2018年2月28日水曜日

2018.02.28 わが友に贈る

日蓮仏法は
話す人にも聞く人にも
偉大な功徳がある。
互いを触発する対話は
自他共の幸福の直道だ!

王舎城事 P1138
『御勘気を二度までかほりすでに頚となりしかどもついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん』

〈寸鉄〉 2018年2月28日
伝統の2月から後継の月3月へ。未来担う青年を先頭に新たな歴史を刻め
近隣友好の鍵は自分から声を掛ける事。爽やかなあいさつで交流の一歩を
誓いとは前進への秘訣だ—偉人。決めた道を断固と貫く。不屈の勇者たれ
大災害時の情報処理に人工知能の利用を検討と。「人間の為」の活用に期待
低年齢化するゲーム依存症。課金で家計が破綻する事も。社会で対策更に

☆藍よりも青く 「3・16」60周年へ走る 信越の若き友 2018年2月18日
◇盤石なる勝利の人材山脈を
信越は、牧口・戸田・池田先生という創価三代の師弟の魂魄がとどめられた天地。
本年は、池田先生が長野の地で小説『新・人間革命』の執筆を開始して25周年。また「信越師弟誓願の日」制定10周年の佳節を迎える。
信越男子部にとっても重要な年。1978年2月、池田先生が出席した第1回「信越男子部幹部会」から40周年となる。
その節目に勝利の結果で師に応えようと、今月1日から3月16日までを「信越男子部飛翔月間」と銘打ち、弘教と人材拡大に全力を挙げる。
友の胸には、40年前、池田先生が信越の丈夫たちに呼び掛けた言葉が響いている。
"さあ出発しよう! 悪戦苦闘を突き抜けて、広宣流布の決勝点へ!"
◇◆◇
本年、「県の日」35周年を迎える新潟では、新発田圏男子部が躍進する。その原動力はリーダーが徹して師の指導を学び、実践していること。倉持智彦さんは圏男子部長として、昨年1月に圏で研さんのグループを発足。"峻厳な師弟の精神を心に刻む成長の場"となるよう、毎月の定例会で行う小説『新・人間革命』の研究発表に力を入れてきた。
"読んで感想を述べ合う"だけでなく、さまざまな資料も研さんしながら師の心に迫ることで、"実践の決意"を固め合う集いとなっている。
倉持さんは語る。
「仕事などで壁にぶつかった時や、折伏が進まない時でも、池田先生の大闘争の歴史と励ましの心に触れるたび、"落ち込んでなんかいられない"と参加者の心は奮い立ちます」
昨年春、リーダーの倉持さんが率先して弘教を結実。各部一体の対話のうねりが起こる中、グループのメンバーも次々に折伏を実らせ、これまで圏として"部平均4"の拡大を果たしている。
◇◆◇
長野女子部は、2・27「長野女性の日」制定15周年の本年を飾ろうと、「幸の拡大☆きらめき月間」を奔走中。仲良き"母娘"のスクラム固く、各地で希望の語らいを広げている。
浅間圏では、婦人部の副役職の友が"すずらん長"となり、女子部を応援。昨年9月から本部単位で"すずらん協議会"を開催し、"婦女"でこまめに連携しながら、激励の手を差し伸べる。
その中で、今まで会えなかった多くの女子部員とつながることができ、1月のロマン総会は、参加率が昨年を上回る歓喜の集いに。参加できなかった友にも丁寧に家庭訪問を続け、"来てくれて、ありがとう""また話を聞いてほしい"との感謝の声をもらうなど、心温まるエピソードがいくつも生まれた。
励ましの輪が大きく広がる中、"若き力"が拡大を牽引している。
白蓮グループの小林澄代さん(女子部部長)は、今月の入卒式を目指して、病と戦う祖父に仏法を語り、祖父は入会決意を。
水科さゆりさん(女子部員)は、婦人部と共に語った未入会の兄への対話が実り、今月、入会へと導くことができた。
「楽しく、仲良く、悔いなき歓喜の折伏を!」——掛川美智代圏女子部長の呼び掛けに、宮�彩香さん、�橋佳子さんの両本部長も奮起。対話を重ねてきた友人がそれぞれ入会を決意するなど、広布拡大の波動は高まるばかりだ。
◇◆◇
白銀の雄大なアルプスの山々がそびえる信越の大地。風雪の中、友は一歩も退かぬ不屈の信心で勝利の春へ突き進む。
池田先生はかつて、信越の友に語った。
「今日という日は、二度と来ない。一日一日を大切に、悔いなく、全魂を注いでいくべきだ。
そこにこそ、勝機をつかみゆく秘訣があることを知らねばならない。
今日を勝つことだ。断じて今を勝つことだ」
三代有縁の誇りに燃えて、いかなる苦難も勝ち越えていくのが、人材の山脈・信越の伝統だ。
"さあ出発しよう!" 信越青年部は今、来る"広布の決勝点"を完全勝利で飾るべく、新たな共戦譜の歴史をつづる。

2018年2月27日火曜日

2018.02.27 わが友に贈る

地道に戦い続ける人が
最も偉い 最も尊い。
建設は死闘 破壊は一瞬。
断じて魔を寄せ付けず
誉れの道を歩み抜こう!

転重軽受法門 P1000
『修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかばすりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり』

〈寸鉄〉 2018年2月27日
「閻浮提に広宣流布せしめんか」御書。学会こそ仏意仏勅の世界教団なり
各地で女性の日。地域を照らす太陽と花の婦女の連帯。幸の行進をさらに
「道を開け!道を創れ!一切を勝利の劇に」戸田先生。後継の使命ここに
外出・入浴時等の温度差による血圧変動に注意。防寒・暖房など油断なく
ストレスを感じる時こそ楽しい方へ心を向けて—医師。逞しき楽観主義で

☆虹を懸ける 池田先生と香港�=完 2018年2月16日
◇ここに常楽の都を築こう
「まだ、香港にいるのは十数人の同志にすぎない。しかし、二、三十年もすれば、何万人もの同志が誕生するはずです。皆さんが、その歴史をつくるんです」
1961年の池田先生の確信は、30年近い歳月を経て、現実のものとなった。
この初訪問を終え、離陸した飛行機の窓から先生が見たのは、有名な「獅子山」(ライオン・ロック)である。
10度目の訪問となった88年1月、旭日のごとき発展の象徴として「香港文化会館」が開館した。
裏手には獅子山がそびえ、香港広布の獅子たちを見つめる。
九龍の文教地区の一角に完成した新会館。1000人規模の講堂をはじめ、隣接の会館等も含めると、現在は2000人以上を収容できる。土地が狭く、ビルが林立する香港には、それまで大勢が集える法城がなかったこともあり、同志の感激はひとしおだった。

◇負けない心を!
1月28日の開館式では、池田先生と並び、青年部の代表らがテープカットを行った。
梁愛群さん(婦人部企画長)は、香港女子部長としてテープにハサミを入れた。その胸中には、師と共に広布と社会の新時代を築く決意があふれていた。
かつて先生は梁さんに言った。「しっかり頑張って、幸せな人生を送るんだよ」と。
病気がきっかけで学会活動に取り組むようになった梁さん。入会前は将来に希望が見いだせずにいたが、信心に出あい、苦難に負けない自分に変わることができた。
先輩から師弟の精神を学び、皆で励まし合って成長してきた女子部時代は、かけがえのない原点に。83年に女子部長に就くと、師匠の心を伝えながら、幸福のスクラムを大きく広げてきた。
「先生が言われた通りに実践したおかげで福運が付き、皆が幸せになりました。香港社会は常に変化の連続です。だからこそ、何があっても純粋な信心を貫いていけるよう、目の前の一人一人を大切にしていきたい」
現在は主に離島地域を担当。フェリーで海を渡り、訪問激励に歩きながら、あの地この地に同志がいる喜びをかみ締める日々だ。

◇幸の旭日よ昇れ
88年の訪問の最大の眼目は、16カ国・地域のメンバーが参加する第9回「世界青年平和文化祭」であった。
開館式の後の最高会議で、池田先生は香港広布の歴史を振り返りながら語っている。
——御書に「二陣三陣つづきて」(911ページ)と仰せのまま、当時はまだ生まれていなかった若き後継の世代の力で、アメリカに次ぎ、日本を除くアジアでは初となる「世界青年平和文化祭」が開催される。これこそ「一閻浮提広宣流布の大願成就」への大いなる証しである——と。
アジア広布の起点・香港から、希望の大波は全世界に広がる——そう先生は信じていたのである。
その万感の思いを込めて詠んだのが、長編詩「平和の港に 幸の旭日よ昇れ」だった。

ああ いま 海の彼方
旭日は昇り
我らが待ちに待った
まばゆき黄金の朝は
訪れた
それは アジアの
そして 世界の
永劫の平和の
夜明けだ

文化祭前日(30日)の香港総会の席上、中国語で詩が朗読されると、会場の香港文化会館は深い感動に包まれた。

地より涌くか
不思議なる
縁の君らよ
元初の太陽を浴びて
躍りいで
後継のたいまつを
掲げ 歓喜の
ファンファーレも
高らかに
いま まさに
世界青年平和
文化祭の 幕を
開かんとしている

翌31日。先生が各界の来賓500人と共に見守った祭典は、「生命の歓喜 平和の光彩」とのテーマにふさわしい、圧巻のステージとなった。
会場の香港コロシアムには、出演者やその家族、役員なども含めると、延べ3万人の参加者が。グランドフィナーレの後、マイクを手にした先生は、力強く呼び掛けた。
「大変に素晴らしかった。大変に朗らかだった。大変に頼もしく、大変に美しかった。そして、私は心から感動いたしました」
李然賛さんは、2500人が出演した文化祭を、舞台役員として陰で支えた。
「ステージ裏にいた私は、先生にお目にかかることはありませんでしたが、出演者が歓喜する姿を見た時は、感無量でした」
幼少期にポリオを患い、左足に軽度の障がいがある李さん。人には負けたくないと、空手などで体を鍛えたが、心はずっと劣等感にさいなまれていた。
転機は、小説『人間革命』を読んだ中学生の時。戸田先生と池田先生の師弟一体の激闘に感動し、学会活動に参加するように。その中で大学に進み、漢方医(中医)になるという目標が定まった。
だが志望校は不合格となり、専門学校を卒業後は営業職に。それでも夢を諦めることなく、仕事と活動に取り組み、真剣に唱題を重ねた。香港副青年部長や未来部長としても奮闘してきた。
香港がイギリス領だった当時、中医は公的な資格がなかった。しかし、97年に中国に返還されると、香港政府が中医の免許制度を設けることに。猛勉強の末、資格を取得し、大学にも入学。大学院まで修了した。
今、香港島のビジネス街に診療所を構える李さん。確かな実績が認められ、テレビに出演したことも。さらには受験で涙をのんだ香港中文大学の中医学会の名誉会長に就任。教壇にも立つ多忙な日々だが、師匠と信心への感謝を忘れず、支部長として広布の第一線を歩んでいる。

