2009年4月3日金曜日

2009.04.03 わが友に贈る

スタートが肝心。
「必ず勝つ
 結果を残す」
そう強く祈念し
颯爽と打って出よ!

上野殿後家尼御返事 P1505
天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし

◇四季の語らい
対話のカこそ世界を一つに結ぶ。対話によって、山積する地球的問題群の解決の糸口を見出すことができるのである。対話がなければ、人間は独善という暗闇の中を歩き続けねばならない。対話とは、その暗闇にあって互いの足元を照らし合い、歩むべき道を見出す灯火といえる。

◇今日のことば365
人間が人間として「豊かさ」をかみしめるのは、目先の簡便さなどではなく、自分自身が額に汗を流し、前精魂を傾けた労働にある時が多い。

▽韓国海洋大学から碩座教授称号。文化大恩の国が創価の師弟の闘争を讃嘆

☆三法律 巻頭言(S26.09.10)
世のなかに、三つの法律のあることを知らなくてはならない。
世間法律、国法律、仏法律の三つである。
今、日本の国には、仏法を知る者がほとんどいなくなった。
日蓮正宗以外の坊主は、ほとんど、仏法の定理を信じない。
否、知らないのである。
ゆえに、仏法律のあることを知らないのである。
世間法とは、世間的評判であり、物質的生活内容である。
国法律は正邪で、仏法律は勝負である。
世間法と、国法律とを、網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中ぐらいの目の網、仏法律は、ごく細かい網の目で、絶対に、この法律をのがれることはできない。
世間に、いかに評判が良く、物質的に豊かであっても、国の法律にはかなわない。
国法は世間法より厳しいのである。いかに、国法に準じ、世間に評判良く、物質的に豊かでも、仏法にそむけば、仏法律は絶対に厳しいのであるから、仏罰は当然である。
いかに、世間に評判悪く、貧乏で、万が一、国法にそむくようなことがあっても、仏法律にたがわなければ、冥冥の加護があって、世間的にもよくなり、国法の支配を乗り越えた幸福が、起こるのである。
世間法は、世間の交際が良いとか、お世辞が良いとか、商売がうまいとか、財産があるとかによって、この法の利益を受けるのある。
国法は正邪である。国の法律に照らして正であるか、邪であるかの判定をなしのであって、国民全体生活の秩序を乱さぬ最低範囲において、基準が置かれている。この基準日蓮大聖人様おいて、正邪を定めるのである。
仏法律は、国法をもっていかんとすることのできない、峻厳、かつ崇高な法律である。
日蓮大聖人は、仏法律に、すこぶる忠順であられた。
一切民衆に、真実の楽土を建設させんがために、命も捨て、苦しみをしのび、悪口に耐えて、ご奮闘あそばされた。もったいない限りである。
世間法からみて、決して評判は良くなかった。
国法からみて、世間法からみて、ほめられるご境涯ではない。しかるに、大聖人は、仏果を成ぜられ、末法の御本仏として仏国土に君臨あそばされて、東洋の仏法を、ここにご建立なされたのである。だれ人か、大聖人のご心境を奪えるものぞ。いかなる国法も、大聖人の仏果をさまたげうるものぞ。
大聖人が『日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大いに悦ばし』(御書全集P237)と。
されば、仏法律は国法律をもって、いかんともなしがたいものである。
国法律は、正邪をもって判じ、仏法律は勝負である。
仏法を信ずるものは、その生活において、勝負を決するのである。
末法今時において、日蓮正宗を信じ、ひたすらに題目を唱えるとき、仏法律によって冥々の加護を受け、誰人も奪いえない真の幸福をうるのである。
ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法、国法の一部分であることを忘れてはならないことである。一切法これ仏法である。とくに世間法に背き、国法に背くことはあってはならぬ。
ただ、仏法を守らんためには、世間法も背かねばならぬことはあるのである。