一言が大事だ。
一人の友の奮闘に
「本当にありがとう!」
「よくぞ、ここまで」と
真心の言葉で応えよう!
日女御前御返事 P1245
『石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり、何に況や仏法においてをや』
【通解】
中国の李広(りこう)将軍が放った矢が石に立ったというのも、(石を父親を殺した虎と思い)父親の仇と信じ抜いた一念の強さゆえである。まして、仏法においては、なおさらのことである。
〈寸鉄〉 2019年10月27日
創価教育は人類平和の為の道標—識者。世界市民育成の揺籃に各界が注目
学会員には困難に立ち向かう強さが—議員。被災の皆様、再起の劇を断固
会合の指導と個人指導の比率は「2対8」に。幹部率先の行動で広布は脈動
文字・活字文化の日。同志の本紙拡大に感謝。世界に誇れる希望の論調益々
ごみ収集車で火災多発!原因は電池等と。分別は再生の要。皆で規則順守
☆ロータスラウンジ 第10回 化城喩品第七(下)
◇仏法を行じ弘める振る舞いそのものがすでに仏の姿
法華経について、皆で学び、深めよう——「ロータスラウンジ——法華経への旅」の第10回は、「化城喩品第七」(下)です。前回の続きから、内容を追っていきます(前回は9月7日付。原則、月1回掲載)。
■大要(続き)
前回までで、仏と在世の弟子たちの「宿世の因縁」を説いてきました。それを受けて、「化城宝処の譬え」を通して、一仏乗の法華経こそが仏の真意であることを教えます。
では、砂漠を旅する一行のドラマを見てみましょう。
●シーン5
——人の行き来も絶えて、通るのも危なく恐ろしい、五百由旬という長い長い道がありました。
この悪路を通った先にある宝処(宝のある処)を目指し、多くの人々が歩んでいます。その一行の中に、険しい道の先まで見通せる、一人の聡明なリーダーがいました。
一行はリーダーのもと、険しい道を乗り越えようと、進んでいました。ところが道半ばで、音を上げます。
「私たちはひどく疲れ、もう進んでいくことができません。まだ、先は遠く、今から引き返そうと思います」
その言葉を聞いたリーダーは、思いました。"可哀想なことだ。どうして、すばらしい宝を諦めて、帰りたいと願うのだろうか"
そこでリーダーは一計を案じ、神通力を使って、三百由旬を過ぎた所に一つの城(都市)を出現させて語り掛けます。
「皆さん、恐れることはありません。どうか、諦めて帰ることはしないでください。この城に入れば、休息し、安穏になれます。宝処を目指そうと思えば、また進むことができるようになりますから」
疲れ切った人々は、「悪路をのがれることができて、安穏を得られるのだ」と歓喜し、進んで城に入り、休息を取りました。
皆の疲れが取れたので、リーダーは化城を消して、人々に語ります。
「皆さん、さあ、宝処は近くにあります。先ほどの大きい城は、私が作り出したもので、皆さんを休ませるためだけのものです」
「さあ、共に宝処へ!」——。
●シーン6
釈尊は、比丘(出家した男性信者)に告げます。
——仏も、このリーダーと同じようなものです。今、あなたたちのために、大導師となって、生死や煩悩に満ちた、険難で長遠な悪路を導いてきたのです。
もし、衆生が一仏乗だけを聞いたならば、"成道は、はるか遠い"と思い、仏を求める心を起こすこともなかったでしょう。だから仏は、比丘たちの心が弱いことを知って、仏になる道の途中に、休息させるために、あえて二乗を説いたのです。
それなのに、衆生が声聞や縁覚の覚りに安住していれば、仏はその人たちのために説くのです。
「あなたたちは、まだ真実の覚りを得ていない。真実の仏の智慧は、近くにある。仏は、方便の力によって、一仏乗を三乗に分別して説いてきたのです」と——。
■本来の願い
「化城宝処の譬え」は、開三顕一(三乗を開いて一乗を顕す)を説いています。
リーダーが作り出した幻の城は、仏が衆生を導くために説いてきた三乗方便の教えを譬えています。
ところが、二乗の覚りに満足してしまい、仏の無上の覚りを得ようとする心を起こさないので、「宿世の因縁」を説くことで、本来の願いを思い出させ、導こうとしたのです。
池田先生は、語っています。
「この心(=自他ともの幸福を願う心)を生ききるには、『師』が必要なのです。そのことを、長遠の時間にわたる師弟の因縁を通して、化城喩品で教えているのではないだろうか。要は、ここでいう因縁とは『人間と人間の永遠の絆』のことです。決して、人間を離れたものではない。人間を外から縛るものでもない。反対に、弟子の自分が、自分の生命の根本にある『成仏の因』を自覚する。すなわち久遠の『本願』を思い出す。そして、その因を仏果へと育ててくれる師匠という『縁』のありがたさを自覚する——この『最高の絆』への感謝と感動が、化城喩品の心なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)
