2018年2月8日木曜日

2018.02.08 わが友に贈る

他人でも環境でもない。
わが一念の変革から
宿命転換の劇は始まる。
愚癡や悩みを祈りに変え
勇敢に! 朗らかに!

題目功徳御書 P1300
『功徳は先の功徳にたくらぶれば前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、先の功徳は一渧の水のごとし題目の功徳は大海のごとし、先の功徳は瓦礫のごとし題目の功徳は金銀のごとし、先の功徳は螢火のごとし題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり』

◇寸鉄 2018年2月8日
「金は・やけば真金となる」御聖訓。試練こそ飛躍のバネ。負けじ魂で挑め
沖縄の日。勝利また勝利の舞を今こそ!さあ歓喜に燃えて幸福楽土を建設
「情熱がなくては物事は動き出さない」戸田先生。幹部は広布の理想を語れ
2月は省エネ月間。ウォームビズで空調温度の調節など、賢き工夫で節電
低体温症の死者、大半が屋内の高齢者。孤立化も背景に。近隣の声掛けを

☆虹を懸ける 池田先生と香港② 2018年1月24日
◇仏法即生活の功徳の実証を
1974年、池田先生は2度にわたり、香港を訪れている。
1月27日には、約1000人の友との記念撮影会の後、66年に開館した香港会館へ。
翌28日には、香港広布13周年記念の集いが同会館で盛大に開催された。
この日は13年前、先生が香港を初訪問した日である。席上、先生は香港広布の第2期となる次の10年へ、三つの指針を示した。
「仏法即生活なれば、一人も漏れなく功徳の生活の実証を!」
「健康で価値ある日々を送るために真剣な勤行を!」
「21世紀を開く仏法哲理を心肝に染めるために教学の研鑽を!」
さらにこの後、会館の庭に移動し、記念植樹などを行った。
引き続き、祝賀会が催され、先生ご夫妻が中国服に着替えて登場すると、メンバーの喜びは頂点に――。
翌日以降も、先生は香港市政局公立図書館や香港大学、香港中文大学を相次ぎ表敬訪問し、文化・教育交流を大きく推進。世界広布の未来を展望し、前年に結成された「東南アジア仏教者文化会議」の第1回代表者会議にも出席している。

◇青年を育成
この間、池田先生は次代を託す青年の育成にも全力を注いだ。
張勝綿さん(副本部長)は役員として諸行事の運営に当たった。
同行中、先生と食事を共にする機会があった。その際に掛けられた「どんなにつらいことがあっても、歯を食いしばって頑張りなさい」との言葉は、一生の宝に。苦難に直面するたびに、この一言を思い出し、自らを鼓舞してきた。
父の大病を治したい一心で、63年に入会した張さん。やがて父は霊山へと旅立つが、その安らかな臨終の相に仏法の功力を確信し、男子部の一員として対話の最前線を駆けた。
先生との忘れ得ぬ出会いを刻んだ直後の74年8月には、香港男子部長に就任。若き陣列の構築へ、寸暇を惜しんで一人一人を励ましていった。

これまで、梱包資材の製造工場を営んできた張さん。壮年部となり、仕事と活動の両立は困難を極めたが、少しでも時間を見つけては同志のもとへ。先生から贈られた指針「仏法即生活」の実証を示そうと奮闘してきた。
その背中を見つめてきた2人の子は学会の庭で成長。幼い頃から会合に連れて歩いた長男・伸城さんは現在、香港男子部長に。長女・麗香さんも本部女子部長として活躍し、師弟の信心が脈々と受け継がれている。
今年で入会55年。今再び、張さんは誓う。
「常に目の前の一人を大切にされてきた先生の振る舞いを模範とし、使命の人生を歩み続けます」

◇力を付けるのだ
陳萍生さん(副理事長)もまた、役員として池田先生の激励行を目に焼き付けた。
入会は69年。ベトナム戦争が泥沼化し、中国では文化大革命が起きるなど、国際情勢は混迷を極めていた。
「武力による革命ではなく、人間の内面を変革するという哲学に強く共鳴したのを覚えています」。何より、世界平和のために命懸けで行動を続ける池田先生という存在に、深い感銘を受けた。
良き先輩や仲間にも恵まれ、信心を始めた直後から男子部の活動に参加。香港広布にまい進する中、張さんの後任として男子部長に任命された。

実は陳さんには、一つの夢があった。経済的な理由で一度は断念した大学進学である。
「"青年は学び、力を付けるのだ"との先生の言葉に触れ、その思いは日に日に強くなっていきました」
それ以上に、自分も日本語を習得し、御書や先生の指導を香港の同志に伝えるお役に立ちたい――その情熱が陳さんを動かした。
仕事と学会活動の合間を縫って日本語学校へ通い、やがて創価大学に13期生として入学を果たす。アルバイトをしながら、経済学部で懸命に学び抜いた。
香港に戻った後は、香港SGIの出版活動の中心者に。機関紙誌の編集、教学著作や先生の指導の翻訳・発刊をリードしてきた。
妻の美代子さん(本部副婦人部長)は創大の通信教育部を卒業。不屈の信心でがんを乗り越えることができた体験を語り、病院で知り合った患者親子を折伏。昨年末に入会に導くことができた。
長女の美香さんは、香港創価幼稚園の3期生。東京・創価学園、創大で学び、香港へUターン。人材派遣会社に勤めながら、女子部の部長として幸福のスクラムを広げる。

◇必ず幸せに
74年の2回目の訪問は、中国に第一歩をしるした、5月から6月にかけてである。
池田先生は歴史的な初訪中へ、香港から出発した(5月30日)。
当時は、日本と中国を結ぶ直行便がなく、香港から列車を乗り継ぎ、境界線の鉄橋を歩いて深圳へ。
そして17日間の友好の旅路を終えると、再び香港に戻ったのである(6月15日)。
後年、先生は長編詩「『栄光の都市』香港の旭日」で詠んだ。

初の中国の訪問――
私は あなたたちに送られ
羅湖から徒歩で国境を渡って
深圳に入った
香港の友の明日を思いながら
中国の大地を踏んだのだ
帰途 上水の駅のホームで
手を振って私を迎えてくれた
香港の同志の笑顔を
私は 決して忘れない

柳楊若珍さん(副総合婦人部長)も、その場に居合わせた一人だ。
「羅湖駅の一つ前の上水駅で先生にお会いした感動は、鮮やかに記憶しています。香港と中国の繁栄を願い、"金の橋"を架けてくださった師匠に感謝の思いは尽きません」
折々に先生の激闘を目の当たりにしてきた柳さん。草創の女子部長だった時代には、代表と一緒に先生との懇談の場が持たれた。
「香港女子部は必ず幸せになりなさい。もしも君たちが不幸になることがあったら、私はとても悲しい」。この先生の心を、柳さんは後継の乙女たちに語り継いでいる。
結婚後も、婦人部の第一線で学会活動に奔走。幼子を抱えながら自宅から離れた香港島や、離島の長洲島のメンバーのところへも足を運んだ。
その胸にいつも輝いていたのは、命を削って同志を激励し続ける師匠の姿だった。
長女の聖子さんは、香港副女子部長に。25カ国・地域の友が所属する英語本部の女子部長でもある。長男の伸彦さんは、日本人を中心とする日語本部で副男子部長を務める。
東京出身で、香港中文大学の卒業生である夫の光彦さん(副理事長)と共に、柳さんは師弟誓願の世界広布に生涯を懸ける。