朝の挨拶が大事だ。
「笑顔で」「自分から」
「ハキハキと!」
家庭や地域や職場の皆を
明るく照らす太陽たれ!
阿仏房御書 P1304
『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり』
【通解】
今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大である。この五大は題目の五字である。それゆえに阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である。
〈寸鉄〉 2018年4月6日
青年は踏まれても伸びていけ—戸田先生。勝つまで挑戦!後継の誇り胸に
全幹部が満々たる生命力で訪問・激励へ。足を動かし語った分、希望は拡大
知識を身に付けるには根気よく質問する事—偉人子どもの好奇心を育もう
全国交通安全運動。飲酒運転を根絶。飲んだら乗るな。一瞬の隙が命取り
広島・原爆資料館の外国人入館者が最多。市民の声を総結集し断固廃絶を
☆虹を懸ける 池田先生とオーストラリア� 2018年3月28日
◇眼前の一人から未来は開く
悠久の大自然と、多様な民族文化が共生する希望大陸・オーストラリア。この地にも、池田先生との誓いのまま、広布に走る同志がいる。ここでは、同国に輝く師弟のドラマを紹介する。
青い海に大型客船や水上バスが行き交う。世界三大美港の一つとして有名なシドニー。同国最大の港湾都市である。
1964年5月13日、池田先生がこの地に、オセアニア広布の足跡を刻んだ。
この日、星空を見つめ、語った。「いよいよ南半球へ来たね。もうこの先が南極だ。地球も狭くなった。地球民族主義でいかなければいけない」
先生は、メルボルンやゴールドコーストなど、6日間の行程でオーストラリア各地を訪れ、メンバーを激励。「メルボルン支部」を結成し、さらなる発展に期待を寄せた。
以来、先生のオーストラリア訪問はないものの、同国の友は、日本をはじめ、世界の各地で刻んだ師との出会いを胸に、広布に立ち上がった。
◇生涯青春の心で
シドニー在住のロナルド・クラークさんも、その一人である。79年2月、オーストラリア男子部長として、香港での東南アジア代表者懇談会に出席した。
先生は会場に着くや、一人一人と握手を交わす。クラークさんにも「ハロー」と言って笑顔で手を握った。
「父と再会したような気持ちになりました」と振り返るクラークさん。9歳の頃、父親を病で亡くした。生きていたら、先生と同世代だったという。
どこまでも同志の幸せを願い、励ます師の姿に胸を打たれた。
席上、先生はマイクを手に語った。「いかなる人生の苦難があっても、御本尊を信じ、生涯、仏道修行に励んでいくことが、まことの信心といえる」
クラークさんが、この言葉をかみ締めたのは2カ月後のこと。先生が創価学会の第3代会長を辞任。邪宗門と反逆者が結託し、師弟の絆を分断しようとしていた。「でも、私は揺らぎませんでした。私の心の中に、先生がいたからです」
オーストラリアの国土面積は日本の20倍。学会活動のため、片道14時間かけ、車を走らせたこともあった。「土曜日の夜に家を出て、休憩しながら目的地へ。翌朝、会合に参加し、夕方までメンバーを激励して帰宅が深夜になることもしばしば。でも全然、苦ではありませんでした。全部、楽しい仏道修行です(笑い)」
その後、壮年部長等を務め、オーストラリア広布の礎を築いた。「生涯青春の心で、報恩感謝の道を真っすぐに歩んでいきます」
◇「握手」の意味
「私たちが来日するたび、池田先生は『寒くないかい』『暑くないかい』と、いつも体調を気遣ってくれました。日本とは季節が逆ですから」と、マギー・モリスさんは懐かしそうに語る。
70年2月に入会。10度、来日し、先生との出会いを結んだ。
師との思い出を聞くと、目を潤ませた。「先生は、どんな時も私たちを温かく迎えてくれました。まるで、長い間、会えなかった子どもたちを抱きかかえるように」
モリスさんの原点は85年7月、東京・八王子市で開かれたアジア青年親善友好大会。オーストラリアの女子部長として参加した。
先生はモリスさんと握手をしながら、こう語った。「これは、あなたの手です。でも、あなたとだけ、握手しているのではありません。オーストラリアの全女子部員と握手しているんですよ」
師の慈愛に触れ、全身に電撃が走った。先生に代わって、メンバーに希望を送ろうと心に決めた。
