2019年10月19日土曜日

2019.10.19 わが友に贈る

気温が大きく変化し
体調を崩しやすい時期。
風邪や流感に注意!
"百千万億倍の用心"で
賢明な予防と対策を!

聖人御難事 P1190
『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』

【通解】
月々日々に信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきにつけこんで襲ってくるであろう。

〈寸鉄〉 2019年10月19日
「最後の勝利は苦労した人間にある」戸田先生。今の奮闘は生涯の宝なり
リーダーとは希望を配る人のこと—英雄。今こそ励ましの光で地域照らせ
「互に読聞けまいらせさせ給え」御書。共に学び共に成長。これ学会の魂
東日本で雨続く。少しの量でも洪水や土砂災害に警戒と。常に情報を確認
いじめ認知件数54万件で過去最多。学校・家庭・社会が一体で根絶へ総力を

☆心に御書を 第4回 悔いなき凱歌の人生を
『一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ』(如説修行抄、504ページ)

◇通解
一生は、つかの間に過ぎてしまう。それゆえ、いかに三類の強敵が重なろうとも、決して退く心、恐れる心を起こしてはならない。

◇池田先生が贈る指針
御本仏は、命に及ぶ大難の佐渡でも、悠然と弟子たちを励まされた。
断じて退くな! 何も恐れるな! 勇敢に試練の嵐を乗り越えれば勝利の青空が広がるのだ。
この如説修行の魂を受け継ぎ、創価の師弟は三類の強敵と戦い抜いてきた。これ以上の誉れはない。我らは大聖人直系の「師子王の心」で、悔いなき凱歌の人生を!

☆池田華陽会御書30編に学ぶ 上野殿後家尼御返事(下)(地獄即寂光御書) 2019年10月12日
◇信心根本に幸福境涯を確立 宿命転換の哲理を胸に
今月は、「上野殿後家尼御返事」の後半を学びます。
池田先生は、本抄の講義の中でつづられました。
「宿命との戦いに際して、尼御前は、どこまでも大聖人を求め抜き、戦い抜き、見事に勝利していきます。仏法の生死観を極めた師匠と共に戦えることが、どれほど、すばらしいことか。師弟共に、『生も歓喜』『死も歓喜』の境涯を歩むことが、真の即身成仏の法門なのです」
日蓮大聖人が女性門下に示された、いかなる宿命にも負けない幸福哲学を学んでいきましょう。(拝読範囲は、御書1505ページ11行目〜本抄末尾です)

◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が、駿河国(静岡県中央部)の門下であり、南条時光の母である上野尼御前に送られたお手紙です。
尼御前の夫・南条兵衛七郎は、文永2年(1265年)3月、重い病のため亡くなりました。
本抄は、文永11年(1274年)の御執筆ともいわれてきましたが、内容等から、兵衛七郎の逝去のすぐ後、文永2年7月の御述作ではないかと考えられています。
兵衛七郎が亡くなった時、後に家督を継ぐ次男の時光は7歳、末の息子はまだ尼御前の胎内にいました。
大聖人は本抄を通して、悲しみをこらえながら必死の思いで家族を守り育てる尼御前を、包み込むように励まされています。

◇御文
『故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・凡夫のふるまひを示し給うか。
いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよと・をしへ給う・ことわりにもや候らん、此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘しさせ給へ』(御書1506ページ8行目〜13行目)

◇通解
亡くなった上野殿は、この法華経の行者ですから即身成仏は間違いありません。だから、そのように嘆くべきではありません。しかしまた、嘆くのが凡夫のならいです。もっとも、聖人であっても嘆くことはあるのです。釈迦仏が入滅された時、多くの優れた弟子たちが、悟りを得ていたのに嘆かれたのは、凡夫の振る舞いを示されたのでしょうか。
何としても、追善供養を心ゆくまで励まれることです。
昔の智者の言葉にも「心の根底を第九識(根本浄識)におき、修行は六識においてしなさい」と教えられています。これは道理かもしれません。
この手紙には日蓮の胸中に秘めた大切な法門を書きました。心に深くとどめておきなさい、とどめておきなさい。

◇解説
本抄を結ばれるに当たり、大聖人はあらためて、"亡くなった兵衛七郎は法華経の行者であったので、即身成仏は間違いない"と仰せです。"ですから、何も嘆くことはないのですよ"との、師の慈愛と確信あふれる言葉に、尼御前はどれほど勇気づけられたでしょうか。
しかし尼御前にとって、大切な人を失った悲しみや、幼い子を抱えて暮らす不安は、簡単にぬぐい去れないほど深かったに違いありません。
大聖人は、そうした心情に寄り添われ、"分かっていても、つい嘆いてしまうのが凡夫です。聖人でさえ特別な時には嘆くものです"と、励まされます。
最愛の人の死に接し、心の整理がつくまでの時間は、誰かが決められるものではありません。大切なことは、ありのままの気持ちで、"心ゆくまで"題目を唱え抜いていくことです。
また、追善の祈りも、妙法の祈りであれば、全てが仏道修行に通じていきます。本抄では、「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」との、古徳の言葉が引用されています。
仏法の生命観を示す法理に「九識論」があります。これは、生命が物事を認識する働きを、表層から深層に向かって9種に分けたものです。
「六識」とは、五感(眼・耳・鼻・舌・身)の働きである「五識」に「意識」を加えたもので、私たちの日常は六識の働きで成り立ちます。
この六識の次に、七識・八識があります。そして「九識」こそ、最も根源にある清浄無垢の生命、すなわち仏界です。
「心地を九識にもち」とは、現実がどんな状況であれ、自らの生命に尊極の仏界があることを確信し、御本尊に祈り抜いていくことと拝せます。
その上で、「修行をば六識にせよ」とあるように、仏道修行の場は、どこまでも現実生活の中にあります。
現実の悩みや目標に向かい、真剣に題目を唱え抜くことで、仏界の生命を涌現させ、確立していくことができるのです。
どんな悩みも、信心根本に立ち向かえば、最高の幸福境涯を開く糧となることを確信し、前進していきましょう。

★池田先生の講義から
たとえ今、地獄の境涯にあったとしても、一念が転換すれば、直ちに妙法の当体としての清浄にして尊極なる生命を、その身のままで、現すことが可能なのです。(中略)
大聖人は、その身に成就された尊極の生命を御本尊としてあらわしてくださいました。その御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、我が生命を覆う無明を打ち破って、妙法と一体の仏界の生命を、我が身に涌現していけるのです。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)
◇ ◆ ◇
御本尊の前では、何も飾る必要はない。
嬉しいときは嬉しいままに、悲しいときは悲しいままに、ありのままの自分で御本尊を拝していくことです。
苦楽ともに思い合わせて、題目を唱えに唱え抜くのです。
妙法の広大な力によって、その祈りがすべて仏道修行になります。何があろうと唱題し抜いた人が、真の勝利を得るのです。(同)

◇研さんのために
○…『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻(聖教新聞社)
○…『信仰の基本「信行学」』(同)
○…2018年6月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす太陽の仏法」