◇地涌の人材群
香港では、世界青年平和文化祭に参加した学会2世、3世の成長が目覚ましい。
未来部だった梁兆祺さん(本部副男子部長)も、その一人だ。
祖母の代に始めた信心を継承し、幼い頃から母に連れられて学会活動へ。行く先々で出会う同志や同世代の子らと触れ合い、創価家族の温かさを肌身で感じてきた。
文化祭で香港SGIが誇る文化本部の演技に魅了され、13歳で金鷹体操隊に入隊。鍛えの青春を過ごした。
仏法への確信を強めたのは2005年。一家の経済苦を打開するため、懸命に祈り、現在の職場に転職を果たす。以来、「信心は一人前、仕事は三人前」をモットーとし、昇格を勝ち取るなど、社会で実証を示してきた。
同じく文化本部で薫陶を受けた妻・亦沁さん(地区副婦人部長)との間に生まれた2人の子は、香港創価幼稚園の出身。それぞれ紫荊鼓笛隊と開心合唱団に所属する。親子2代で文化本部だ。
牙城会のリーダーも務める梁さん。後年、先生が滞在中、香港総合文化センターに着任したことがあった。
「夜が更けても、先生の部屋の明かりは付いたままでした。諸行事を終えられた後も、遅くまで私たちの幸福を祈り、執筆活動を続けておられることを知り、熱いものが込み上げました。生涯、学会厳護に尽くそうと誓った瞬間です」
香港には、師弟の魂光る人材群が陸続と育っている。
◇ ◆ ◇
文化祭の次の日からタイ、マレーシア、シンガポールを歴訪した先生は2月11日、再び香港へ。翌日には市街を歩き、「春節」(中国正月)を前に華やぐ香港の様子を、その目に焼き付けている。
さらに14日には、第1回香港青年部合同総会でスピーチした後、世界青年平和文化祭の記念祝賀会に出席。功労の友をたたえ、地涌の若人を励まし、機上の人となったのは、翌15日であった。
あれから30星霜——。
きょう16日は、2018年の春節である。新年を迎えた香港の同志の胸に輝くのは、師から贈られた長編詩の一節一節に違いない。

さあ 愛する
この香港に 寂光の都
常楽の都を築こう
さあ 錨を上げよう
旅立ちの銅鑼を
高らかに打ち鳴らせ
出発だ! 出発だ!

2018年2月26日月曜日

2018.02.26 わが友に贈る

◇今週のことば
苦闘は即「栄光」なり。
「いまだ こりず候」
もう一歩、もう一度と
不屈の執念の挑戦だ。
皆が快活な青年の心で!
2018年2月26日

上野尼御前御返事 P1580
『妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華人間には桜の花此等はめでたき花なれども此れ等の花をば法華経の譬には仏取り給う事なし、一切の花の中に取分けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり』

〈寸鉄〉 2018年2月26日
仏法は実行だよ。精進だよ—牧口先生。勇気の声で仏縁拡大。堂々と進め
「まっしぐらによい道を進んでいくべきだ」文豪。炎の走者の君よ勝ち捲れ
「これほどの悦びをば・わらへかし」御書。苦難は宝なり。さあ確信の祈りで
20数年後、大学進学者2割減—予測。少子化時代こそ一人を徹して大切に
平昌五輪が閉幕。人々を魅了した多くの新記録。我らも自身の最高峰へ!

☆地域を歩く 北海道 千歳市 2018年2月15日
◇青年の心輝かせて
北海道の空の玄関口・新千歳空港や、支笏湖を擁する千歳市は、古来、太平洋側と日本海側を結ぶ内陸交通の要衝として発展してきた。道央の主要都市となった現在、人口の増加を維持し、平均年齢が道内で最も若い、未来性に富んだ都市となっている。
一方、人口の移動も活発で、毎年、市民の6〜7%、15人に1人が転入・転出する。
同市で青年の心を燃やして活動する千歳県(伊藤康文県長、白石明子婦人部長)のメンバーは、どう地域に根差し、貢献してきたのか。その象徴ともいうべきイベントが開催されると聞き、先月末、同市を訪問した。
◇ 
市の中心から、車で約30分——湖畔には、「支笏湖ブルー」と呼ばれる青色をした大小さまざまなオブジェが並んでいた。今年で第40回を迎えた「千歳・支笏湖氷濤まつり」(〜18日)である。
環境省による水質測定の結果、湖沼部門で「10年連続日本一」に輝いた支笏湖。オブジェは、その湖水を、スプリンクラーを使って吹き付け、凍らせたものである。夜には、ライトアップされて色とりどりに輝き、周囲を、幻想的な雰囲気に変える。
観光客でにぎわう支笏湖ビジターセンターで働く木田橋幸子さん(副白ゆり長)は語った。「明るいあいさつを心掛けています。添乗員さんに『いつも笑顔で接してくれてホッとします』と言われてうれしかった」
この木田橋さんの父親こそ、「氷濤まつり」に第1回から関わった千葉信一さん(副支部長)である。

◇恩返しの生き方を後継世代に伝える
千葉さんが、共に千歳広布を進めてきた�橋澄子さん(支部副婦人部長)の自宅を訪問していると聞いて、現地に向かった。
千歳広布の第一歩は、池田先生が初来道(1954年〈昭和29年〉8月10日)の折、千歳飛行場(当時)に降り立ったところから始まる。
その時、支笏湖にも足を運んだ先生。雄大な自然の中で生き抜く苦労に耳を傾けるとともに、挑戦の中にこそ真の人生の勝利があり、その勇気を湧き出させる根源が信心だ、と励ましを送った。
千葉さんの入会は22歳の時である。以来、55年余にわたり、池田先生の心を胸に、商工会の会長など、愛する地域のためにできることは何でもやってきた。「最初の頃は創価学会といっても、村八分だったから。地域の役を受けても、いろいろ言われたよ」
「氷濤まつり」は、観光客がまばらになる冬季に、支笏湖を元気にしようと、地元の有志と力を合わせて企画した。当初は何をしていいか分からず、北見や層雲峡、根室のイベントを見学することから始めた。
千葉さんは、16年間にわたって発展の礎を築き上げ、90年代半ばに、後進に道を譲った。今や毎年の「氷濤まつり」には、国内外から約26万人もの人々が足を運ぶ。
現在も、老人クラブの会長を務める千葉さん。「皆と一緒に肩を組んで目標に向かって挑戦していくことが大事ですね」
�橋さんが、親しみを込めて「信ちゃん」と呼ぶ千葉さんに言った。
「誰でも、大変な時もあるけど、幸せになるには、やっぱり信心から離れないことよね」
千歳県の友の、地域貢献の形はさまざまだ。
千歳市には、第2次世界大戦後、食糧の増産や就業先の確保を目的に、国策で開拓事業が行われた歴史がある。
久保田守さん(副圏長)の両親は、その"開拓民1世"だ。親が開拓した土地を受け継いだ当初は酪農を手掛けてきた。
忘れられない人生の原点がある。
椎茸栽培に転換し、苦労を重ねていた1980年(昭和55年)、東京に行き、ピアノを弾いて同志を激励する池田先生の姿に触れたことだ。
"どんな時も先生は変わらない"——以来、久保田さんは、自らも不動の人生を貫こうと、妻・雅代さん(婦人部副本部長)と共に、栽培技術を研究するなど挑戦を続けた。その結果、全道の品評会で第2位に輝いた。
98年(平成10年)頃、都市計画の変更を機に離農した久保田さん。現在は、不動産管理の仕事をしながら、町内会の福祉部長などを務める。
一方、坂田正夫さん(副支部長)は、両親から継いだ開拓の土地を、家庭菜園として貸し出している。
個人経営の貸し菜園はめずらしく、地域で愛され続けてきた。
原動力は"広布のために"との思い。現在、妻・康子さん(婦人部副本部長)と共に、17軒に本紙の購読を推進する。
久保田さん、坂田さんの両夫妻の胸には、信心の実証を示すとの情熱が燃えていた。
地域に根差し、貢献する生き方は、青年たちにも伝わっている。
市内の自動車整備工場に勤める小澤勇一さん(男子地区副リーダー)。中学3年生の時、不登校になった。変わるきっかけは、男子部の先輩が手渡した池田先生の「青年抄」だった。
「人生は自分次第である」「自分が道を切り開くのだ」
そうだ。環境が幸・不幸を決めるのではない!——そこから題目根本に挑戦の人生が始まった。
工場の取締役でもある深川豊さん(圏長)は振り返る。「私も男子部の激励で、今の彼と同じ19歳で発心したんだ。加えて自分も親になり、その苦労を思うと、私と彼が二重写しにもなったね」
周囲の学会員の励ましを支えに、小澤さんは現在、通信制の高校に通いながら働いている。
先日、小澤さんが励まし続けてきた地区の2人が、男子部大学校1期生として出発を切った。
「お世話になった地域の人たちに、必ず恩返しする人生を歩みたい」と小澤さんは前を向いた。
写真現像・プリント店の店長を務める松本伸子さん(県女子部主任部長)。2016年4月の売り上げ前年比が道内で第1位に、全国でも第3位に輝いた。
また、昨年の既製はがきの売り上げへの貢献から社長表彰を受けた。
20歳の時に父親を胃がんで亡くして以来、4人きょうだいの長女として家計を支えてきた。
心が折れそうな時、女子部の先輩の励ましが、"このままではいけない"と常に御本尊の前に向かわせてくれた。
「学会家族の皆さんのおかげで、私も周囲を真剣に祈れるようになりました」——松本さんは、"楽しいところに、人は集まる"との池田先生の指針をモットーに、きょうも店頭に立っている。

取材の最後、千歳広布の歴史を聞いた。
2月は、千歳県の友にとって大事な月だ。96年2月8日、池田先生は3首の和歌を詠み贈った。
「大雪の/道を堂々/歩み来る/仏のごとき/尊き君かな」「ひたすらに/また ひたすらに/祈るらむ/仏の使いの/尊きあなたを」「千歳城/何と偉大な/名前かな/あなたも生き抜け/千歳までもと」
広布後継の春3月へ、「従藍而青」の決意で進む千歳県の創価家族。大雪の中、地域のため、友のために心を尽くす姿に、多くの青年が続いていくに違いない。

2018年2月24日土曜日

2018.02.24 わが友に贈る

世界広布の本舞台は
愛するわが町にあり。
近隣の友の心田に
豊かな希望の種を!
人華が薫る大道を共に!

