「耳にふるる者は
既に仏になるべき」
仏法に一文一句でも
縁する功徳は絶大だ。
友のために語りぬこう!
御義口伝巻上 P747
『南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり』
【通解】
南無妙法蓮華経は自行化他に亘るのである。今、日蓮及びその門下は、南無妙法蓮華経を勧めて、一切衆生に持たしめているのである。
〈寸鉄〉 2018年4月14日
熊本地震2年。犠牲者の冥福と被災地の復興を祈念。希望の明日へ共々に
新潟の日。「美しき信越」大拡大月間を驀進!大聖人有縁の地に人材山脈を
「相構て心を翻へさず・一筋に」御聖訓。何があろうが前へ前へ。誓願を貫け
学会は校舎なき総合大学—戸田先生。日々の活動こそ成長と幸福への直道
大麻の摘発、過去最多と。高校生ら増加傾向。若者狂わす魔物。断じて撲滅
☆虹を懸ける 池田先生とオーストラリア�=完 2018年4月8日
◇花園のように美しい団結で
オーストラリアに初めて支部が結成された1964年、メンバーは数えるほどしかいなかった。そのほとんどは、第2次世界大戦後に進駐軍の兵士と結婚した、日本からの"戦争花嫁"だった。
片言の英語で仏法の話をしても、誰も相手にしてくれなかった。
当時、オーストラリアの人口の約9割は、キリスト教徒。まして戦時中、日本は敵国だった。周囲は"日本の宗教"と聞くだけで眉をひそめた。
「彼女たちが折伏に歩くと、道端で唾を吐かれたこともありました。それでも懸命に題目を唱え、対話に挑戦していました。彼女たちの情熱に触れ、私も広布への決意を深めました」。草創のパトリシア・ヒルマンさんが教えてくれた。
広布開拓の同志は近隣との友好を深めようと、座談会だけでなく、イベントやコンサートなどを開いた。交流の中で友情は深まり、SGIへの理解も広がっていった。
池田先生は、つづっている。「正しき行動の人は、たとえ無認識な人から軽蔑され、非難されようとも、必ず、その偉大さが証明されるようになる」
草創の同志の忍耐と勇気によって、オーストラリア広布は切り開かれていった。
◇労苦を誉れに
草創の同志に励まされた一人が、フミエ・ヒラマツさんである。東京都出身。女子部時代に池田先生との出会いを刻んだ。
72年2月、結婚を機にオーストラリアへ。英語が得意というわけではなかった。
「行けば、どうにかなると思っていました(笑い)。でも、予想以上に言葉の壁は大きく、語学力のなさを痛感しました」
二人の子どもを授かったが、異国の地で頼れる親も友人もいない。そんな時、婦人部の先輩が足を運んでくれた。さらに、勇気の源となったのが、船便で届く聖教新聞と大白蓮華。師の指導を抱き締め、学会活動に走り抜いた。
忘れ得ぬ師弟の出会いは、93年10月に開かれた「文化親善家族祭」。秋晴れの創価大学(東京・八王子市)だった。ヒラマツさんは当時、オーストラリア婦人部長。ハンス・バンダーベント理事長(当時)と共に、創大池田記念講堂で待っていると、そこに先生が歩み寄ってきた。
二人が自己紹介すると、先生は「ついていらっしゃい」と優しく手招きを。講堂内の壁に飾られていた世界地図を見ながら、「オーストラリアは、ここだね」と指さした。
ヒラマツさんは「2000年のオリンピックは、シドニーで開かれます」と伝えると、先生は「知ってるよ。大きい国だね」と。さらに、こう続けた。「オーストラリアで一人を折伏するということは、日本で100人を折伏することに匹敵するんだよ」
その言葉にヒラマツさんは胸を打たれた。
オーストラリアは個人主義が強く、組織に入ることへの抵抗感を示す人も少なくなかった。また、永住権を取得できず、帰国せざるを得ない友人もいた。それでも皆、懸命に折伏に挑んだ。
ヒラマツさん自身も近隣をはじめ、会う人会う人に信心の素晴らしさを語り抜いた。彼女がオーストラリアで初めての弘教を実らせたのは、レバノン出身のタクシードライバーだった。
「先生は、私たちの苦労を全部、ご存じだったのだと、あの時、思いました。広布への労苦を最高の誉れとして、報恩の道を歩もうと誓いました」
後日、先生はヒラマツさんに語った。「花園のように美しく、仲の良いオーストラリアに」——。これが、生涯の指針となった。
