陰の人を大切に!
この感謝の心こそ
永遠の学会精神だ。
黙々と行動する同志を
最大にたたえよう!
華果成就御書 P900
『よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたりあしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず』
【通解】
良い弟子をもつならば、師弟は、ともに成仏し、悪い弟子をたくわえるならば、師弟は、ともに地獄に堕ちるといわれている。
師匠と弟子の心が違えば、何事も成し遂げることはできない。
〈寸鉄〉 2018年4月7日
会長の哲学と行動を継ぐ創価の青年が世界の希望—博士。開拓者の気概で
山梨婦人部の日。朗らかに幸の連帯築く母達よ。新たな地涌の友の拡大を
壮年部「太陽会」「敢闘会」の同志が奮闘!「信心に定年なし」の模範の勇者
御書「如来とは一切衆生」使命のない人はいない。幹部は確信の声で励ませ
寒暖差が激しく。外出時は予報をしっかり確認。聡明に健康第一心掛けて
☆世界に魂を 心に翼を第2回 海外派遣公演(上) 2018年3月29日
◇相互理解とは人と人との絆
1963年10月の創立以来、民音は、クラシックやポピュラー、歌謡曲、伝統芸能といった多彩な演奏会に加え、音楽コンクールや無料の市民コンサートを開催してきた。
63年には8回だった演奏会が、翌64年には273回、65年には620回、そして66年には1372回と、急速な発展を遂げている。
65年からはイスラエルのピアニストを日本に招くなど、世界の音楽を紹介。その一方で、今度は日本の音楽を海外に伝える「海外派遣公演」に着手する。
民音がスローガンの一つに掲げた「音楽を通じ国際間の文化交流を推進し、世界の民衆と友誼を結ぶ」。その実現に向けて討議が重ねられ、66年6月に、アメリカのロサンゼルス、サンフランシスコ、ホノルルの3都市で、初の海外派遣公演が決定したのである。
出演者は、歌手の守屋浩さん、藤本二三代さん、日本舞踊の尾上菊乃里さん、国内の一流ジャズメンを揃えたキングス・ロアー・オーケストラなど、豪華な顔ぶれが並んだ。
「僕は泣いちっち」等のヒット曲で知られる守屋さん。アメリカでの公演と聞き、持ち歌を英語に訳して披露しようと考えていた。
渡航する直前、民音創立者の池田先生が、出演者や役員らをねぎらう機会があった。
予定していた曲目を伝えると、先生は"英語の歌だけでなく、日本語の歌謡曲や民謡、童謡も歌ってみてはどうだろう。日本から渡り、言うに言われぬ苦しい思いをしている婦人もいる。彼女たちが元気になれる歌を届けてほしい"と。
プログラムを改めて検討し、公演のオープニング曲は、日本の唱歌「さくら」に決めた。
初演は6月10日、ロサンゼルスのシュライン公会堂で幕を開けた。来場者は5500人を記録している。
♪さくら さくら やよいの空は
見わたす限り……
思いがけない選曲、しとやかな旋律に、観客が瞳を濡らす。3時間に及ぶステージが終わった後、拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
◇ ◆ ◇
「会長に就任して、まず何をやろうとしましたか?」
あるインタビュアーの質問に、池田先生は即答している。
「まずアメリカへ行こうと決意しました。結婚してアメリカに行った婦人が、気の毒な思いをしている。できる限りの方法で激励はしてきましたが、いつも気にしています」
その言葉通り、就任5カ月後の60年10月、先生はアメリカへ。米軍関係者と結婚し、渡米してきた"戦争花嫁"に励ましを送っている。
異国の文化や生活習慣、言葉の壁と直面した新婚生活。「ジャップ!」と罵声を浴び、両国が戦火を交えた現実を突きつけられた。
カズエ・エリオットさんは、埼玉・朝霞の米軍基地に勤務する夫と出会い、59年に渡米。日本人病院で働いて家計を支える傍ら、同じ境遇の人たちに寄り添った。
ある婦人は夫から「PTAの書類だからサインしろ」。英語が分からず署名すると、離婚の書類だった。
海水に手を浸し、「この海は日本につながっているね」と慰め合う。日本の歌を一緒に口ずさんだ。