青春の誓いを貫き、地区や支部の婦人部長、方面婦人部長等を歴任。広布一筋の人生を歩んできた。現在、SGIでは最前線の婦人部グループ長、地域ではマンションの自治会長として奔走する。
「先生を思う時、無限の勇気が出るんです」——モリスさんの笑顔が輝いた。
◇陰の人も忘れず
オーストラリアでは、創価同窓の友も生き生きと前進している。創価大学2期生のハルオ・ニレさん。メルボルンに在住し、方面長等を務めてきた。
現在は、ダイヤモンドグループ(日本の多宝会に相当)の方面責任者を担う。仕事では、大手会計事務所でシニアマネジャーとして活躍する。
師との忘れ得ぬ出会いは大学2年の時。73年7月、創価大学の滝山祭でのこと。他の大学に通う友人らと一緒に構内を歩いていると、近くで1台の車が止まった。中から、創立者・池田先生が。ニレさんたちを見つけると、歩み寄ってきた。
ニレさんは「友人を連れてきました」と伝えた。先生は「私の創った大学へ来てくれてありがとう。今日は楽しんでいってください」と笑顔で。一人一人と握手を交わし、深々とお辞儀をした。
ニレさんは述懐する。「一学生の私たちにも、誠実を尽くす先生の姿に、感動を禁じ得ませんでした」
ニレさんは、師の期待に応えたいと猛勉強を。翌年、難関の公認会計士に合格した。
大学卒業後、就職を果たし、81年に結婚。同年6月4日、ニレさんは新婚旅行でイタリアを訪れた。思いがけなく、先生の欧州訪問と重なり、ミラノでの懇談会に参加することができた。
翌5日、ニレさんは先生を見送ろうと、イタリアのSGIメンバーと共に、ミラノの空港で待っていた。
やがて2台のバイクに先導され、1台の車が滑り込んできた。先生は車から降りると、バイクにまたがっていた二人の警護官のもとへ。握手をして感謝の言葉を述べた後、機上の人となった。
二人の警護官はメンバーと共に、先生を乗せた飛行機をずっと見つめていた。後日、一人の警護官が語った。「長年、国内外の著名人を護衛してきましたが、私たちにまでねぎらいの言葉を掛けてくれたのは、国民から敬愛されるイタリアのペルティーニ大統領と、池田SGI会長の二人だけです」
陰の人を見逃さず、励ます。ニレさんは師の振る舞いを胸に、誠実一路で激励に走る。
◇弟子が師を宣揚
オーストラリアの名門シドニー大学。池田先生に「名誉文学博士号」を授与している。学位授与式は、シンガポールでの同大学留学生の卒業式典で挙行された。2000年11月のことである。
授与式に参列した一人がエリザベス・ボーエンさん。当時、同大学の大学院生だった。
ボーエンさんが入会したのは22歳の時。幼い頃から自分に自信が持てず、劣等感にさいなまれていた。友人の母親から誘われ、SGIの集いに参加。自分の悩みを赤裸々に語りつつ、試練に力強く立ち向かうメンバーの姿に感銘を受けた。
入会して2年後、日本でのSGI研修会へ。青年に深い期待を寄せる先生の激励に奮起した。仕事と学会活動に励みながら勉学に挑戦。ニューサウスウェールズ大学に入学した後、37歳の時、シドニー大学大学院の博士課程へ進んだ。
そんな中、前述の授与式の知らせを聞く。
「シドニー大学は、人道的価値を追求する大学です。博士号の授与は、対話の力で平和をリードしてこられた先生への限りない称賛の証しでした」
ボーエンさんは05年、社会学博士号を取得。時を同じくして、オーストラリア婦人部長に就いた。「あんなに引っ込み思案だった私が、婦人部長になるなんて……。使命というのは、分からないものです」と笑う。
翌年4月、ボーエンさんは来日し、本部幹部会に出席。その時の先生の師子吼が耳朶から離れない。
——釈尊、孔子、ソクラテス、イエスの4人が、同時代の人々からの激しい中傷や迫害にもかかわらず、なぜ、後世に仰がれる存在となったのか。それは、弟子たちが戦って戦って戦い抜いて、師匠を宣揚し続けていったからである——。
ボーエンさんは弟子の勝利こそ、師匠の勝利に通じると誓いを新たにし、現在は副理事長として後進の育成に尽くす。「広宣流布は一朝一夕で成し遂げられるものではありません。だからこそ、後継の青年たちが大切です。私も先生と共に、青年の力を信じ、励まし続けたい」
かつて池田先生は、こうつづっている。「眼前の一人は、一人ではない。その人の背後に家族があり、友人がいる。後継の若人がいる」と。
目の前の一人を全力で励ます。そこから、未来は無限に広がる。