生死一大事血脈抄 P1337
『金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず鉄は水火共に堪えず賢人は金の如く愚人は鉄の如し貴辺豈真金に非ずや法華経の金を持つ故か』

〈寸鉄〉 2018年2月24日
誠実と思いやりに溢れる創価の青年が社会を変革—博士。希望の連帯拡大
「仏法は証拠主義」戸田先生。自行化他の実践を貫く人に幸の花は爛漫と
団結は明確な目的によって生まれる—英雄。師弟共戦の祈りで壁を破れ!
ネット上での子供のいじめが増加。対策急務。モラル教育など皆で総力を
五輪のメダル獲得に沸く列島。挑戦の姿は他者に勇気を送る。我らもまた

☆新時代を進む 第26回 大願へ! 大きく立ち上がれ
記録的な豪雪の福井、石川、富山をはじめ新潟、そして東北、北海道など各地の友の無事安穏を日々、祈っております。
特に、聖教新聞の配達をしてくださる尊き無冠の友の皆さまのご苦労はいかばかりか。
どうか、絶対に無理をされず、くれぐれも安全最優先でお願いします。大切な大切な皆さまとご家族に、私も一生懸命、題目を送っております。
— ◇ —
御本仏・日蓮大聖人の御聖誕の日を、男女青年部を先頭に地涌の拡大の息吹の中で迎えることができた。
同じく2月を誕生月とする戸田先生は、よく「文段」の「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」の一節を拝し、言われた。
「この御本尊と大聖人と自分とが区別がないと信じ、感謝を込めて誓願の題目を唱えてごらん!
そこに、大宇宙のリズムと我がリズムが調和して、偉大な生命力が涌現してくるんだよ」
妙法を唱え、広布に走る命には、どれほどの力と智慧が漲るか。今この瞬間から、赫々たる希望の太陽が昇る。いかなる試練の冬も変毒為薬して、必ず歓喜の春を勝ち開いていくことができるのだ。
— ◇ —
戸田先生の生誕の日(11日)には、師恩を偲び、総本部の恩師記念会館で勤行・唱題した。
師は直弟子に託された。
——人類の幸福と平和の実現こそ、仏法の本義である。ゆえに私に代わって、君は世界に征け! 全世界に妙法を弘め、地涌の菩薩を呼び出せ! と。
以来、60星霜——。
会館には、不二の同志と共に、世界の都市から頂いた800の名誉市民称号の記録が留められていた。
戸田先生がご覧になられたら、どんなに喜ばれるでしょうと、妻が微笑んだ。
全て、わが師に捧げる栄誉である。そして創価家族に贈られた信頼の宝冠にほかならない。仏法の因果の理法に照らし、この福徳は子々孫々に流れ通うことを確信していただきたい。
— ◇ —
戸田先生のお好きだった言葉「大立」を私が記した書も、会館に置かれていた。
脇書は「わが友乃 決意を 祈りつつ」である。
大いなる誓願に立つ時、若人の生命は、限りなく大きく、強くなれる。
わが誉れの後継の青年部よ、大きく立て! 大きく立ち上がれ!
そして世界の友と大きくスクラムを組んで、勇気凜々と朗らかに進みゆけ!

2018年2月23日金曜日

2018.02.23 わが友に贈る

「どうなるか」ではない。
「そうするか」だ!
未来への強き責任感が
智恵と勇気を生む。
新時代開く主体者に!

持妙法華問答抄 P465
『持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり』

〈寸鉄〉 2018年2月23日
会長は対話の門開く真の平和建設者—韓国区庁長共生の地球社会築く指標
御書「十・百・千・万・億・阿僧祇の母は唯・一なるべし」。縁した一人を人材に
行動力は若さの象徴だ—革命家。友のため、広布のために動く人は皆、青年
自転車事故の半数以上は車と出合い頭の衝突と。安全確認徹底し無事故で
親の介護をする人の負担大きく。孤立させない支援強化を。公明が旗振れ

☆御書と歩む� 第7回 尊き農漁光部の友に感謝
『人に食を施すに三の功徳あり・一には命をつぎ・二には色をまし・三には力を授く』(妙密上人御消息、1237ページ)

◇通解
人に食物を施すのに三つの功徳がある。一つには生命を継ぎ、二つには色つやを増し、三つには力を与えることである。

◇同志への指針
御本仏のお心に照らせば、「食」は「命」であり、食を支え命を守りゆく人は、最大の感謝と福徳に包まれる。
わが農漁光部の友の奮闘が、どれほど尊く偉大であるか。不撓不屈の皆さま方の労作業こそ、生命を育み、未来を開く聖業なのだ。
どうか、健康第一で! 使命の天地で、いやまして信頼と希望の光を広げゆかれんことを!

☆池田華陽会御書30編に学ぶ 顕仏未来記(下) 2018年2月17日
◇世界広布へ勇気と真心の対話を
今月は、「顕仏未来記」の後半を学びます。第2代会長・戸田城聖先生は、「顕仏未来記」を拝して、次のように記されました。
「成仏の境涯とは絶対の幸福境である。なにものにも侵されず、なにものにもおそれず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空のごときものである。大聖人の佐渡御流罪中のご境涯はこのようなご境涯であったと拝される」
大難の渦中にあって、世界広宣流布を宣言された日蓮大聖人。その御確信と、民衆救済の心に貫かれた大慈悲の御境涯を心に刻みましょう。(拝読範囲は、御書507ページ10行目〜509ページ本抄末尾)

◇本抄について
本抄は文永10年(1273年)閏5月、日蓮大聖人が流罪先の佐渡・一谷で認められたものです。
題号の「顕仏未来記」(仏の未来記を顕す)とは、「未来を予見し、記した仏の言葉を実現する」という意味です。
「仏の未来記」とは、釈尊の未来記を指しますが、本抄の元意は"末法の御本仏としての大聖人の未来記"を明かされることにあります。
釈尊の未来記とは、本抄の冒頭で引用されている法華経薬王品の経文を指します。ここには、末法における世界広宣流布が予言されています。本抄では、この釈尊の未来記を実現したのは、大聖人ただお一人であることが示されます。そのうえで、大聖人御自身の未来記として、法華経の肝要である南無妙法蓮華経の大法が全世界に広宣流布することが明かされます。

◇御文
『日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え、幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ、願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』(御書509ページ2行目〜5行目)

◇通解
日蓮は、末法広宣流布の道理を知って大法を弘めてから、すでに21年になる。日々に災いが競い、月々に難が起こったが、この2、3年の間には、死罪にまで及ぼうとした。今年、今月にも、万が一にも死を免れようのない身命である。世間の人よ、私の言葉に疑いがあるならば、詳しいことは私の弟子に聞きなさい。なんと幸いなことであろうか。この一生のうちに、無始以来の謗法の罪を消滅できるとは。なんと喜ばしいことであろうか。今までお会いしていない教主釈尊にお仕えすることができるとは。
願わくは私を亡き者にしようとする国主たちをまず最初に導こう。

〈解説〉民衆救済を願う御本仏の大慈悲
掲げた御文の冒頭で日蓮大聖人は、立宗宣言されてから21年、難の連続であったことを示されています。
「此の道理」とは、釈尊が法華経で予言した通りに、末法広宣流布を担う法華経の行者が出現することを指します。
大聖人は、この道理を自覚され、あらゆる大難にも屈せず、民衆救済の戦いを貫かれました。そして、ついには、竜の口の法難や佐渡流罪という、命にも及ぶ大難に遭われたのです。
そのような中で大聖人は、本抄をはじめ、後世に残すべき重要な法門や門下への励ましを、烈々たる気迫で認められました。
続く御文では、大聖人御自身の言葉について、もし世間の人々が疑いを持つようならば、大聖人門下に問うようにと仰せです。ここには、弟子を信頼し、一切を託される師匠の万感のお心が拝されます。
また大聖人は、命に及ぶ大難の渦中にあって、「幸なるかな」「悦ばしいかな」と、大歓喜の心情を述べられます。
すなわち、迫害に遭うことで、過去世から重ねてきた謗法の罪を消滅できること。そして、広宣流布という仏の大願に生き抜くことで、釈尊にお仕えできることを喜ばれています。
さらには、"願わくは私を迫害する国主たちを最初に救っていこう"と大慈悲で包み込まれています。まさに、悠然とした師子王のごとき仏の境涯です。
広宣流布の誓願を貫く時、仏界の生命が開かれ、どんな苦難にも負けない無限の智慧と慈悲が湧いてくるのです。
ゆえに、たとえ今、"思うようにいかない現実"や悩みの渦中にあったとしても、誓願の祈りを根本に粘り強く前進していくなかで、壁を打ち破ることができるのです。
池田先生は女子部に「広布の誓いに生き抜く青春は、必ず無限の福運の力が涌現する。必ず自分らしく輝き、自分でなければ果たせぬ使命に生き切っていけるのだ」と呼び掛けています。
「伝統の2月」から「3・16」へ、報恩の誓いを胸に、勇気と真心の対話を広げていきましょう!

★池田先生の講義から
大聖人は本抄で「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」(御書509ページ)と呼びかけられました。師匠の正義を語り広げるのは、弟子の責任であります。未来を託す師の絶対の信頼に、命を賭して応えゆく弟子の誓願の闘争の中にのみ、広宣流布の命脈はある。(中略)
師匠の正義を満天下に示す。あらゆる大難に打ち勝って永遠に伝える。これこそ、弟子の誓願であります。そして、いよいよ、わが分身である青年部の諸君の出番であると、私は声高く宣言しておきます。(『御書と師弟』第1巻)
◇ ◆ ◇
戸田先生は「広宣流布のさきがけをしようではないか」と叫ばれ、「創価学会は宗教界の王者である」と宣言されました。
私は、私とともに戦ってきてくださった皆様とともに、「我らこそ御本仏の未来記の主人公なり」と、誇り高く宣言したい。
そして「私は勝った! 我らは勝ちに勝った!」と言える輝かしい人生を、愉快に、朗らかに、はるかな未来へ向かって共々に生き切っていきましょう。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)

研さんのために
○…『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻、「顕仏未来記」(聖教新聞社)
○…『御書と師弟』第1巻、「仏の未来記」(同)

2018年2月22日木曜日

2018.02.22 わが友に贈る

行き詰まりを感じたら
自らの原点に返ろう。
目的と目標は明確か。
何のための信心か。
逆境をチャンスに!


〈寸鉄〉 2018年2月22日
 「勇将も一人は叶わず」 御書。団結が広布の生命 線。幹部は友と心を結べ
      ◇
 鳥取広布原点の日。風雪越えて輝く民衆の大城。 新しき共戦の勝利史を!
      ◇
 一に題目、二に題目、そして三に題目だよ—戸田 先生。妙法の利剣は最強
      ◇
 ネット社会で人間の共感能力が減退と。直接会い 語りゆけば人生が豊かに
      ◇
 温暖化が進めば2040年代に危険水準と。人類 益の取り組みを足元から


