目標は明確に!
あいまいさは
空転に通じていく。
具体的な祈りこそ
大前進の力だ!
三世諸仏総勘文教相廃立 P570
『我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り』
☆こころに響く言葉
人間としての幸福を前提に
人間としての解放、人間としての幸福を前提にしない限り、女性解放運動も、
真実の成果をあげることはできないと思う。むしろ、政治、社会の次元で、
自由と平等の権利を得れば得るほど、より深い精神、人生の次元での空虚さは、
厳しさを増すとも言える。
☆「生老病死を見つめて」 故人との別れ 第1回
共戦の同志を真心で送る
心に寄り添い同苦するのが学会精神
創価学会の「友人葬」が始まって、間もなく四半世紀を迎える。
友人葬は、葬儀の本来あるべき姿として地域の人々の共感を得るとともに、一般社会にも定着。現在では、国内外の識者から高く評価されている。今回から「故人との別れ」と題して、友人葬が地域社会にもたらしたものや、その意義を考えていきたい。
◇「友人葬」に広がる共感の輪
本連載の第1回(2014年5月24日付)で、記者は自身の義父が亡くなった時の様子を記した。義父の葬儀は友人葬で行われ、地域の創価学会員をはじめ大勢の方が参列。導師や友人のあいさつ、また、参列者との交流を通して、自分が知らなかった義父の側面を数多く知ることができた。
広宣流布に生き抜き、亡くなった友を、共に戦った学会の同志が真心で送る—。これが友人葬の最大の特徴である。中には、友人葬に参加した未入会の家族や親族が、爽やかな葬儀に感動して、後に入会する事例もある。
友人葬を通して見えてくる学会の世界があるのではないか—。そんな思いで取材を始めた。
◇
学会の友人葬では、「儀典長」が奉仕の精神で導師を行っている。
新潟県長岡市在住の安藤恭三さん(86)=総新潟主事=は、友人葬が始まった当初から導師を担当し、儀典長を務めてきた。これまで担当した友人葬は600回以上になる。
「1991年(平成3年)5月下旬に、初めて友人葬を執り行って以来、常に意識してきたのは、共戦の同志を、どうすれば真心込めて送ることができるかという点です。
友人葬は故人との別れの場でもありますが、同時に残された家族が新たな出発を切る場でもあるのです。だから、信心を貫いてきた功徳がどれほどすごいのかを、日蓮大聖人の御書や池田先生の指導を通して、できるだけ分かりやすく伝えようと心掛けてきました」
◇手作りの「儀典長あいさつ」
安藤さんが力を入れたのは、故人の功労をたたえる「あいさつ文」の作成だった。手探り状態で初めて原稿を作って以来、その構成は20年以上経った今も基本的には変わっていないという。
「友人葬のあいさつでは、弔意に始まり、成仏について綴った御書を拝読し、故人の業績や人柄を紹介してたたえます。
また、故人が池田先生の指導にかなう偉大な一生であったことを伝えた上で、最後は故人の遺志を継いで、さらに広布のために共に前進しようと呼び掛けています」
安藤さんは葬儀が決まると、必ず遺族や地域の学会員に故人の話を聞き、手書きで原稿をまとめてきた。これまでに作成した原稿や葬儀の書類は膨大な数に上るが、それらは今も手元で、大事に保管しているという。
「長年、地域で圏長を務め、多くの同志と関わる機会を頂きました。その経験や、共に戦った思い出が原稿の基になっています。葬儀の後も遺族の方と再会した時に、あらためて故人をしのび、励ます機会も多い。いつでも見返せるようにと保存してきた原稿は、亡くなった同志の広布史にもなっています」
友人葬を通して、学会への理解を変えた例も多い。その中で忘れられない友人葬があると、安藤さんは語る。
「友人葬が始まって間もない92年(同4年)5月に、31歳の青年が会社の屋上から転落して亡くなるという痛ましい事故がありました。それが地域の学会員だったのです」
病院の霊安室で、「息子を友人葬で送りたい」と話す母親に対し、集まった親戚は「こんなかわいそうな死に方をしたのに、お坊さんを呼ばないとは、そんな薄情な話はあるか」と言って怒り、強く反対した。
「いくら話しても承知しない親戚に対し、最後はお母さんが霊安室の床に手をついて涙ながらに懇願し、親戚も仕方なく同意したそうです。そんな経緯で友人葬が行われので、私が導師としてお通夜に行った時は、親戚の方が私をにらみつけるなど、不穏な空気が漂(ただよ)っていました」
◇母の嘆きを包み込む大聖人
この葬儀で安藤さんは、南条時光の弟・七郎五郎が亡くなった際に日蓮大聖人が送られた、『時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候、まして母のいかんがなげかれ候らむ』(P1567)とのお手紙を拝読。併せて、この御文に触れた池田名誉会長の指導を紹介した。
「母にとって、生きる支えとも思ってきた最愛の子を、突然失った悲嘆はいかばかりであったことか。今でいえば、わが子を懸命に後継の人材に育て上げてきた婦人部のお母さんである。
大聖人は、その心に、深く深く染み入るように″四苦″の言葉を送っておられる。一人の母の言い尽くせぬ悲しみを、本当にわが悲しみとして、包容し、一緒に心で泣いてくださっている」(『池田大作全集』第80巻所収)
「かりに、信心強盛にして不慮の死ーー事故死したり、若死にしたりしても、御聖訓に照らし、仏の眼から見れば、何らかの深い意味がある。生前の福徳、また追善供養で救われることも間違いないと確信する」(同)
葬儀が終わった2日後、友人葬に最も強く反対していた親戚の一人が安藤さんの自宅を訪ねてきた。
そして、「学会の方を誤解していて悪かった。
本当にあなた方、学会員の真心に涙が出ます。
当にありがとうございました」と、丁重な御礼を述べたという。
「大聖人の『ゆめか・まぼろしか』という四苦こそ、仏法者としての根本の姿勢であると感じます。真心を尽くして追善していけば、必ず相手の心に伝わると確信した瞬間でもありました。
故人が学会員であろうとなかろうと、その姿勢は変わりません。最も苦しみ、悲しんでいる人の心に寄り添い、励ましを送る。それが大聖人のお心であり、学会精神です。
その心が、友人價の底流に流れているのです」
◇取材メモ
安藤さんは、1945年(昭和20年)8月1日の「長岡空襲」で、両親と弟妹を亡くした。その後、23歳の時には肺結核で倒れ、宿命に翻弄されるなか、56年に入会する。
紙箱を製造する「株式会社アンドウ紙器」を立ち上げて奮闘する一方、広布の庭では草創の班長、地区部長、支部長を歴任。その後、新潟県中央部の圏長として、日本有数の豪雪地帯を同志の激励に走り抜いてきた。また、長年にわたり日蓮正宗寺院の総代を務め、僧侶の聖職者にあるまじき実態もつぶさに見てきた。
「長岡は旧習深く、第1次宗門事件では多くの脱会者が出ました。本当に悔しくて、悔しくて……。だから、その後は同志一人一人を徹して励まし、師弟の絆、同志の絆を強めようと妻
(=芳江さん、総県婦入部主事)と奔走しました」
第2次宗門事件が起きて友人葬が始まった際、安藤さんは今後、友人葬は学会理解の場となっていくと直感したという。
「友人葬には、故人をしのび、遺族を思う同志の心があふれている。徹して一人を大切にするという人間主義は、学会にしかありません」そう語る安藤さんの言葉に、深く納得した取材だった。(秀)