2018年2月20日火曜日

2018.02.20 わが友に贈る

「抜苦与楽」の信心だ。
友の悩みに寄り添い
共に祈りぬいていく。
励まし続けるその先に
勇気の灯はともる。

大田殿許御書 P1002
『抑(そもそも)俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間出世とも甲乙を以て先と為すか』

〈寸鉄〉 2018年2月20日
「一日一日、進歩する人が青年」牧口先生。今日も前進!価値創造のドラマを
国連「世界社会正義の日」人間主義の指導原理を皆が求む。我らの使命は大
正法を持つ女性は「一切の男子に・こえたり」御書婦女の連帯こそ希望の泉
特殊詐欺に警戒!家族の緊急事態、儲け話等を騙り心の隙狙う。断固撃退
2人に1人がアレルギーに罹患と。国民病対策の推進、公明が更に旗振れ

☆世界に魂を 心に翼を 第1回 創立の精神
◇音楽を民衆の手に取り戻す
"音楽は世界に魂を吹き込み、心に翼を与える"(プラトン)——きょう2月9日は「民音(民主音楽協会)の日」。1961年、創立者の池田先生が民音の設立構想を示した日である。2年後の10月18日に民音が設立され、今年で55周年。新連載「世界に魂を 心に翼を」では、音楽文化の地平を開いた民音の軌跡を追う。

雲上の機中からは、国境地帯に広がる青々とした緑が見えた。
57年前(61年)の2月9日——。
インドを訪問し、東洋広布の碑の埋納を終えた池田先生はビルマ(現・ミャンマー)からタイへ。会長就任後、初となるアジア訪問だった。
約2時間の空路。先生は窓際の席で思案をめぐらせていた。
この前日(2月8日)の夕刻、一行は首都ラングーン(当時)の日本人墓地を訪れている。
先生より12歳年上の長兄は、太平洋戦争で最も無謀といわれたインパール作戦の犠牲となり、ビルマで命を落としていた。
戦没者の碑に祈りを捧げる先生。燃えるような夕焼けが、あたりを赤く染め上げる。
"兄も、この夕日を見たに違いない……"
終戦から15年余り。確かに太平洋戦争は終わった。だが世界では、人々はいまだ戦火に追われていた。
タイに向かう機内で、先生は同行の秋谷青年部長(当時。現在は最高指導会議議長)に語った。
"あらゆる差異を超え、人間と人間を結ぶものは何か。例えば文化の交流によって、民衆間の相互理解を深めることはできないだろうか"
その夜、先生はバンコクの宿舎で明確な構想を示している。
「真の世界平和のためには、民衆と民衆が分かり合うことが絶対に重要だ。特に芸術の交流が不可欠だと思う。これから国境を超えて進めたい」
アジアの地で、新たな民衆文化の胎動が始まった。
◇ ◆ ◇
戦後の荒廃から精神的に立ち上がるには「文化」しかない——。
それは恩師・戸田先生から受け継いだ確信であり、誓いだった。
アジア訪問から帰国すると、「3・16」を記念する青年部音楽祭を開催。翌年8月には富士吹奏楽団、10月には富士合唱団が結成され、初の文化祭が行われた。
文化祭の淵源となった体育大会を提案したのも池田先生である。
当初、学会の理事らは"信心に関係がない"と難色を示した。池田先生が"青年のために"と訴えると、戸田先生は「大(池田先生)が言うならいいよ」と了承し、54年に第1回の体育大会が実現している。
同年に音楽隊、その2年後に鼓笛隊が誕生。結成に当たり、池田先生自ら費用を工面し、楽器を贈った。
「池田先生は戸田先生の構想を全て実現されました。75万世帯達成とともに、平和と文化の推進を模索され続けた。その具現化のために、先生お一人で学会に文化の土壌をつくってくださったのです」(秋谷議長)
◇ ◆ ◇
「名前は"民音"がいいね」
池田先生の提案をもとに、63年8月、団体の準備委員会が発足する。
2カ月後の10月18日に創立記念演奏会を行うことが決まったが、検討すべき課題は山ほどあった。
まず活動の「柱」である。
民音が果たすべき使命とは何か。アジア訪問で池田先生が示された平和への思いに、どう迫るか。——スローガンの案を練り、五つの骨子を定めた。