祈祷抄 P1349
『名聞利養深かりし人なれば仏の人にもてなされしをそねみて我が身には五法を行じて仏よりも尊げになし』


☆新時代を進む 第25回 人材の大城を! 励ましは力
わが男女青年部が、日本中、世界中、いずこでも生き生きと躍動している。
伝統の欧州教学研修会も中核を担ってくれているのは、凜々しき青年部である。
日本では、男子部の新たな大学校が意気軒高に発足した。
地涌の若人の本領は、舞を舞うが如く、勇んで学び、走り、語り、打ち込み、正義の陣列を広げゆくことだ。
私も師のもとで訓練を受け切った。「戸田大学」である。まさに「師弟不二の大学校」であった。この大学校での薫陶こそ、わが青春の最高の栄誉であり、最大の幸福である。
今、後継の大学校の俊英たちが陸続と育ってくれて、喜びに堪えない。新出発に私が贈りたい御聖訓は、佐渡御書の一節である。
「鉄は炎打てば剣となる」(御書958ページ)
最極の「生命尊厳の哲理」を掲げ、法のため、人のため、社会のため、苦労することほど、偉大な鍛錬はない。全てが自らの生命を宝剣の如く鍛え上げてくれるのだ。勇敢に胸を張り、朗らかに堂々と進んでもらいたい。
佐渡御書には、「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957ページ)とも仰せである。
大学校に連なる丈夫よ、一人ももれなく「師子」となれ! と私は祈りたい。
— ◇ —
一人の青年が立ち上がる陰には、どれほど深い真心の励ましがあることか。
65年前、男子部の拡大に先陣を切った私も、徹底して一人一人と会い、励まし続けた。会えない友には、手紙や葉書を書き送った。
今、各地で人材の大城が輝きを増しているのも、尊き地域の父母や先輩たちの激励があればこそと、私には痛いほどわかる。
私が心がけてきた「人材育成」の四本柱がある。
第一に「指導」。友の幸せを祈り、確信込めて仏法の正義を語り切る。
第二に「教育」。率先して模範を示し、共に行動する。
第三に「訓練」。相手の勇気を引き出して実践できるようにする。
第四に「擁護」。結果はどうあれ、努力を讃え、断じて守り抜くことである。
ともあれ、「一騎当千」の一人を育てることは、千人の拡大にも通ずることを、誇りとしていただきたい。
— ◇ —
関西の不二の同志と共に、大阪事件の完全勝利を飾ってより、56周年——。この1月25日は「関西婦人部の日」である。
関西をはじめ全国、全世界の創価家族の健康と無事安穏、そして地涌の歓喜の前進を祈る日々である。

2018年2月21日水曜日

2018.02.21 わが友に贈る

尊き配達員の皆様
厳寒の中、ありがとう!
通信員・新聞長にも感謝。
本紙を支えて下さる方の
健康・無事故を祈る。

新池御書 P1439
『うれしきかな末法流布に生れあへる我等かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人』

〈寸鉄〉 2018年2月21日
広宣流布をなすのは学会以外にない—戸田先生。地涌の青年よ勇躍開拓を
「法華経を持ち奉る処を当詣道場」御書。今いる場所で勝つ!幸福は足下に
友人と交流する高齢者は亡くなる割合低く—震災被災者。人間の絆こそ宝
自転車保険義務化の自治体が増加。安全意識の向上も共に。慣れた道でも
小学校教員の9割、多忙で疲労困憊と。教師は最大の教育環境。対策急げ

☆世界広布新時代第31回本部幹部会 関西総会から(要旨) 原田稔会長
◇「個人指導」こそ自他共の成長の道
◇青年の気概で拡大の実証を
一、大歓喜に沸く「世界広布新時代第31回本部幹部会」ならびに「関西総会」の開催、大変におめでとうございます(拍手)。
池田先生は1月26日、「SGIの日」に寄せて、「人権の世紀へ 民衆の大河」と題する記念提言を発表されました。
今回の提言では、唯一の戦争被爆国である日本が、核兵器禁止条約への参加に向けた意思表明を行うよう呼び掛けられるなど、国内外から広く注目を集めております。
池田先生による、この「SGIの日」記念提言は、第1回の発表から本年で35周年。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のバーナード・ラウン博士が、「毎年、新鮮で示唆に富んだ提言を発表し続けていることを高く評価します。地球的なスケールで、これほど持続的に取り組んでいる人はいません」と語っているように、立正安国への信念の行動に世界的評価が寄せられております。
このIPPNWは、昨年のノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の母体であります。
池田先生は1987年(昭和62年)、このIPPNWの共同創設者である当時のラウン会長と出会われ、89年にはラウン会長、そしてミハイル・クジン会長と相次ぎ会見。核兵器廃絶に向けた努力を約し、深い友情を結ばれました。
その後、2007年にICANが発足すると、学会本部を訪れた当時のティルマン・ラフ議長から、国際パートナーとしての協力要請があり、SGIとICANの歩みがスタートしました。
先日、総本部に来られたICANのフィン事務局長は語っております。
「SGIは、私たちICANにとって最も古く、一貫したサポーターの一つです。核兵器の禁止と廃絶を目指す戦いにおいて、計り知れないほど重要な役割を担ってきました」と。
全ては池田先生の一貫した外交戦、言論戦のたまものであります。
かつて先生は、ラウン博士に語られました。
「人間として生きている限り、最高善の実践に生きるべきです。最高の『善』に対して反対すれば最大の『悪』となり、最高の『善』に賛同し共に行動すれば、自らもそれに連なっていくことができるというのが私の信念です」
御書に「道理証文よりも現証にはすぎず」(1468ページ)と仰せの通り、事実にまさる雄弁はありません。私たちは自信満々と、「最高善」である立正安国の弘教拡大に、まい進していきたい(拍手)。
一、折伏の推進に当たって大事なことは、「折伏と個人指導は車の両輪である」という点であります。それは、単に組織論的な側面だけではありません。
池田先生は、小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章につづってくださっています。
「私が多くの幹部を見てきて感じることは、個人指導を徹底してやり抜いてきた方は、退転していないということなんです。
個人指導は、地味で目立たない永続的な忍耐の労作業であり、それを実践していくなかで、本当の信心の深化が図れるからです。さらに、個人指導を重ねていくなかで、自分自身を見つめ、指導することができるようになるんです。だから退転しないんです」と。
「リーダー自身の成長」という観点からも、個人指導の実践が重要だということです。
さらに先生は、こう続けられます。
「もちろん折伏も大事です。ただし、折伏しただけで、入会後の指導をしっかりしていかないと、一時的な戦いに終わってしまう面があります。また、折伏の成果は、すぐに目に見えるかたちで表れるので、周囲の同志から賞讃もされます。それによって慢心になり、信心が崩れていってしまった人もいました。
したがって、折伏とともに、個人指導に全力を傾けていくことが、自分の信心を鍛え、境涯を高めていく必須条件なんです」
折伏の眼目は、「何人が幸せになったか」です。ゆえに、「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(御書1136ページ)であるからこそ、新入会者にとっても、また紹介者自身にとっても、個人指導の実践が絶対に必要なのです。
今月から始まった「励まし週間」では、一人一人が池田先生との絆、同志との絆、御本尊との絆を強めゆく個人指導に徹していきたい。
また、3月の「世界青年部総会」に向け、壮年部・婦人部が青年部と共に動く中で、折伏と結集の両面から青年を育成していきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
一、池田先生は先月の本部幹部会で、小説『新・人間革命』の最終章となる「誓願」の章を執筆すると発表してくださいました。
先生が『新・人間革命』の執筆を開始されたのは25年前、65歳の時でした。それを思えば、弟子の私たちは、まだまだ全員が「青年」であります。
そして今、90歳になられた先生が、最終章を「誓願」の章と銘打ち、つづってくださる。であるならば今、弟子は何を誓願するのか。その誓願は本物なのか——。問われるのは「弟子の誓願」であり、「弟子の実証」であります。
さあ、千載一遇の時、折伏・弘教の前進また前進をもって、「3・16」60周年を荘厳していこうではありませんか(拍手)。

2018年2月20日火曜日

2018.02.20 わが友に贈る

「抜苦与楽」の信心だ。
友の悩みに寄り添い
共に祈りぬいていく。
励まし続けるその先に
勇気の灯はともる。

大田殿許御書 P1002
『抑(そもそも)俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間出世とも甲乙を以て先と為すか』

〈寸鉄〉 2018年2月20日
「一日一日、進歩する人が青年」牧口先生。今日も前進!価値創造のドラマを
国連「世界社会正義の日」人間主義の指導原理を皆が求む。我らの使命は大
正法を持つ女性は「一切の男子に・こえたり」御書婦女の連帯こそ希望の泉
特殊詐欺に警戒!家族の緊急事態、儲け話等を騙り心の隙狙う。断固撃退
2人に1人がアレルギーに罹患と。国民病対策の推進、公明が更に旗振れ

☆世界に魂を 心に翼を 第1回 創立の精神
◇音楽を民衆の手に取り戻す
"音楽は世界に魂を吹き込み、心に翼を与える"(プラトン)——きょう2月9日は「民音(民主音楽協会)の日」。1961年、創立者の池田先生が民音の設立構想を示した日である。2年後の10月18日に民音が設立され、今年で55周年。新連載「世界に魂を 心に翼を」では、音楽文化の地平を開いた民音の軌跡を追う。

雲上の機中からは、国境地帯に広がる青々とした緑が見えた。
57年前(61年)の2月9日——。
インドを訪問し、東洋広布の碑の埋納を終えた池田先生はビルマ(現・ミャンマー)からタイへ。会長就任後、初となるアジア訪問だった。
約2時間の空路。先生は窓際の席で思案をめぐらせていた。
この前日(2月8日)の夕刻、一行は首都ラングーン(当時)の日本人墓地を訪れている。
先生より12歳年上の長兄は、太平洋戦争で最も無謀といわれたインパール作戦の犠牲となり、ビルマで命を落としていた。
戦没者の碑に祈りを捧げる先生。燃えるような夕焼けが、あたりを赤く染め上げる。
"兄も、この夕日を見たに違いない……"
終戦から15年余り。確かに太平洋戦争は終わった。だが世界では、人々はいまだ戦火に追われていた。
タイに向かう機内で、先生は同行の秋谷青年部長(当時。現在は最高指導会議議長)に語った。
"あらゆる差異を超え、人間と人間を結ぶものは何か。例えば文化の交流によって、民衆間の相互理解を深めることはできないだろうか"
その夜、先生はバンコクの宿舎で明確な構想を示している。
「真の世界平和のためには、民衆と民衆が分かり合うことが絶対に重要だ。特に芸術の交流が不可欠だと思う。これから国境を超えて進めたい」
アジアの地で、新たな民衆文化の胎動が始まった。
◇ ◆ ◇
戦後の荒廃から精神的に立ち上がるには「文化」しかない——。
それは恩師・戸田先生から受け継いだ確信であり、誓いだった。
アジア訪問から帰国すると、「3・16」を記念する青年部音楽祭を開催。翌年8月には富士吹奏楽団、10月には富士合唱団が結成され、初の文化祭が行われた。
文化祭の淵源となった体育大会を提案したのも池田先生である。
当初、学会の理事らは"信心に関係がない"と難色を示した。池田先生が"青年のために"と訴えると、戸田先生は「大(池田先生)が言うならいいよ」と了承し、54年に第1回の体育大会が実現している。
同年に音楽隊、その2年後に鼓笛隊が誕生。結成に当たり、池田先生自ら費用を工面し、楽器を贈った。
「池田先生は戸田先生の構想を全て実現されました。75万世帯達成とともに、平和と文化の推進を模索され続けた。その具現化のために、先生お一人で学会に文化の土壌をつくってくださったのです」(秋谷議長)
◇ ◆ ◇
「名前は"民音"がいいね」
池田先生の提案をもとに、63年8月、団体の準備委員会が発足する。
2カ月後の10月18日に創立記念演奏会を行うことが決まったが、検討すべき課題は山ほどあった。
まず活動の「柱」である。
民音が果たすべき使命とは何か。アジア訪問で池田先生が示された平和への思いに、どう迫るか。——スローガンの案を練り、五つの骨子を定めた。

