である。
1998年(平成10年)11月18日、先生は同会館で行われた京都総会の席上、力説した。
「守りだけではなく、打って出て、猛然と攻め、戦うことである。民衆を利用し、民衆をバカにする『権力の亡者』には目にものを見せるぞ——そういう意気で!」
烈々たる師の闘魂に、参加者の心が燃え上がる。
神社仏閣が甍を並べる国土世間で、威風堂々の前進を続けてきた京都の友。先生が同会館初訪問の折、万感の期待を込めて示した指針が、「京都革命」である。
先生は、60回を超える京都指導を通して、愛する友に真心の励ましを送り、後継を託す青年部に「戦う魂」を伝えてきた。
95年(同7年)5月21日には、京都平和講堂で行われた「常勝関西第1回青年部記念総会」に出席。「広宣流布の闘士として、名を後世に残しゆけ!」と訴えた。
会場の前から2列目で参加していた石本茂人さん(支部長)。「人生の最後の瞬間まで、師に応える戦いをと誓った原点です」
信心強盛な母・眞須美さん(婦人部副本部長)の背中を見て育った。97年(同9年)、大阪で行われた第17回「世界青年平和文化祭」では、演目の圏の責任者を務め、当日は創価班として任務に就いた。
場外に立っていた石本さんの前を、先生を乗せた車が通過。会場の側で車から降りた先生は、詰め掛けていた同志に笑顔で手を振り、会場に入っていった。
「寸暇を惜しんで会員を励まそうとされる先生の振る舞いに、胸が熱くなりました。"私も生涯、人のために尽くす人生を"と決めました」
6年前に独立し、貿易関係の商社を設立。中国、ベトナムなどで取引を展開している。
「自身が『京都革命』の担い手として、地域で、社会で勝利の実証を打ち立てていきます」
◇
京田辺新世紀圏は、京都の中で、第1次宗門事件の障魔の嵐が吹き荒れた地域の一つ。
特に井手町では、77年(昭和52年)ごろから、学会が寄進した寺の悪侶が、口汚い中傷を繰り返すようになった。
邪悪との闘争が続いていた翌78年(同53年)10月12日、池田先生が当時の圏の中心会館だった宇治平和会館を訪問した。
「ごめんやす」
先生の"京言葉"に、参加者の顔がほころぶ。
先生は、皆と記念撮影を行い、開館10周年記念の勤行会に出席。「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず」(御書1143ページ)を拝し、いかなる苦難にも動ぜず、確固たる福運に輝く実像の人生を生き抜く、凜々しき日々であっていただきたいと語った。
この会合に参加した加賀山睦さん(副圏長)。先生の隣で記念のカメラに納まった。抱きかかえるように励ます師の姿を目に焼き付け、同志を守り抜いた。
経済的に苦しく、中学から養鶏場で働き、卒業後は地元・井手町役場に就職。定時制の高校へ進学した。
東京で行われた定時制高等部員の会合に参加した折、信濃町で偶然、師との出会いを刻んだ。
関西から来たことを伝えると、先生は「何事にもくじけず、頑張るんだよ」と。一瞬の出会いだったが、深く心に響いた。
その後、近畿大学の夜間部へ進学。"じっとこらえて今に見ろ"との思いで、働きながら学び、学会活動に挑んだ。
現在、地元の区長として地域に尽くす加賀山さん。「何事にもくじけず」との師の指針を心のど真ん中に置き、誓いの人生を歩む。
中坊美佐子さん(支部副婦人部長)も、宗門事件の渦中に同志の激励に奔走した。夫・清和さん(副本部長)と共に、「"御本尊と自分""師匠と自分"との間に不純物を入れてはいけない」と、ひたすら同志を励まして歩いた。
師と初めての出会いを結んだのは、63年(同38年)5月31日、大阪府立体育会館で行われた関西本部幹部会。先生の勇壮な学会歌の指揮に、勇気が湧いた。
重度の貧血、姑との関係など、悩みにぶつかるたびに、師が指揮を執る姿を思い返し、不屈の祈りで乗り越えてきた。
破邪顕正の心は今も赤々と。夫妻で弘教拡大にまい進してきた。
長女・宣子さんは京田辺市で支部婦人部長、次女・篤子さんは宮城県で副白ゆり長を務める。母の"正義の心"を二人の娘も受け継いでいる。
◇
先生は京都の同志に書き贈った。
「一生涯、愛するわが都を、『幸福の都』『和楽の都』、さらにまた、『広布の都』『創価の都』として、素晴らしき広宣流布の模範の歴史を綴っていただきたい」
師弟の共戦譜が幾重にも刻まれてきた、世界の憧れ・京都。わが地域を「幸福の都」「和楽の都」へ——「京都革命」に挑む友の威風堂々の前進は続く。