昨年、ヒラマツさんはオセアニア長に就任した。「オーストラリアは多文化国家。だからこそ、異体同心の団結が大切です。花園のように仲良く美しい団結で、勝利の花を満開に咲かせていきます」
◇逆ピラミッド
ハンス・バンダーベントさんもまた、93年の「文化親善家族祭」での出会いが、人生の原点となっている。
池田先生と共に講堂内を歩いていると、創大の本部棟の完成予想図が展示されていた。
先生は指さし、「本部棟は、まだできていないけれど、私の頭の中には明確なビジョンがあります。君も、しっかりとしたビジョンを持っていくんだよ」と力強く語った。
さらに進むと、廊下に歓迎用の赤いカーペットが敷かれていた。だが、先生はそれを踏まないよう、廊下の端を歩いた。バンダーベントさんは首をかしげながら、後に続く。先生は彼の思いを察したのか、笑顔で語った。
「なぜ、廊下の隅を歩いているか、不思議に思っているでしょう。このカーペットは、いつも婦人部の方がきれいにしてくれている。だから、できるだけ汚さないように努力しているんだよ」
国内大手のテレビ局に勤務していたバンダーベントさん。スタジオのセット、照明、舞台装置などにエンジニアとして携わり、番組制作を支えていた。陰の苦労を身に染みて感じていたからこそ、行事を支える役員を思いやる師の慈愛に、目頭が熱くなった。
バンダーベントさんには、もう一つ忘れられない思い出がある。
95年1月、ハワイでの「世界青年平和文化祭」。メンバーを激励していた先生は、バンダーベントさんと目が合うと、「この前、お会いした時は、お辞儀しかできなかったね。今日は握手しよう」。そう言って、笑顔で手を差し出した。
バンダーベントさんは述懐する。「普通の組織では、リーダーはピラミッドの頂点にいますが、創価学会は正反対。逆ピラミッドのように、一番下で同志を支えていく存在が、学会のリーダーなんです。自分の生命に刻み込むように、一人一人を100パーセントの力で激励される先生の姿を通し、リーダーのあるべき姿勢を学びました」
現在、バンダーベントさんは副オセアニア長として、広大な天地を駆け巡る。師の振る舞いを常に思い出しながら——。
◇多文化社会の光
メルボルン在住のペニー・コーさんは、6人きょうだいの長女として、マレーシアで生まれ育った。
80年に入会。翌年、オーストラリアに渡り、スウィンバーン工科大学へ進学した。
師との出会いは大学院生の時。88年11月に来日した折、東京での懇談会だった。
池田先生は会場に入ると、オレンジジュースの入ったコップを持った。少し飲んだ後、「今日の朝、勤行をしてこなかった男子部はいるかな?」と見渡した。「君だな」と一人の男性に向かって、ジュースをかけるそぶりを。その瞬間、コップからは、ジュースの代わりに色とりどりの紙吹雪が舞った。鮮やかな手品に、爆笑と拍手が起こった。
「本当に楽しいひとときでした。私たちを喜ばせたいという、先生の気持ちが伝わってきて、胸がいっぱいになりました」
手品に見入っていると、肩をたたく人がいた。振り向くと、そこには笑顔の香峯子夫人が。夫人は両手でコーさんの手を包み込み、小さなブローチを手渡した。
コーさんは当時、父親の会社が倒産し、厳しい経済状況だった。仕送りのため、工場作業員や調理員など、四つのアルバイトを掛け持ちしていた。「池田先生と奥さまの激励を受け、"何があっても負けない"と強く決意しました」
大学院を修了後、国立病院へ就職。献身的に働き、職場での信頼を得て、永住権を取得できた。その後、経済苦も乗り越えた。
現在、コーさんはメルボルンにある州立病院で、超音波検査士として活躍。2009年に開かれた「世界超音波医学学術連合大会」では、それまでの功績が認められ、最優秀賞に輝いた。
両親をはじめ、きょうだいや親戚などを次々と入会に導き、地区婦人部長として、さっそうと広布に走る。
◇ ◆ ◇
オーストラリアSGIは今、新たなメンバーが陸続と誕生。29支部へと発展し、この10年で、2倍の陣列となった。
「希望大陸」——先生はオーストラリアをそう呼んだ。異体同心の団結で進み、多文化共生社会の中で光り輝く友こそ、"希望の太陽"である。