一、広く民衆の間に、健康で明るい音楽運動を起こす。
一、新しい民衆音楽を創造し、これを育成する。
一、青少年の音楽教育を推進し、並びに一般音楽レベルの向上を図り、以て情操豊かな民衆文化の興隆を目指す。
一、音楽を通じ国際間の文化交流を推進し、世界の民衆と友誼を結ぶ。
一、日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する。

原案に目を通した池田先生は「いいね」と一言。折に触れ、具体的な活動について助言した。
当初、首脳で協議を重ね、団体の正式名称を「民衆音楽協会」と考えていたが、先生の考えは異なった。
"民衆が主体となっていくのだから、「民主」にしてはどうだろう。音楽・芸術を育成していく主役が民衆なんだから"
創立記念演奏会は、吹奏楽団による行進曲「錨を上げて」で開幕。バイオリンの諏訪根自子氏、チェロの清水勝雄氏、琴の唯是震一氏……一流の音楽家が顔を並べた。
フィナーレでは、近衛秀麿氏が行進曲「旧友」を指揮。「民主音楽協会」の正式名称とスローガンが発表され、民音は船出を果たした。
◇ ◆ ◇
「私は一度もベートーベンを聴いたことがありません。ベートーベンを聴きたい」——民音設立の直後、市民から寄せられた手紙である。
現代のように、携帯プレーヤーや動画サイトなどで自由に音楽を楽しむなど、想像もつかない時代。歌謡曲やポップスは親しまれていたものの、クラシックやオペラは高価で、庶民にはなかなか手が出なかった。
著名な交響楽団の演奏会ともなれば入場料は1000円を超え、鑑賞する際の服装も指定された。映画の観覧料が150円の時代である(森永卓郎監修『物価の文化史事典』展望社)。
ところが民音では、同様の交響楽団の演奏会を、何と300円前後で楽しむことができた。
スローガンの第一にある「広く民衆の間に、健康で明るい音楽運動を起こす」。その一つの答えだった。
66年5月には、早くも「民音コンクール(現・東京国際音楽コンクール)」の声楽部門を実施している。
同コンクールの指揮部門も準備が進められ、民音専任理事の秋谷青年部長は、世界的指揮者・チェリストである齋藤秀雄氏を訪ねた。
音楽そのものについては素人かもしれない。だが創立者の構想を語る中で、音楽界に貢献したいという熱が言葉となってあふれた。
黙って聞いていた齋藤氏。
「分かった。やりましょう」
審査委員長を快諾。今に続く指揮者コンクールの始まりとなった。
◇ ◆ ◇
"存在そのものが日本のオーケストラ史"といわれた朝比奈隆氏。
「(聴衆が)目を輝かせながら聴くものですから、勢い私たちも真剣に演奏をしました」と、民音の演奏会での指揮を振り返っている。
終戦直後、戦災の爪痕が残る大阪で関西交響楽団を創設し、半世紀以上にわたって常任指揮者を歴任。後に日本指揮者協会会長を務めた。
忘れられない思い出がある。
戦前、日本の聴衆の層を広げたいと、50銭で聴ける演奏会を企画。食堂の定食ほどの価格である。新聞社に売り込んだが実現しなかった。
「青春時代に描いたその夢は、今日、こうして民音の手で実現されている。うれしく思っているんですよ」
齋藤秀雄氏の後を継ぎ、21年にわたって指揮者コンクールの審査委員長を務め、数多の俊英を世界の楽壇に送り出してきた。
民音創立20周年の折に、朝比奈氏は、その発展の源について語った。
「ひとえに池田先生の卓越した創立精神によるものである、と思っています。平たく言えば"音楽の花束を広くみんなの手に"といったところでしょうか。この"憲法"がある限り大丈夫」
同じ理想を描く民音に期待し、目を細めた。
「これからが本番です。音楽界を支える重みは数倍にも増してきますよ」

2018年2月19日月曜日

2018.02.19 わが友に贈る

◇今週のことば
「仏の種は法華経より
外になきなり」
明るく朗らかに
大確信で妙法を語れ!
幸の創造はここにあり。
2018年2月19日

法門申さるべき様の事 P1271
『師子の中の虫師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり』

〈寸鉄〉 2018年2月19日
一対一の対話で友情結ぶ会長こそ平和実現の模範—識者。我らも友の中へ
第2宮城総県の日。青年と共に福光の春を必ず!地域に励ましの連帯拡大
「信心の厚薄によるべきなり」御書。信強き人が勝つ仏法。倦まず弛まず
幹部が自己を磨けば会員は自然と育つ—戸田先生戦う息吹を組織の隅々に
歩行者重症の自転車事故—加害者半数が24歳以下と。速度抑えて法令順守

☆藍よりも青く 「3・16」60周年へ走る 総東京の若き友 2018年2月8日
◇万年の勝利決する本陣の使命
「万年の創価の勝利を決せんは 本陣・東京の責務なり」
「師弟凱歌の旭日を元初の朝に示さんは 本陣・東京の使命なり」
池田先生はかつて、創価の師弟が権力の魔性と戦い抜いた「正義の東京大会」を顕彰する碑に刻んだ。
「世界広布の本陣・総東京」の永遠不滅の魂を胸に、後継の若人は今、3月の「世界青年部総会」に向けて弘教・人材の拡大に挑戦。広布伸展の勢いは、一段と加速度を増している。
その要諦は何か?
�「一対一の励まし」
�「各部一体の前進」
�「幹部率先の行動」である。
ここでは、それを物語る地域の代表の取り組みを紹介する。
◆◇◆
若き丈夫が澎湃と躍り出ているのが、八王子総区男子部だ。今回入校した「男子部大学校」1期生の人数は「支部1」を優に超え、昨年の創価班・牙城会大学校生の輩出を大きく上回った。
その推進力となったのが、八王子本陣区である。同区では、全ての支部で大学校生を輩出。10支部で計31人が入校した。
「リーダーと、なぜ、大学校生の輩出に力を注ぐのかという"活動の意義"を深め、団結したことが要因の一つ」と、大泉直樹さん(区男子部長)は語る。
メンバーの激励に奔走するのはもちろん、共に広布の指揮を執る男子部の部長や本部長らとも、心を通わせてきた大泉さん。その「思いの共有」が、一人一人のさらなる主体性を促す契機に。そして、全リーダーが徹底した"一対一の語らい"に重点を置いた結果、爆発的な拡大を生み出したのである。
さらに、区・本部・支部のそれぞれで、壮年・婦人部と「情報の共有」を促進。特に、支部ごとに定期的に行う「拡大勝利協議会」では、男子部の活動の状況などを詳細に報告。すると、「わが地域から、大学校生を輩出しよう!」との機運が「各部一体」で高まっていった。
日々の会合でも、創意工夫が光る。同区男子部では昨年から、ライン組織が主導して大学校生の育成に尽力。区で毎月のように開催した大学校生の集いに、"大学校候補生"なども自由に参加できるようにした。
さらに先日、「大学校では何を学ぶのか?」「勤務時間が不規則な中でも、挑戦できるか?」といった質疑応答の機会を設け、入校前のメンバーの疑問や不安の声に、一つ一つ丁寧に答えた。集った友からは、「具体的なイメージが湧き、入校への決意を深めた」との声が相次いだ。
こうした取り組みが奏功し、近年で最高となる輩出となったのである。大泉さんは「大学校生と共に、師弟勝利の道を歩んでいきます」と、さらなる飛躍を誓う。
◆◇◆
「若き池田先生が広布に走り、未来を展望した使命深き地で活動できることが誇りです!」
満面の笑みで語る滝本範子さん(墨田総区女子部長)。生粋の"墨田っ子"だ。
池田先生は男子部の「第1部隊長」として墨田を駆け、恩師・戸田城聖先生の願業である「75万世帯」の成就への道を開いた。本年、部隊長就任から65周年。師弟有縁の地に今、草創の父母から広布のバトンを継ぐ華陽の連帯が広がる。
滝本さんは、通信販売会社で広告業務に携わる。どんなに多忙な中でも、常に「リーダー率先」で模範の拡大に挑んできた。この2カ月の間にも、5人の友が入会を決意。また、これまで入会に導いた友人2人は、共に広布の第一線で活躍している。
その率先垂範の行動に、墨田の華陽姉妹が一人また一人と続き、総区として「支部1」を超える弘教・入会決意を。山下由希子さん(女子部部長)が対話を重ねてきた友人も先月、入会を決意した。山下さんは語る。「臆病な心が出てきた時、滝本さんからの励ましが、勇気の一歩を踏み出させてくれました」
滝本さんは、日々の活動の中で心掛けていることがある。それは、「題目をあげ抜き、真心を込めて語れば、必ず友人の心に届く。私にもできたのだから!」との思いを、"一対一の激励"の中で伝えること。体験の共有と確信の言葉が友の心を鼓舞し、勇気と希望の波動を広げるからだ。
かつて、池田先生は述べた。「上意下達の時代ではない。同じ目線で、ともに人生を語り、仏法を語っていく。よき刺激を与え、ビジョンを示し、希望を贈っていく。そこに人材は育つ。勝利の道は開かれる」と。
師の心をわが心として、自らの言葉で信心の喜びを語る中で、広布の裾野は広がる。墨田総区女子部は、華陽のスクラム固く、ロマンの青春を朗らかに進みゆく。

2018年2月18日日曜日

2018.02.18 わが友に贈る

「断じて勝つ!」
強き一念と行動が
新たな歴史を開く。
誓願の祈りを根本に
壁を破る勇気の挑戦を!

御義口伝巻上 P751
『今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり』

〈寸鉄〉 2018年2月18日
「一人として仏にならざるはなし」御書。皆が使命の人だ。称え励まし前進
世界青年部総会に後継の参加を—列島を包む各部一体の劇。創価家族の絆
九州壮年部の日。先駆の広布拡大が我らの誇り!火の国の黄金柱が総決起
「折伏すれば信用が残る」戸田先生。相手を思う心は伝わる。大誠実で語れ
死亡事故起こした高齢者半数が認知症の恐れと。周囲も注意の目を向けて

☆藍よりも青く 「3・16」研さんのために 長編詩
◇広布を必然たらしめんとする熱情のありや無しやを 常に問え
1958年(昭和33年)3月16日の広宣流布の記念式典から30年がたった88年(同63年)3月、池田先生は若き友に、長編詩「青は藍よりも青し」を贈った。ここでは、その抜粋を紹介する。(全文は『池田大作全集第42巻』所収「春秋抄」を参照)

新しき朝は 青年のものである
朝霜 鮮やかに 青き麦畑にも似て

弥生・三月とはいえ
暁の富士の寒気は厳しい
稲妻の閃光の如き
突然の知らせに
勇み馳せ参じたる
若き地涌の同志六千

吐く息は白く
いまだ 目醒めぬ
大地を踏みしめる足音が
未明の森に谺す

頬を紅潮させた乙女がいた
学生服のいとけなき少年もいた
防寒具もなく
しかし凜然と胸張る青年がいた

その瞳は
暗き冷気の中で
夜明けとともに
大いなる"時"を迎えんとする
確かな鼓動に
煌きを増していた
ああ
青年の純一なる生命の発露が
清らかに力強く
新しき燦たる太陽の上昇を告げる

