地道に戦い続ける人が
最も偉い 最も尊い。
建設は死闘 破壊は一瞬。
断じて魔を寄せ付けず
誉れの道を歩み抜こう!
転重軽受法門 P1000
『修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかばすりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり』
〈寸鉄〉 2018年2月27日
「閻浮提に広宣流布せしめんか」御書。学会こそ仏意仏勅の世界教団なり
各地で女性の日。地域を照らす太陽と花の婦女の連帯。幸の行進をさらに
「道を開け!道を創れ!一切を勝利の劇に」戸田先生。後継の使命ここに
外出・入浴時等の温度差による血圧変動に注意。防寒・暖房など油断なく
ストレスを感じる時こそ楽しい方へ心を向けて—医師。逞しき楽観主義で
☆虹を懸ける 池田先生と香港�=完 2018年2月16日
◇ここに常楽の都を築こう
「まだ、香港にいるのは十数人の同志にすぎない。しかし、二、三十年もすれば、何万人もの同志が誕生するはずです。皆さんが、その歴史をつくるんです」
1961年の池田先生の確信は、30年近い歳月を経て、現実のものとなった。
この初訪問を終え、離陸した飛行機の窓から先生が見たのは、有名な「獅子山」(ライオン・ロック)である。
10度目の訪問となった88年1月、旭日のごとき発展の象徴として「香港文化会館」が開館した。
裏手には獅子山がそびえ、香港広布の獅子たちを見つめる。
九龍の文教地区の一角に完成した新会館。1000人規模の講堂をはじめ、隣接の会館等も含めると、現在は2000人以上を収容できる。土地が狭く、ビルが林立する香港には、それまで大勢が集える法城がなかったこともあり、同志の感激はひとしおだった。
◇負けない心を!
1月28日の開館式では、池田先生と並び、青年部の代表らがテープカットを行った。
梁愛群さん(婦人部企画長)は、香港女子部長としてテープにハサミを入れた。その胸中には、師と共に広布と社会の新時代を築く決意があふれていた。
かつて先生は梁さんに言った。「しっかり頑張って、幸せな人生を送るんだよ」と。
病気がきっかけで学会活動に取り組むようになった梁さん。入会前は将来に希望が見いだせずにいたが、信心に出あい、苦難に負けない自分に変わることができた。
先輩から師弟の精神を学び、皆で励まし合って成長してきた女子部時代は、かけがえのない原点に。83年に女子部長に就くと、師匠の心を伝えながら、幸福のスクラムを大きく広げてきた。
「先生が言われた通りに実践したおかげで福運が付き、皆が幸せになりました。香港社会は常に変化の連続です。だからこそ、何があっても純粋な信心を貫いていけるよう、目の前の一人一人を大切にしていきたい」
現在は主に離島地域を担当。フェリーで海を渡り、訪問激励に歩きながら、あの地この地に同志がいる喜びをかみ締める日々だ。
◇幸の旭日よ昇れ
88年の訪問の最大の眼目は、16カ国・地域のメンバーが参加する第9回「世界青年平和文化祭」であった。
開館式の後の最高会議で、池田先生は香港広布の歴史を振り返りながら語っている。
——御書に「二陣三陣つづきて」(911ページ)と仰せのまま、当時はまだ生まれていなかった若き後継の世代の力で、アメリカに次ぎ、日本を除くアジアでは初となる「世界青年平和文化祭」が開催される。これこそ「一閻浮提広宣流布の大願成就」への大いなる証しである——と。
アジア広布の起点・香港から、希望の大波は全世界に広がる——そう先生は信じていたのである。
その万感の思いを込めて詠んだのが、長編詩「平和の港に 幸の旭日よ昇れ」だった。
ああ いま 海の彼方
旭日は昇り
我らが待ちに待った
まばゆき黄金の朝は
訪れた
それは アジアの
そして 世界の
永劫の平和の
夜明けだ
文化祭前日(30日)の香港総会の席上、中国語で詩が朗読されると、会場の香港文化会館は深い感動に包まれた。
地より涌くか
不思議なる
縁の君らよ
元初の太陽を浴びて