一、広く民衆の間に、健康で明るい音楽運動を起こす。
一、新しい民衆音楽を創造し、これを育成する。
一、青少年の音楽教育を推進し、並びに一般音楽レベルの向上を図り、以て情操豊かな民衆文化の興隆を目指す。
一、音楽を通じ国際間の文化交流を推進し、世界の民衆と友誼を結ぶ。
一、日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する。

原案に目を通した池田先生は「いいね」と一言。折に触れ、具体的な活動について助言した。
当初、首脳で協議を重ね、団体の正式名称を「民衆音楽協会」と考えていたが、先生の考えは異なった。
"民衆が主体となっていくのだから、「民主」にしてはどうだろう。音楽・芸術を育成していく主役が民衆なんだから"
創立記念演奏会は、吹奏楽団による行進曲「錨を上げて」で開幕。バイオリンの諏訪根自子氏、チェロの清水勝雄氏、琴の唯是震一氏……一流の音楽家が顔を並べた。
フィナーレでは、近衛秀麿氏が行進曲「旧友」を指揮。「民主音楽協会」の正式名称とスローガンが発表され、民音は船出を果たした。
◇ ◆ ◇
「私は一度もベートーベンを聴いたことがありません。ベートーベンを聴きたい」——民音設立の直後、市民から寄せられた手紙である。
現代のように、携帯プレーヤーや動画サイトなどで自由に音楽を楽しむなど、想像もつかない時代。歌謡曲やポップスは親しまれていたものの、クラシックやオペラは高価で、庶民にはなかなか手が出なかった。
著名な交響楽団の演奏会ともなれば入場料は1000円を超え、鑑賞する際の服装も指定された。映画の観覧料が150円の時代である(森永卓郎監修『物価の文化史事典』展望社)。
ところが民音では、同様の交響楽団の演奏会を、何と300円前後で楽しむことができた。
スローガンの第一にある「広く民衆の間に、健康で明るい音楽運動を起こす」。その一つの答えだった。
66年5月には、早くも「民音コンクール(現・東京国際音楽コンクール)」の声楽部門を実施している。
同コンクールの指揮部門も準備が進められ、民音専任理事の秋谷青年部長は、世界的指揮者・チェリストである齋藤秀雄氏を訪ねた。
音楽そのものについては素人かもしれない。だが創立者の構想を語る中で、音楽界に貢献したいという熱が言葉となってあふれた。
黙って聞いていた齋藤氏。
「分かった。やりましょう」
審査委員長を快諾。今に続く指揮者コンクールの始まりとなった。
◇ ◆ ◇
"存在そのものが日本のオーケストラ史"といわれた朝比奈隆氏。
「(聴衆が)目を輝かせながら聴くものですから、勢い私たちも真剣に演奏をしました」と、民音の演奏会での指揮を振り返っている。
終戦直後、戦災の爪痕が残る大阪で関西交響楽団を創設し、半世紀以上にわたって常任指揮者を歴任。後に日本指揮者協会会長を務めた。
忘れられない思い出がある。
戦前、日本の聴衆の層を広げたいと、50銭で聴ける演奏会を企画。食堂の定食ほどの価格である。新聞社に売り込んだが実現しなかった。
「青春時代に描いたその夢は、今日、こうして民音の手で実現されている。うれしく思っているんですよ」
齋藤秀雄氏の後を継ぎ、21年にわたって指揮者コンクールの審査委員長を務め、数多の俊英を世界の楽壇に送り出してきた。
民音創立20周年の折に、朝比奈氏は、その発展の源について語った。
「ひとえに池田先生の卓越した創立精神によるものである、と思っています。平たく言えば"音楽の花束を広くみんなの手に"といったところでしょうか。この"憲法"がある限り大丈夫」
同じ理想を描く民音に期待し、目を細めた。
「これからが本番です。音楽界を支える重みは数倍にも増してきますよ」