おお 不滅となれり
三・一六

それは
恩師のもとに
広宣流布の大図式を描いた日——
そして
未来永劫に変わらざる
師弟共戦の誓いの日なり

故に この日に甚深の意義を留めて
「広宣流布記念の日」と名付く

◆◇◆ 

幾度も激しき戦の指揮を
敢然と執り終えし先生は
今やその身を病床に横たえ
ある時は
「今 何の本を読んでいるか」と
学べ また学べとの
厳愛の叱咤なり
また ある時は
「メキシコへ行った夢を見た」
と温かき慈眼
「君よ 世界を頼むよ」と

我は その師の心を心として
世界広布への飛翔を誓った
大鵬の空をぞ かける姿して との
言葉のままに

そして逝去四日前
厳格に かつ 凜冽に放たれた
「追撃の手をゆるめるな!」
との師子吼は
門下の怒濤の前進の支柱となった

ああ 忘れ得ぬ 四月二日
万朶の桜に送られて
霊山に向かわれた恩師
そして遺された分身の生命は
広布達成へ
毅然たる追撃の生涯を開始せり

時の日記に私は記した
「一人の 戸田門下の青年は進む
一人 凜然と 北風に向かって」

あれから三十星霜
一人烈風に身をさらしつつ
一人烈日に身を焦がしつつ
愛する我が同志を守りぬかんと
一切の障魔との対決に
一歩も退かぬ一日 また一日

所詮 仏法は勝負なるを
知悉したが故に
怒り狂う波間にあって
一瞬の停滞も逡巡もなかった
真の丈夫の姿をば
阿修羅の如く示し残さんと

栄光の「三・一六」に集った
あの懐かしの兄弟も
また
敢然と また健気にも
歩みつづけた
不退の長征に
見事なる栄冠の戦譜を
私と共に刻んだ

三類の嵐は
幾度となく
我らの前途に立ちはだかった

卑劣な怒濤の日もあった
邪知の小才子の裏切りもあった

しかし 私たちは
晴れ晴れとして 完勝した
希望の翼をもって
幾多の風雪を乗り越え
若き乙女たちは今
幸の金風に包まれた女王として
青年は偉大なる人間の
尊き平和の砦の柱として
堂々と 揺るぎなき基盤を築いた
久遠に結んだ不思議なる同志の
異体を同心とする団結の力
御聖訓の理想に殉ぜんとする
峻厳なる絆をば
金剛不壊の中心軸として
万年への広布の基盤は できあがった

限りなく続く青年の意気が
碧き水平線の彼方
今日も明日も 白雲の如く湧き起こり
再び新世紀の天空を駆ける時
障魔の黒き雲はない
凜々しき仏子の青年の顔輝き
一陣の薫風に花びらが舞う

青年は無限の財宝
いかなる労苦も
はたまた 勝利も敗北もすべて
すばらしき躍動の飛躍台となる
君よ 君たちよ
新たなる第二の「七つの鐘」を頼む

法理のままの東漸
日本に仏教伝来し 七百年にして
太陽の如く 大聖哲出ず
それより七百年して不思議なる会生まれる
正法の広宣の波は今ここに西漸
アジアの そして世界の海辺を洗い始む
今まさに 妙法という
生命至上の大いなる光明は
青き地球を包みゆかんとするか

その広布の大河の流れが
歴史の必然であるか否かを
君よ問うなかれ

汝自身の胸中に
自らの汗と労苦により
広布を必然たらしめんとする
熱情のありや無しやを 常に問え

広布とは——
大聖人の御遺命のままに
尊極なる仏の生命の座を
人類の魂に打ち据えて
爛漫たる生命ルネサンスの華を
この地球の大地に永遠に
開花させゆくことだ

天台云く「従藍而青」
青は藍より出でて藍より青し

君もまた 宇宙の森羅万象を貫く
根本の法をもち
生命の内奥より
無限の光彩を放ちつつ
民衆凱歌の壮大な歴史の軌跡を
思う存分描いてくれることを
私はひたすら祈る

いかなる約束なるか
青年世紀の開幕に
陸続と躍り出でたる
使命の勇者あり
ああ
新たなる三十年の
大遠征が 今始まる

君たちが
また あなたたちが
未聞の険難の尾根を堂々と踏破し
決意新たに 世紀の暁鐘を
晴れがましく乱打することを
私は信じている

時は巡り来り
ここに迎えた広宣流布記念の日
この日こそ我が愛する門下の
新たな空気を吸いゆく
希望の朝だ

青年よ あくまでも前へ
今こそ
一歩も後退しては
ならぬ時だ

青年よ
あくまでも 日々の研鑽の労苦に
敢然と挑みながら
朗らかにして 逞しき
青春の詩を
高らかに 高らかに謳いたまえ

そして生涯崩れぬ黄金のスクラムで
ただひたすらに
人類史の新しき朝を開きゆく
この聖業を完遂してくれたまえ

2018年2月17日土曜日

2018.02.17 わが友に贈る

限界を決めるのは自分。
其の壁を破るのも自分。
今この瞬間の一念から
未来の勝利は始まる。
負けじ魂の挑戦者たれ!

弥源太入道殿御返事 P1228
『法華経と申す経は転子病と申す病の様に候、転子と申すは親の様なる子は少く候へども此の病は必ず伝わり候なり、例せば犬の子は母の吠を伝へ猫の子は母の用を伝えて鼠を取る』

〈寸鉄〉 2018年2月17日
SGIは「寛容の精神」を育みながら世界に拡大—識者。多様性光る未来を
農漁光部が結成45周年。命支える聖業。国土の宿命転換に走る勇者万歳!
人材は特別な人間ではない—戸田先生。桜梅桃李の仏法。自分らしく輝け
「苦労せざるものは幸運に値せず」偉人。広布の為の労苦は必ず生きてくる
ストーブによる火災多しと。消し忘れに注意を。衣類等の可燃物も離して

☆励まし週間 常勝の宝の同志を激励 2018年2月4日
◇原田会長はじめ最高リーダーが関西各地で家庭訪問
関西の師弟の絆。それは、若き日の池田先生が路地裏まで駆け巡り、寸暇を割いて励まし、築いた「一対一」の絆である。だから強い。世界の模範と輝く。
「励まし週間」2日目の3日、全国のリーダーが激励に走る中、原田会長、長谷川理事長、谷川壮年部長、永石婦人部長らが「常勝関西」を築いた宝の同志宅を家庭訪問した。
原田会長がまず訪れたのは、大阪市東成区で個人会場を提供する三間清子さん(婦人部副本部長)、長男・俊彦さん(副本部長)らの一家。
三重の草創期を戦い、同区でも地域広布に率先し、弘教は50世帯に上る清子さん。会長は、そのかくしゃくとした姿をたたえ、「人のために動くから、こんなにお元気なんですね。どうか長生きしてください」と。
俊彦さんが、クローン病など数々の大病を乗り越えてきた体験を話すと、「まさに『病によりて道心はをこり候』の御聖訓の証明です」と、一家の実証を心から賛嘆した。
続いて会長は、同市城東区で同じく広布の会場を提供する山田治夫さん(副本部長)・明子さん(支部副婦人部長)夫妻宅へ。
先月末、長女・和子さんの夫アンソニー・フォーカナーさんが入会し、喜びに包まれる山田さん一家。
治夫さんが、学会一筋の母・君子さん(故人)の教えのままに信心を貫き、経済苦を克服して和楽の道を歩む感謝を語ると、会長は「ご一家の姿を一番喜んでくださっているのは、お母さんです」と述べ、一家のますますの活躍を望んだ。

長谷川理事長は京都市右京区へ。加藤英明さん(副支部長)・美智子さん(婦人部副本部長)夫妻、相田利廣さん(副支部長)・幸子さん(支部副婦人部長)夫妻を激励した。

一方、谷川壮年部長は、兵庫・神戸市内の同志宅へ向かった。
中央区の丸山実さん(地区部長)・善子さん(同婦人部長)夫妻のもとを訪れ、社会に大きな実証を示した労苦をたたえた後、東灘区の堺猛さん(地区部長)・英子さん(副白ゆり長)夫妻宅へ。
猛さんの重症筋無力症や脳梗塞、さらに阪神・淡路大震災では周辺家屋の倒壊などに見舞われながらも、夫婦で乗り越えた。「全て御本尊に守られ、何不自由ない境涯になりました。今は感謝しかありません」と、2人はしみじみ語った。
壮年部長は一家の純粋な広布の歩みを聞きつつ、「信心は真面目に貫き通した人が勝ちますね」と称賛。「これからも福運に包まれた人生を送られますように」と述べ、師弟共戦を約し合った。

婦人部のリーダーも関西各地を奔走。このうち永石婦人部長は、京都市下京区の大槻ひろみさん(婦人部副本部長)のもとを訪れた。
四十数年にわたり広布の会場を提供してきた大槻さん。4年前、夫・重之さんが大動脈解離で倒れ、霊山へ。「でも、悲しみの涙は出ないんです。いつも同志の皆さんが集ってくださるから」。電機部品製造会社も引き継いだ。つらい時は夫が池田先生の指導を書き留めたノートを見て自身を奮い立たせる。大槻さんは「支えてくださる方々に感謝です。夫の残したものを大切にしていきたい」と。
婦人部長は「広布に尽くしてこられた、なんて偉大で素敵なご夫妻でしょう。その福徳は無量無辺です」と心からたたえた。

2018.02.16 わが友に贈る

広宣流布は
仏と魔との戦いだ。
破折精神を忘れるな!
真実に勝る雄弁なし。
青年が言論戦の先頭に!

崇峻天皇御書 P1172
『日蓮と法華経とを信ずる人人をば前前彼の人人いかなる事ありともかへりみ給うべし』

〈寸鉄〉 2018年2月16日
大聖人御聖誕の日。広布誓願の実践に信心の血脈は厳然。192カ国の連帯に
千葉の日。旭日の天地に輝く民衆城。青年を先頭に拡大また拡大の旋風を
「法華経の功徳は虚空にも余りぬべし」御書。自行化他の題目に無量の福徳
除雪中の事故に注意。皆で声掛け複数人での作業を。無理せず安全優先で
次はもっといいレースを—銀選手。挑戦の人は美し。我らも本舞台で飛翔

☆御書と歩む� 第6回 健康革命の日々を
『御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ』(太田入道殿御返事、1009ページ)

◇通解
(病気で)お痛みのことについて、ひとたびは嘆き、ふたたびには悦んだ。

◇同志への指針
大聖人は、門下の病の報告に同苦され、わが身のことと祈ってくださった。その上で、今こそ変毒為薬の時と喜ぶのだと大激励なされている。
仏法は"健病不二"である。たじろぐことはない。妙法を唱え抜いて自他の病苦を迎え撃つのだ。必ず生命力を増し、宿命転換できる。悩める友を励ませる境涯ともなる。
共々に勇気凜々と、健康革命の日々を歩みゆこう!