躍りいで
後継のたいまつを
掲げ 歓喜の
ファンファーレも
高らかに
いま まさに
世界青年平和
文化祭の 幕を
開かんとしている
翌31日。先生が各界の来賓500人と共に見守った祭典は、「生命の歓喜 平和の光彩」とのテーマにふさわしい、圧巻のステージとなった。
会場の香港コロシアムには、出演者やその家族、役員なども含めると、延べ3万人の参加者が。グランドフィナーレの後、マイクを手にした先生は、力強く呼び掛けた。
「大変に素晴らしかった。大変に朗らかだった。大変に頼もしく、大変に美しかった。そして、私は心から感動いたしました」
李然賛さんは、2500人が出演した文化祭を、舞台役員として陰で支えた。
「ステージ裏にいた私は、先生にお目にかかることはありませんでしたが、出演者が歓喜する姿を見た時は、感無量でした」
幼少期にポリオを患い、左足に軽度の障がいがある李さん。人には負けたくないと、空手などで体を鍛えたが、心はずっと劣等感にさいなまれていた。
転機は、小説『人間革命』を読んだ中学生の時。戸田先生と池田先生の師弟一体の激闘に感動し、学会活動に参加するように。その中で大学に進み、漢方医(中医)になるという目標が定まった。
だが志望校は不合格となり、専門学校を卒業後は営業職に。それでも夢を諦めることなく、仕事と活動に取り組み、真剣に唱題を重ねた。香港副青年部長や未来部長としても奮闘してきた。
香港がイギリス領だった当時、中医は公的な資格がなかった。しかし、97年に中国に返還されると、香港政府が中医の免許制度を設けることに。猛勉強の末、資格を取得し、大学にも入学。大学院まで修了した。
今、香港島のビジネス街に診療所を構える李さん。確かな実績が認められ、テレビに出演したことも。さらには受験で涙をのんだ香港中文大学の中医学会の名誉会長に就任。教壇にも立つ多忙な日々だが、師匠と信心への感謝を忘れず、支部長として広布の第一線を歩んでいる。
◇地涌の人材群
香港では、世界青年平和文化祭に参加した学会2世、3世の成長が目覚ましい。
未来部だった梁兆祺さん(本部副男子部長)も、その一人だ。
祖母の代に始めた信心を継承し、幼い頃から母に連れられて学会活動へ。行く先々で出会う同志や同世代の子らと触れ合い、創価家族の温かさを肌身で感じてきた。
文化祭で香港SGIが誇る文化本部の演技に魅了され、13歳で金鷹体操隊に入隊。鍛えの青春を過ごした。
仏法への確信を強めたのは2005年。一家の経済苦を打開するため、懸命に祈り、現在の職場に転職を果たす。以来、「信心は一人前、仕事は三人前」をモットーとし、昇格を勝ち取るなど、社会で実証を示してきた。
同じく文化本部で薫陶を受けた妻・亦沁さん(地区副婦人部長)との間に生まれた2人の子は、香港創価幼稚園の出身。それぞれ紫荊鼓笛隊と開心合唱団に所属する。親子2代で文化本部だ。
牙城会のリーダーも務める梁さん。後年、先生が滞在中、香港総合文化センターに着任したことがあった。
「夜が更けても、先生の部屋の明かりは付いたままでした。諸行事を終えられた後も、遅くまで私たちの幸福を祈り、執筆活動を続けておられることを知り、熱いものが込み上げました。生涯、学会厳護に尽くそうと誓った瞬間です」
香港には、師弟の魂光る人材群が陸続と育っている。
◇ ◆ ◇
文化祭の次の日からタイ、マレーシア、シンガポールを歴訪した先生は2月11日、再び香港へ。翌日には市街を歩き、「春節」(中国正月)を前に華やぐ香港の様子を、その目に焼き付けている。
さらに14日には、第1回香港青年部合同総会でスピーチした後、世界青年平和文化祭の記念祝賀会に出席。功労の友をたたえ、地涌の若人を励まし、機上の人となったのは、翌15日であった。
あれから30星霜——。
きょう16日は、2018年の春節である。新年を迎えた香港の同志の胸に輝くのは、師から贈られた長編詩の一節一節に違いない。
さあ 愛する
この香港に 寂光の都
常楽の都を築こう
さあ 錨を上げよう
旅立ちの銅鑼を
高らかに打ち鳴らせ
出発だ! 出発だ!