「『夕焼け小焼けの赤とんぼ……』と歌われたら、涙がこぼれます」とカズエさん。その日を生きるのに必死で、日本の歌を聴く余裕もない。レコードも持ってこなかった。
「今は、それぞれ、苦労や悩みがおありでしょうが、この使命を忘れることなく、アメリカに幸福の光を送る太陽となっていただきたいのです」——池田先生はカズエさんらに、市民権と運転免許の取得、そして英語の習得という、具体的な目標を示す。苦しみから逃げるのではなく、この場所で希望をつくろうと促した。
「アメリカ公演への先生の思いを、後から知りました。その時の感動は言い表せません」と述懐するカズエさん。10年以上かけて市民権を取得し、先生との誓いを果たしている。
◇ ◆ ◇
66年12月、アメリカ公演の第2回には島倉千代子さんらが出演した。
ハワイのある高齢者施設には、もう故郷の土を踏むことはないであろう日本人が多くいた。慰問に訪れ、日本各地の民謡を歌うと、聴衆はもちろん、司会者までも涙を拭い、言葉を詰まらせた。
翌67年10月、第3回アメリカ公演に出演した山本リンダさんは「こまっちゃうナ」でデビューして1年。紅白歌合戦を目前に控えていた。
アメリカ人の父は、リンダさんが生まれて間もない頃、朝鮮戦争に従軍。出征の朝、「必ず帰ってくるからね! 帰ってきたら、3人でアメリカへ行こう」と言い残し、帰らぬ人となった。父の祖国に渡るのは、今回が初めてだった。
歌に加え、ステージでお茶の作法を披露するなど、日本の伝統文化を取り入れた演出に喝采が湧く。
公演の合間に、学会の座談会を訪れたリンダさん。「"宿命に泣く婦人"といったイメージは全くありません。池田先生の最初の激励から7年。次々に信心の体験が語られていて、すごいバイタリティーでした」
◇ ◆ ◇
「50年以上も昔のことですが、まるで昨日のことのよう。久々の日本の歌だったから、たくさんの人が来てくれました」と、84歳のハツエ・ロブさん。渡米から60年を数える。
第1回アメリカ公演では、コーラスやバックダンサーも務めた。その衣装を、今も大切に保管している。
「日本語の歌なんだけど……」
ハツエさんがアメリカの知人に参加を勧めると、"構わないわ。音楽は世界共通だから、ぜひ行くわよ"と。後日、感動を語ってくれた。
半世紀を過ぎた今も、2人はかけがえのない親友である。
ハツエさんは、ロサンゼルスでカラオケ教室を30年続けてきた。老人ホームへの慰問ボランティアなどにも、40年以上携わっている。
「『歌』って、いいですよね。みんなが喜んでくれるし、自分も楽しい。音楽が人生を豊かにする。その心を、これからも広げていきたい」
◇ ◆ ◇
79年2月、文化・教育交流でインドのネルー大学を訪問した池田先生を、4人の女子学生が「さくら」「春が来た」を歌って歓迎した。
先生は、その情景を「歌声は、私に国境を忘れさせた。私は日本にいるかのようにほのぼのとした気持ちになった。異境で聞く故国の歌は、一つ一つの歌詞が心にさわやかにしみてくる」と記した。
同大学副総長のK・R・ナラヤナン氏が「今日は『一日教授』でいてください」と、にこやかに語ると、先生が「いや、私は『一日学生』です」と応じる。爆笑が渦巻いた。
「あの4人の学生さんには、最高の成績をつけてあげてください」。先生の「緊急提案」に、副総長も学生も手をたたいて喜ぶ。
ある男子学生が"創価学会を研究して博士号を取りたいのですが"と先生に申し出ると、副総長は「彼にとっては池田会長が"研究対象"なのです。どうぞ、よろしく!」と。
和やかな触れ合いに、女子学生は「政治、経済の寿命は短いですが、教育、文化の寿命は長い。歳月の経過とともに大きな花を咲かせます」と、この日の感動を述べている。
ナラヤナン氏はインド文化関係評議会会長などを歴任し、その後、第10代大統領に就任。インド、また日本で池田先生と親交を重ねてきた。
この出会いを振り返り、先生は、「文化の相互理解は、結局は、人と人との交流に始まり、人と人との絆に終わるというのが私の信条」と。
それはまた、世界を音楽で結びゆく、民音の信念でもある。