☆2月度座談会拝読御書 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡で著され、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙で、別名を「煩悩即菩提御書」といいます。
御執筆の時期は、文永9年(1272年)5月と伝えられてきましたが、翌文永10年5月とも考えられます。
本抄の冒頭に「日蓮が諸難について御とぶらひ今に・はじめざる志ありがたく候」(御書1116ページ)とあります。このことから、遠路はるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた金吾が鎌倉に帰った後、訪問のお礼の意を込めて認められたと考えられます。
本抄で大聖人は、「法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う」(同1117ページ)金吾の信心を、「不思議や不思議や」(同ページ)と最大にたたえられています。
また、「法華経の信心を・とをし給へ」(同ページ)と述べて、"「法華宗の四条金吾・四条金吾」と日本中の人々からうたわれる存在になっていきなさい"と励まされています。

拝読御文
法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ

◇不退の信心
「(道具を用いて)火を起こすのに、途中で休んでしまえば、火を得ることができない」(御書1118ページ、通解)という譬喩を用いて"持続の信心の大切さ"を教えられた日蓮大聖人。御書を繙くと、"生涯不退の信心"を強調された御文が数多くあります。
大聖人は、門下の新池殿に対して、「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(同1440ページ)と、終始、強盛な信心を貫いていくよう教えられています。
その理由として、続く部分で「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(同ページ)との例えを挙げられています。"鎌倉から京都までの12日間の道程を、11日にわたって歩いてきたとしても、あと1日でやめてしまえば、都の月を詠ずることはかなわない"との意味です。
また、南条時光には、その信心を「水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」(同1544ページ)と仰せになり、何があってもたゆむことなく信心に励んでいる姿勢をたたえられています。

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(同1136ページ)
妙法を実践する途上には、さまざまな障魔が競い起こるゆえに、妙法を生涯にわたって受持し抜くことは、信仰を始めること以上に困難です。いかなる障魔が現れようとも紛動されることなく、生涯不退の信心を貫く中にこそ、一生成仏の道があるのです。

◇竜の口の法難と金吾
早くから日蓮大聖人に帰依し、信心に励んできた四条金吾。その強盛な信心が最も現れた場面の一つが、竜の口の法難の際の振る舞いです。
文永8年(1271年)9月12日、鎌倉の松葉ケ谷にあった大聖人の草庵を、平左衛門尉頼綱が数百人の武装した兵を率いて襲い、大聖人を捕縛。秘密裏に大聖人を斬首しようとしました。
同日の夜半、大聖人は竜の口の刑場に連行されますが、その途中で金吾の館に使いの者を走らせ、金吾に急を告げさせます。
驚いて駆け付け、大聖人が乗られた馬の口に取り付いて泣き悲しむ金吾に対して、大聖人は、「今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり」(御書913ページ)と、不惜身命の心で大難と戦う覚悟を語られました。そして、金吾も腹を切る決心でお供をします。
いよいよ竜の口の頸の座に大聖人が座られると、金吾は「只今なり」(同ページ)と言って嗚咽しました。それに対して、大聖人は「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」(同ページ)と悠然と金吾を叱咤されたのです。太刀取りが大聖人を斬首しようとした瞬間に「ひかりたる物」(同914ページ)が現れ、刑は執行できませんでした。この後、大聖人は佐渡流罪に処せられます。
大聖人は、殉教の覚悟で竜の口の刑場までお供をした金吾の信心を、「いついかなる世に思い忘れることができようか」(同1193ページ、通解)等、度々、たたえられています。

◇社会で実証を示す
日蓮大聖人は、御金言の中で何度も「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(御書1466ページ等)と示されています。世間の一切の営みは妙法(実相)と違背しないという意味です。
ゆえに、仏法を根本にすれば、現実の社会の中で智慧を働かせて勝利していくことができます。

「仏法即社会」であるゆえに、仕事や地域での活動、家庭での振る舞いなど、現実の全てが"仏道修行の舞台"になります。
大聖人は御書の中で、仕事について「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(同1295ページ)と仰せになり、自身の仕事を法華経の修行であると思いなさいと教えられています。
また、建治3年(1277年)9月、主君・江間氏の信頼を取り戻す正念場にあった四条金吾に対し、大聖人は「崇峻天皇御書」を与えられました。
大聖人は「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」(同1173ページ)と、誰の目にも明らかな勝利の実証を社会で打ち立てていきなさいと教えられています。
強盛な信心を奮い起こして、現実社会の中で自身を錬磨し、勝利と信頼の姿を示していくことこそ、仏法者の実践なのです。

★池田先生の指針から 自らの使命の舞台で勝利を
四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。(中略)
大聖人は、その後の御手紙で、こう励まされている。
「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書1118ページ)
——武士や医師として、その責務を全うするだけではなく、法華宗、すなわち日蓮大聖人門下の四条金吾として、日本中の人びとから、賞讃される人物になりなさいと言われているのだ。
自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。
武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。
武士や医師として、名声を得ることも大事であろう。しかし、どんなに賞讃されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない。本末転倒の人生である。
大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。ゆえに、大聖人は、「法華宗の四条金吾……」と言われたのである。
常に、どこにあっても、大聖人の弟子と名乗り、胸を張れるか。現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、賞讃を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。(小説『新・人間革命』第22巻「命宝」の章)
◇ ◆ ◇
職場や地域で信頼されてこそ、真の「信心即生活」「仏法即社会」である。信心を根本に真心と智慧を尽くし、どこまでも誠実な「人の振る舞い」に徹していくことだ。
激動の社会、変化の時代である。だからこそ「強盛の大信力」を奮い起こし、わが使命の舞台で、断じて勝利の実証を打ち立てよう!
「うたはれ給へ」——これが、広宣流布の希望の劇だ。(2015・2・4付、「御書とともに�」)

参考文献
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第20巻(聖教新聞社)

2018年2月15日木曜日

2018.02.15 わが友に贈る

「御みやづかいを
法華経とをぼしめせ」
仕事に奮闘する友よ
「真剣」と「誠実」で
職場の第一人者に!

四条金吾殿御返事 P1194
『多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし』

〈寸鉄〉 2018年2月15日
「体曲れば影ななめなり」御書。何事も祈りから。深き信心こそ勝利の土台
青年部体験談集が好評。一つの真実は百万言にも勝る。自らも体験を語れ
恩を与える喜びは常に受ける側を上回る—作家。広布一筋の多宝会は模範
携帯は暗証番号等で画面ロックを。盗難・紛失対策の基本。情報漏洩を防げ
世界で10億の子供が暴力被害。断ち切る思潮更に。暴力は次の暴力生むゆえ

☆世界広布新時代第31回本部幹部会・関西総会への池田先生のメッセージ
◇大歓喜の陣列も一人の励ましから
◇朗らかに人材と友情の花園を
一、「今再びの陣列」を威風堂々と広げゆく「伝統の2月」の本部幹部会、そして「歓喜の中の大歓喜」の関西総会、誠におめでとう! 
アメリカの若き「正義の師子」の皆さん、わが永遠の故郷・関西へ本当にようこそ! 見事な大拡大を成し遂げて来日してくれた201人の代表を、あらためて讃嘆し、そして熱烈に大歓迎しようではありませんか!(大拍手)
一、思えば、日蓮大聖人の立宗700年に当たる1952年、あの二月闘争で、蒲田支部が壁を破って1カ月に成就した折伏が、201世帯でありました。この時、入会した縁深き方々とご家族のことを、私も妻も66年間、祈り、見守り続けてきました。それぞれに大功徳を受け、お子さんやお孫さん方も、日本と世界の広布のリーダーと活躍しゆく晴れ姿が、何よりの喜びです。
ここ関西で、大阪支部の白木初代支部長が戦いを開始したのも、この二月闘争の時でした。
夜行列車で東京から大阪へ旅立つ彼を、私は駅まで見送り、共に未来を展望しつつ励ましたことも、忘れ得ぬ思い出です。
一人の折伏、一人の励ましから、全ては始まります。それが、時とともに福徳と人材の無量無辺の広がりとなっていくのが、「地涌の義」なのであります。

◇勝ち鬨を高らかに
一、きょうの関西総会を目指し、大阪、兵庫、京都、滋賀、福井、奈良、和歌山の七つの府県の常勝家族が異体同心の「虹のスクラム」を組んで、いまだかつてない大折伏の金字塔を打ち立ててくれました。
愛する関西に、一人また一人、久遠より「誓いの友」を呼び出して、新たな希望の大行進が始まっています。ますます「諸天の旗も色冴えて」、これから、どれほど幸福と栄光の物語が綴られゆくことか。私の心は高鳴ります。
本当におめでとう!
本当にありがとう!
かつて、戸田先生が私に贈って下さった和歌を、きょうは、そのまま不二の宝友に捧げたい。

我が弟子が
 折伏行で
  築きたる
 錦州城を
  仰ぐうれしさ

今、我らの誉れの錦州城は、いやまして天高く聳えたりと、みなで勝ち鬨をあげたいと思うが、どうだろうか!(大拍手)
〈参加者全員が立ち上がり、落合関西青年部長の音頭で勝ち鬨をあげた〉
一、ここで、大聖人が大切にされ、牧口先生・戸田先生が心肝に染められた法華経の一節を拝したい。
すなわち、「太陽と月の光明が諸々の闇を除くことができるように、妙法を受持し弘通する地涌の菩薩は、世間の中で行動して、衆生の闇を滅することができる」(御書903ページ、趣意)との宣言であります。
この「地涌の太陽」は、いったい、どこから昇るのか。
貴族ぶった特権階級でもなければ、閉ざされた伽藍(寺院)でもありません。広々と開かれた「民衆の大海原」であり、みな平等の「庶民の大地」です。
御本仏ご自身が、「民の家より出でて」と明快に仰せの通りであります。
そして、大聖人のお心のままに、庶民の人間群に飛び込んで、誓願の題目を唱え抜きながら、あらゆる不幸と苦難の闇に挑んできたのが、我ら創価の「地涌の太陽」なのであります。
地涌の太陽は、気取らず飾らず、ありのままで明るく朗らかです。温かくおおらかに、みんなを分け隔てなく包みます。不屈の大情熱に燃えて、たゆまず前へ進み、智慧と慈愛の光を惜しみません。
そして、どんな嵐があっても絶対に負けないで、最後は大勝利の晴れわたる笑顔を広げていくのです。
今、深い不安と分断の暗闇に覆われ、凍える人類を、いかに照らし温め、平和の「春の曲」を奏でてゆくか。その希望の陽光は、我らの「民衆仏法」即「世界宗教」にこそあると、私は皆さんと一緒に申し上げたいのであります。

◇「勝負は勇気だ!」
一、なかんずく世界が待ち望んでやまないのが、「生命尊厳」の哲理を探究し実践する正義の青年たちの熱と力であります。
我ら創価家族は、一人一人が今再び、広宣流布という元初の誓願の炎を明々と燃え上がらせながら、一段と励ましの光を放って、桜梅桃李の人材と友情の花園を大いに咲き薫らせてまいりたい。
そして、若き地涌の旭日を、いよいよ「常勝の空 晴ればれと」、輝かせていこうではありませんか!
終わりに、戸田先生が関西婦人部の母たちを励まされた言葉を申し上げたい。
「みんなは地涌の菩薩だ。そう決めて、祈り、楽しく語ってごらん。必ず、大勢の眷属が現れて仏の陣列に集ってくるよ。勝負は勇気だ!」と。
さあ、一人ももれなく、常勝栄光の未来へ、「いざや前進 恐れなく」。
どうか、お元気で! 風邪など、ひかないように。題目を送ります!(大拍手)

2018年2月14日水曜日

2018.02.14 わが友に贈る

"良き友を持つことが
仏道修行のすべて"
学会は善知識の集い。
高め合う同志の存在こそ
成長と向上の原動力だ!

