◇今週のことば
宝の未来部に光を!
負けじ魂の挑戦から
明るい希望の虹が。
多彩な個性を褒めて
伸び伸びと輝かせよう!
2020年5月18日
妙法比丘尼御返事 P1412
『法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし』
【通解】
法華経の敵を見て、世をはばかり、世を恐れて黙っていたら、釈尊の敵となってしまう。どんな智人・善人でも必ず無間地獄に堕ちる。
名字の言 南アフリカのマンデラ氏を支えた詩 2020年5月18日
「私は我が運命の支配者 我が魂の指揮官なのだ」。これは19世紀イギリスの詩人ヘンリーの詩の一節。題名の「インビクタス」は、ラテン語で「不屈」を意味する▼ヘンリーは十代で結核に感染して、カリエスになり、片足を切断。そんな自分を励ますために作った詩だ。さらに彼の姿がモチーフとなって誕生したのが、小説『宝島』に登場する片足の海賊シルバー。友人であるスティーブンソンが創作したものという▼後年、南アフリカのマンデラ氏が人種差別と闘い、27年半もの間、牢獄にいた時、心の支えとしたのも、この詩だった。感染症との闘いから生まれた魂の継承劇として、ウイルス学者の加藤茂孝氏が自著『人類と感染症の歴史』でつづっている▼コロナ禍と闘う気高き友から連日、本紙に「声」が届く。ある配達員の方は「活動自粛の中でも、聖教新聞を配達できることに感謝しています」。医療に従事する方からは「全ての患者の皆さんの生命力を引き出せますようにと毎日、真剣に題目に挑戦しています」と▼「5歳の長男が『コロナの薬ができますように』と祈ってくれています」とのお母さんの声も。きょうは「こ(5)と(10)ば(8)の日」。「不屈の人」の胸には、いつも希望の言葉が生まれてくる。(進)
寸鉄 2020年5月18日
有事の今こそ人々と絆を強める学会に期待—日本の識者。励ましの声益々
「秋田の日」55周年。何があろうと師と共に!この信心が日本海の雄の強さ
感染防止の基本は�身体的距離の確保�マスクの着用�手洗い。皆で実践
前向きな感情が幸福人生の力—心理学者。自粛の中でも聡明に成長の一歩
テレビやスマホは過度に見ると認知機能が低下—研究。生活にメリハリを
☆第3代会長就任60周年記念特集——「人間革命」の証明の劇 第5回「一人を励まし続けた人間指導者」
学会の会長とは、一言でいうとどんな仕事なのか。池田先生の姿を見続けてきたある人は「人生励まし業」と称した。第3代会長就任以来、先生が歩んだ60年とは宗教者として、文化人として、教育者として、何よりも人間として苦悩する友に寄り添い、生きる勇気と希望を送り続けた60年だった。「5・3」記念特集の掉尾となる�では「一人」を励まし続けた人間指導者の軌跡を追う。
�「師弟の原点」
苦悩で押しつぶされそうになっている友を、戸田先生が「どうした?」と包み込む。
1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任して間もない頃から、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室には、指導を求める会員たちが続々と訪れた。狭い廊下にまで列をなしている。
「こんな自分でも、幸せになれるでしょうか?」。同志が抱えていた悩みは千差万別である。経済苦、病、仕事、家庭不和……。戸田先生は、わが事として胸を痛めながら、相手の生命を揺さぶるように温かくも力強い言葉を紡ぐ。
「大丈夫。この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさい。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい」
戸田先生の個人指導は常に真剣勝負だった。「私は、一本の旗をもって、たった一人で、濁流の中に立っているみたいなものだよ。少しでも油断すると、旗と一緒に、濁流に流されてしまう」と述懐したこともある。
それでも「一人」を励まし続けたのには理由がある。
大きな会合での指導や組織的な結び付きだけでは、本当の信頼関係は生まれない。
目の前の一人の悩みに寄り添い、共に幸せになろうと励まし、心と心を通わせる中にしか、一切衆生の幸福を目的とする広宣流布の広がりも、実体も、ないからだ。
◇戸田先生「民衆の"最大の味方"となって進んでいきなさい」
戸田先生は、若き日の池田先生に遺言のように語った。「民衆ほど強いものはない。民衆のなかで、民衆の最大の味方となって、進んでいきなさい」と。
恩師が一対一の膝詰めの対話を心掛けてきたように、池田先生もまた、民衆の中に飛び込んで、一人一人と心を通わせ続けた。
戸田先生の構想の実現へ、池田先生が弘教拡大の指揮を執った蒲田の二月闘争、文京の戦い、札幌夏の陣、大阪の戦い、山口開拓指導——。
池田先生は一人の幸せを願い、一人と会い、一人を励まし抜いてきた。先生から直接激励を受け、苦境を勝ち越えた同志のエピソードは枚挙にいとまがない。
「一人を大切に」。この学会精神が千波万波と広がり、他に類を見ない"自他共の幸福に尽くす一大民衆勢力"が築かれたのである。
�「建設と飛翔」
池田先生が第3代会長に就任すると、激励の舞台は日本全国、世界各地へと広がる。
その一方で、先生のまなざしは、今まで以上に一人一人へと深く注がれていった。
会長就任1年前の59年1月と、60年4月——秋田生まれの一人の青年が、先生から手紙を受け取っている。彼がいた場所は、日本から見て地球の反対側にある国、アルゼンチンだった。
