広宣流布は
仏と魔との戦いだ。
破折精神を忘れるな!
真実に勝る雄弁なし。
青年が言論戦の先頭に!
崇峻天皇御書 P1172
『日蓮と法華経とを信ずる人人をば前前彼の人人いかなる事ありともかへりみ給うべし』
〈寸鉄〉 2018年2月16日
大聖人御聖誕の日。広布誓願の実践に信心の血脈は厳然。192カ国の連帯に
千葉の日。旭日の天地に輝く民衆城。青年を先頭に拡大また拡大の旋風を
「法華経の功徳は虚空にも余りぬべし」御書。自行化他の題目に無量の福徳
除雪中の事故に注意。皆で声掛け複数人での作業を。無理せず安全優先で
次はもっといいレースを—銀選手。挑戦の人は美し。我らも本舞台で飛翔
☆御書と歩む� 第6回 健康革命の日々を
『御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ』(太田入道殿御返事、1009ページ)
◇通解
(病気で)お痛みのことについて、ひとたびは嘆き、ふたたびには悦んだ。
◇同志への指針
大聖人は、門下の病の報告に同苦され、わが身のことと祈ってくださった。その上で、今こそ変毒為薬の時と喜ぶのだと大激励なされている。
仏法は"健病不二"である。たじろぐことはない。妙法を唱え抜いて自他の病苦を迎え撃つのだ。必ず生命力を増し、宿命転換できる。悩める友を励ませる境涯ともなる。
共々に勇気凜々と、健康革命の日々を歩みゆこう!
☆2月度座談会拝読御書 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡で著され、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙で、別名を「煩悩即菩提御書」といいます。
御執筆の時期は、文永9年(1272年)5月と伝えられてきましたが、翌文永10年5月とも考えられます。
本抄の冒頭に「日蓮が諸難について御とぶらひ今に・はじめざる志ありがたく候」(御書1116ページ)とあります。このことから、遠路はるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた金吾が鎌倉に帰った後、訪問のお礼の意を込めて認められたと考えられます。
本抄で大聖人は、「法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う」(同1117ページ)金吾の信心を、「不思議や不思議や」(同ページ)と最大にたたえられています。
また、「法華経の信心を・とをし給へ」(同ページ)と述べて、"「法華宗の四条金吾・四条金吾」と日本中の人々からうたわれる存在になっていきなさい"と励まされています。
拝読御文
法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ
◇不退の信心
「(道具を用いて)火を起こすのに、途中で休んでしまえば、火を得ることができない」(御書1118ページ、通解)という譬喩を用いて"持続の信心の大切さ"を教えられた日蓮大聖人。御書を繙くと、"生涯不退の信心"を強調された御文が数多くあります。
大聖人は、門下の新池殿に対して、「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(同1440ページ)と、終始、強盛な信心を貫いていくよう教えられています。
その理由として、続く部分で「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(同ページ)との例えを挙げられています。"鎌倉から京都までの12日間の道程を、11日にわたって歩いてきたとしても、あと1日でやめてしまえば、都の月を詠ずることはかなわない"との意味です。
また、南条時光には、その信心を「水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」(同1544ページ)と仰せになり、何があってもたゆむことなく信心に励んでいる姿勢をたたえられています。
◇
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(同1136ページ)
妙法を実践する途上には、さまざまな障魔が競い起こるゆえに、妙法を生涯にわたって受持し抜くことは、信仰を始めること以上に困難です。いかなる障魔が現れようとも紛動されることなく、生涯不退の信心を貫く中にこそ、一生成仏の道があるのです。
◇竜の口の法難と金吾
早くから日蓮大聖人に帰依し、信心に励んできた四条金吾。その強盛な信心が最も現れた場面の一つが、竜の口の法難の際の振る舞いです。
文永8年(1271年)9月12日、鎌倉の松葉ケ谷にあった大聖人の草庵を、平左衛門尉頼綱が数百人の武装した兵を率いて襲い、大聖人を捕縛。秘密裏に大聖人を斬首しようとしました。
同日の夜半、大聖人は竜の口の刑場に連行されますが、その途中で金吾の館に使いの者を走らせ、金吾に急を告げさせます。
驚いて駆け付け、大聖人が乗られた馬の口に取り付いて泣き悲しむ金吾に対して、大聖人は、「今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり」(御書913ページ)と、不惜身命の心で大難と戦う覚悟を語られました。そして、金吾も腹を切る決心でお供をします。
いよいよ竜の口の頸の座に大聖人が座られると、金吾は「只今なり」(同ページ)と言って嗚咽しました。それに対して、大聖人は「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」(同ページ)と悠然と金吾を叱咤されたのです。太刀取りが大聖人を斬首しようとした瞬間に「ひかりたる物」(同914ページ)が現れ、刑は執行できませんでした。この後、大聖人は佐渡流罪に処せられます。
大聖人は、殉教の覚悟で竜の口の刑場までお供をした金吾の信心を、「いついかなる世に思い忘れることができようか」(同1193ページ、通解)等、度々、たたえられています。
◇社会で実証を示す
日蓮大聖人は、御金言の中で何度も「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(御書1466ページ等)と示されています。世間の一切の営みは妙法(実相)と違背しないという意味です。
ゆえに、仏法を根本にすれば、現実の社会の中で智慧を働かせて勝利していくことができます。
◇
「仏法即社会」であるゆえに、仕事や地域での活動、家庭での振る舞いなど、現実の全てが"仏道修行の舞台"になります。
大聖人は御書の中で、仕事について「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(同1295ページ)と仰せになり、自身の仕事を法華経の修行であると思いなさいと教えられています。
また、建治3年(1277年)9月、主君・江間氏の信頼を取り戻す正念場にあった四条金吾に対し、大聖人は「崇峻天皇御書」を与えられました。
大聖人は「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」(同1173ページ)と、誰の目にも明らかな勝利の実証を社会で打ち立てていきなさいと教えられています。
強盛な信心を奮い起こして、現実社会の中で自身を錬磨し、勝利と信頼の姿を示していくことこそ、仏法者の実践なのです。
★池田先生の指針から 自らの使命の舞台で勝利を
四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。(中略)
大聖人は、その後の御手紙で、こう励まされている。
「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書1118ページ)
——武士や医師として、その責務を全うするだけではなく、法華宗、すなわち日蓮大聖人門下の四条金吾として、日本中の人びとから、賞讃される人物になりなさいと言われているのだ。
自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。
武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。
武士や医師として、名声を得ることも大事であろう。しかし、どんなに賞讃されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない。本末転倒の人生である。
大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。ゆえに、大聖人は、「法華宗の四条金吾……」と言われたのである。
常に、どこにあっても、大聖人の弟子と名乗り、胸を張れるか。現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、賞讃を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。(小説『新・人間革命』第22巻「命宝」の章)
◇ ◆ ◇
職場や地域で信頼されてこそ、真の「信心即生活」「仏法即社会」である。信心を根本に真心と智慧を尽くし、どこまでも誠実な「人の振る舞い」に徹していくことだ。
激動の社会、変化の時代である。だからこそ「強盛の大信力」を奮い起こし、わが使命の舞台で、断じて勝利の実証を打ち立てよう!
「うたはれ給へ」——これが、広宣流布の希望の劇だ。(2015・2・4付、「御書とともに�」)
参考文献
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第20巻(聖教新聞社)