■化城即宝処
「御義口伝」には、「化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処なり」(御書732ページ)と示されています。
日蓮大聖人は、法華経の文を深く拝されて、「化城即宝処」と、化城と宝処は別々ではないと仰せです。
池田先生は「法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。化城即宝処なのです。その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的である。つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)と語っています。
たとえいかなる境涯、境遇にあっても、自行化他にわたって南無妙法蓮華経を唱えていく時、その一瞬一瞬の生命に仏の生命が現れるのです。九界の衆生の生命に、仏の境涯を顕していくことができるのです。
■広宣流布は流れ
池田先生は「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体である。何か特別な終着点があるものではない。『こうなったら広宣流布』というのは、譬えでは言えるが、決まった形のことではない。大聖人の仏法は『本因妙』の仏法であり、常に未来に広がっていく正法なのである。末法万年尽未来際のための仏法である。永遠に戦い続けることが、広宣流布に生きるということだ」とスピーチされました。
さらに先生は、「前進するためには、目標という『化城』を設定しなければならない。しかし、その『化城』に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです。その舞台が、すでに『宝処』なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)と語っています。
日々前進の人生こそが、"広宣流布に生きる"ことなのです。
◇『法華経の智慧』から 喜んで広布の苦労を
すべての活動を楽しんでいくことです。苦しみきった仏の所作などない。
「さあ喜んで、広宣流布の苦労をしていこう」「さあ、またこれで福運がつく」「また境涯を広げられる」と喜べる自分になれば、それ自体、仏界が輝いている証拠でしょう。(中略)
生きているかぎり、何か問題があるのは当然です。それをいちいち一喜一憂していたのではつまらない。
目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。歯をくいしばって道を開いていく——振り返ってみれば、その時は苦しいようでも、じつはいちばん充実した、人生の黄金の時なのです。三世のドラマの名場面なのです。
大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり」(御書734ページ)と仰せられています。これはまさに、妙法を持ち、行ずる私たちの境涯を教えられています。いずこにあっても、いかなる境遇にあろうとも、私たちの根底は「歓喜の中の大歓喜」(同788ページ)なのです。
(普及版〈上〉「化城喩品」)
◇師と共に 学会と歩む幸福人生
「御義口伝」に「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城に堕つ可し」(御書734ページ)とあります。
妙法を唱える人は、皆が共に、仏の覚りの境地を開けると教えられています。その上で、「共」の一字が、仏界と地獄界の分かれ目となるのです。
「日蓮に共する」とは、私たちでいえば、大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布という大願を同じくして進むことです。広くいえば、広布の大願を現実のものとする学会と共に歩むことにほかなりません。
さらに、「在在諸仏土 常与師倶生」(法華経317ページ)の文からも、私たちの前進は"常に大聖人と共に"あるといえます。そのことを生命で実感することが宝処に至ることです。
また、「化城即宝処」の教えからも、広宣流布にまい進できること自体が、幸福なのです。