57年に青年は日本で入会し、仕事を求めてアルゼンチンへ。まだ同志が少なく、途方に暮れていた折、"困った時は池田先生に相談するように"との先輩の言葉を思い出し、手紙を送ったのだ。
一度も会ったことのない一青年からの手紙に、返信を書いてくれるとは——彼が驚いたことは言うまでもない。便箋には力強い筆致で、海外にいる同志の姿は「世界の黎明を意味して居る」等とつづられていた。また、「題目を声高らかにあげ、勇敢に堂々と生活に事業に戦い、大陸の大勝利者に」とも。
その後も励ましは続いた。青年は、やがてアルゼンチンSGIのリーダーとなり、93年2月には、同国を初訪問する先生を迎えたのである。
どんな小さな出会いもおろそかにせず、勝利を祈り、見守り続ける。それが池田先生の行動にほかならない。
69年3月、本州最北の下北半島に住む中等部員が部員会の集合写真を先生に送った。
後日、先生から書籍が届いた。扉には「下北の中等部員の成長と栄光を ぼくは いつも祈ろう。此の写真の友と十年後に必ず会おう」と。
末尾には「1969・4・2」、さらに、「1979・4・2」と記されていた。
その後も、「下北の わが中等部 嵐征け」と、激励の言葉が届く。
79年1月14日、先生は青森文化会館へ。頼もしく成長した中等部員たちと会い、約束を果たした。
「よく来たね!」「御本尊に誓ったこと、約束したことは破ってはいけない。実行することが最高に尊いことなんだ」「君たちは勝ったんだよ」
写真を届けた友らは師との誓いを胸に、それぞれの使命の舞台で実証を示していく。
◇どんな時も 友の笑顔を守るために
79年4月に会長を辞任した後も、先生の行動は変わらなかった。草創からの功労者宅への訪問を開始。その数は600軒を超えた。
「立場は変わっても、精神は変わらない。姿勢は変わらない。決して後退しない。行ったところ行ったところで、友を励まし、友を讃え、広布のため、同志のため、前へ前へ進んでいく。それが学会精神である」——この信念のままに、先生は世界を駆けた。
先生の激闘によって、SGIの連帯は192カ国・地域へと拡大。師の姿を命に刻んだ後継の友らが、今いる場所で励ましの輪を広げている。
�「世界が称賛」
◇縁する友を苦悩の人を 一人も残らず幸せに!
ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領「池田SGI会長の力は人格であり、哲学の深さ、人間性の大きさです」
目の前の一人と「人間」として誠心誠意、向き合い、信頼の絆を結んでいく。相手が市井の人々でも、国家指導者でも、池田先生の姿勢は変わらない。
元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏との交流も、そうだった。
先生との初会見は今から30年前の1990年7月27日、モスクワのクレムリンで。今日に至るまで続く友情は、先生の次の言葉から始まった。
「きょうは、大統領と"けんか"をしに来ました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう」
ユーモアあふれる第一声に氏も破顔一笑。「池田会長の活動はよく存じ上げていますが、こんなに情熱的な方だとは——」「私も率直な対話が好きです。本当に、池田会長とは、昔からの友人同士のような気がします」と応じた。
会談で氏は、"来春に訪日したい"との意向を表明。同日夜のNHKニュースが大きく報道したほか、日本の主要各紙も翌日付の1面トップで伝えた。そして、翌91年4月に氏の初来日が実現したのである。
当時、ソ連は変革の渦中にあった。氏が大統領として主導した「ペレストロイカ(改革)」は、その思想の先進性ゆえ、反感を抱く人も少なくなかった。保守派によるクーデターが勃発し、ライサ夫人と共に軟禁状態に置かれたこともある。
ソ連解体後、大統領の座を辞した途端、多くの人が氏のもとを離れた。だが、池田先生との友情は、一段と深まりを増していった。
大統領辞任の4カ月後(92年4月)、東京で氏と会った先生は「『偉大なる道』は、偉大さのゆえに多くの困難があり、苦渋もある。長い戦いとなる」「しかし『偉大なる道』には未来の喝采が待っています」と励ました。そばにいたライサ夫人にも「奥さまが、カントやヘーゲルなどを含め、幅広く哲学を学ばれたことも、よく存じております。大哲学者のご夫妻です」と称賛を送っている。
その後も先生と氏との語らいは重ねられ、96年には対談集『二十世紀の精神の教訓』が発刊された。
97年11月20日、氏はライサ夫人と共に関西創価学園を訪問。この時が、池田先生ご夫妻とライサ夫人との最後の語らいとなった。
99年夏、ライサ夫人が急性白血病で倒れてしまう。闘病中、逝去後も、先生ご夫妻は何度も電報や手紙を寄せた。
「毎回、池田会長ご夫妻の真心に包まれる思いでした」——2001年11月、先生と再会した氏は、そう振り返っている。氏がライサ夫人と共に訪れた関西創価学園での思い出を語ると、先生は「私たちも一生、忘れません。偉大な、あまりにも立派な奥さまでした。崇高な人生でした」と最大にたたえた。
ゴルバチョフ氏は言う。
「池田会長の力は、権力でもなく、腕力でもありません。会長は詩人であり、哲学者です。その会長の力は、人格であり、哲学の深さであり、人間性の大きさです。それを心から尊敬しています」
「生きている限り、私は池田会長との友情、会長との交流を続けたい」
◇国家指導者から庶民まで 友情と信頼の絆を結び