高橋殿御返事 P1467
『同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か』

〈寸鉄〉 2018年2月14日
創価家族の語らいが弾む伝統の座談会。青年の結集で壁破り2月を荘厳!
岡山の日。"広布拡大の発火点"の誉れ。希望の春呼ぶ先駆の対話の大波を
各地で新入会者が続々誕生!全員がもれなく幸福に。励ましの声絶やさず
人生の今の瞬間を大切に—哲人。リーダーは時を逃さぬ真剣さで友の元へ
子どもはたった1週間で依存症に—専門家。賢き生活習慣の確立、家庭で

☆四季の励まし 「勇気の心」が幸福を築く 2018年2月4日
勇気あるところ、
正義と希望の太陽は輝く。
「勇気」と「臆病」の差は、
微妙である。
紙一重の差といってもよい。
たった一言の励ましによって、
気力が倍加し、
勇気が漲ることは、実に多い。
励ましは
英語で「エンカレッジ」。
勇気(カレッジ)を
吹き込むことだ。
ゆえに励ましのあるところは、
勇気が満ちあふれる。

勇気とは、本来、
外に向けられるものではない。
弱い自分、
苦労を回避しようとする自分、
新しい挑戦を
尻込みしてしまう自分、
嫌なことを他人のせいにして
人を恨んでしまう自分など、
自己の迷いや殻を
打ち破っていく心である。
勇気が幸福を確立していく上で、
最も大切な力なのだ。

自分の境涯が変われば、
物事の感じ方、
捉え方も変わっていくものだ。
逆境も、苦難も、
人生のドラマを楽しむように、
悠々と乗り越えていける。
その境涯革命の原動力は、
強い一念を込めた真剣な唱題だ。
題目を唱え抜いて、
勇気を奮い起こして行動し、
自分の壁を打ち破った時に、
境涯を開くことができる。

かけがえのない
「今日」を悔いなく戦い、
広宣流布のため、
人々のために生ききれ!
「常勝」とは、
断固として「今を勝つ」ことだ。
「今日を勝つ」ことだ。

"常勝の空"が、晴れ晴れと広がっていた。大阪市中央区の大阪ビジネスパーク。関西の発展を象徴するかのように、高層ビルが林立する。2007年(平成19年)11月、池田大作先生がシャッターを切った。
「常勝関西」は、先生が手づくりで築いた民衆の大城。昭和31年の「大阪の戦い」で、先生は「勇戦」「大勝」と揮毫し、関西の同志に贈った。「自ら勇んで戦いを起こす時、生命は大歓喜に包まれ、悠々と苦悩に打ち勝つ大境涯へ、自身を高めていける」と、先生はつづっている。
勇戦ありて、大勝あり——。常勝の魂とは、勇んで戦う生命に脈打つ。さあ、勇気の心を燃やし、幸の連帯を広げよう!

2018年2月13日火曜日

2018.02.13 わが友に贈る

価値ある一日は
朝の決意から始まる。
朗々たる勤行・唱題で
誓願の祈りも深く
快活に進みゆこう!

諌暁八幡抄 P589
『末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ』

〈寸鉄〉 2018年2月13日
会長の著作を読めば崇高な生き方を永遠に学べる—総長。勇躍・成長の糧に
未来の勝利は今にあり!あの人がいたから—そう言われる励ましの日々を
東京・葛飾の日。明るく粘り強く。青年を先頭に人間共和のスクラム拡大
会場提供者に感謝。周辺での私語等は厳禁。近隣に配慮し尊き宝処を守れ
流感の感染者は1400万人。過去最多を更新と。嗽や手洗い等、油断なく

☆友のもとへ 池田先生の激励行 第1回 二月闘争の源流 東京・大田 2018年2月3日
◇共に戦った同志を忘れない
境遇も悩みも異なる一人一人の心に、勇気の灯をともす。陰で広布を支える人を、サーチライトで照らすように探し、たたえる。今日の世界広布は、池田大作先生のたゆみない励ましによって実現した。本連載では、全国各地に刻まれた池田先生の激励行を追う。

戸田城聖先生が第2代会長に就任してから8カ月が過ぎた1952年(昭和27年)1月。広布は遅々として進んでいなかった。
会長就任後、弘教は実っていたものの、その数は51年9月の798世帯を境に減少していた。
戸田先生は会長就任の折、「75万世帯の弘教」を宣言した。だが、このままの勢いでは、100年が過ぎても実現できない。
「いよいよ大を出すか」——戸田先生は、24歳の池田先生を蒲田支部の支部幹事に任命した。
池田先生の指揮は明快だった。支部の活動の機軸を「組」、今でいう「ブロック」に定め、「組2世帯の弘教」を掲げると、最前線に飛び込んでいった。
支部幹部の中で、池田先生は最も若かった。しかも、幹事という副役職。大きい会合で指導をしても、真剣に耳を傾けない人もいる。自らが率先して動き、同志と共に対話に歩いた。
二月闘争を戦った婦人部幹部は、「1月末に行われた支部の出発の会合の後、池田先生に会うことはありませんでした。最前線の会員のところに足を運ばれていたのです」と振り返る。
町田セイさん(区婦人部主事)は、当時、入会3年目。戸田先生の75万世帯の願業を"いったい誰がやるのだろう"と考えていた。
「ただ一人、池田先生だけは本気でした。その気迫に、私も、皆も"絶対やるぞ!"と続いたのです」
日曜の早朝、池田先生の自宅を訪ね、折伏の応援をお願いすると、先生は即座に身支度を整え、「さあ、行きましょう」と。
他宗を信仰していた町田さんの友人に、先生は「文証」「理証」「現証」という判断基準に照らして、宗教の正邪を語った。
町田さんは「かみ砕くように、分かりやすく仏法を語られる先生の対話に、私も引き込まれました」と述懐する。
町田さんの姿を見かけると、先生はいつも「元気を出して!」「一緒に頑張りましょう!」と明るく声を掛けた。その励ましに、町田さんは勇気を奮い立たせた。これまでに約300世帯の弘教を実らせている。
こうした「一対一」の真心の励ましを、先生は蒲田支部の隅々に広げた。
支部幹部だった婦人は偶然、二月闘争前後の先生の日程を目にした。そこには、仕事の合間を縫うように、びっしりと予定が書き込まれていた。
先生は、その婦人宅にも足を運んだ。留守番をしていた子どもに、富士山の絵を紙に描き、"将来、一緒に広布の山を登ろう"と期待を。眼前の一人だけでなく、その家族にも、こまやかな配慮を尽くした。
一人から一人へ、"決意の連鎖"が広がっていった。この月、蒲田は「支部」で初となる201世帯の弘教を達成した。

「お邪魔します!」
1976年(昭和51年)7月16日午後8時過ぎ、大田区東糀谷の座談会に、池田先生が姿を現した。
参加者から歓声が上がる。ノリ製造に携わる友や、先生が入会に導いた婦人など、顔なじみの同志も訪れていた。
冒頭、皆で朗々と勤行。終わって、参加者の方へ振り返った先生は、「皆さんの家族の健康と繁栄をご祈念しました」と。
先生は、大田で生まれ、青春時代を過ごした。「懐かしいなあ」としみじみと語り、先生の提案で、座談会は質問会となった。
「私は力がなくて、いつも皆さんにご迷惑をお掛けしています」と語る壮年のリーダーには——。
「いつもいつも、ありがとう。いい人が多いじゃないか。大丈夫だよ」「題目をあげ、皆で楽しく前進すれば、折伏はできます」
家族が信心に反対している女子部員には——。
「信仰で家族が争ったら負けだ。一家で一人が題目をあげれば、太陽が昇るように周囲を明るく照らしていけます」
さらに、航空会社の客室乗務員になりたいと語る彼女に、「福運を積むことが大切だよ。見栄を張らず、派手にならず、地道にいきなさい」と優しく語った。
「子どもが勤行の時にふざけてしまう」と嘆く婦人には——。
「子どもだから、ふざけるのは当然です。強制してはいけません。お母さんが"子どもの分まで"との心を持つことが大切だよ」
座談会が終わり、散会しようとした時、「先生!」と声を上げた壮年がいた。壮年は目が不自由だった。それでも師を求め、御書根本に、地域広布に歩んできた草創の友だった。
先生は抱きかかえるように励ました。「覚えているよ。元気でうれしい」
一度、出会った友のことを忘れない。感動が参加者の胸にあふれた。
座談会の会場を提供したのが、木村正祐さん(副本部長)。妻の恵美子さん(婦人部副本部長)から先生の来訪を知らされ、飛んで帰ってきた。
すでに自宅前は、自転車であふれていた。木村さんは急遽、整理に当たった。
会場には入れなかった。だが座談会を終え、会場を後にする師が木村さんと握手を。さらに「忘れないよ」と声を掛けてくれた。
腕利きの指輪職人として75歳の今も現役。恵美子さんの膠原病や脚の手術など、度重なる苦難も信心根本に、夫婦二人で明るく乗り越えてきた。
「同志を思う先生の真心を思い出すと、今でも胸が熱くなります。報恩感謝の人生を歩み抜きます」

1990年(平成2年)11月7日、池田先生は、完成して間もない大田池田文化会館を初訪問。完成記念勤行会が開催された。
勤行会に参加した田村ひとみさん(総区婦人部長)。当時、大田区の女子部書記長を務め、先生の同会館訪問の折には、役員として尽力。誠実を尽くす師の振る舞いを、何度も目の当たりにしてきた。
完成記念勤行会での"大田から広布の人材を"との師の期待とともに、忘れられない場面の一つが、同年12月17日の、先生が出席して行われた自由勤行会である。参加者の中には、子ども連れの婦人たちもいた。
落ち着かせようとするが、一部の子どもが騒ぎ始めてしまった。申し訳なさそうに、身を縮める婦人たち。先生は、その心を察するかのように語った。
「騒ぎながら子どもは成長していきます。皆、健康で立派な指導者に成長するように祈りました」
「お子さん方に何か差し上げたいけれども、残念ながら何もない。だから、お題目を送りました」
励ましとは、相手を包み込む慈愛から発する——そのことを、田村さんは深く心に刻んだ。
昨年、総区婦人部長に就任。その折に決定した総区婦人部のスローガンの一つに、「絶対勝利の故郷城」と。田村さんは誓う。
「師恩を胸に、大田に『絶対勝利の人材城』を築いていきます」
大田区の学生部長だった南浩久さん(支部長)も、師の会館訪問の折、役員として、本部幹部会などの諸行事に携わった。
90年12月16日の夕方。先生が導師となり、役員の勤行会が行われた。
勤行の後、懇談が始まった。先生は「学生部長はいる?」と尋ねた。
南さんは「はい」と返事をして立ち上がったが、緊張のあまり、表情がこわばってしまった。
先生は、「そんなに怖い顔をしないでよ」とユーモアたっぷりに。その場の空気が和らぐと、厳とした口調で語った。
「何があっても学会から離れてはいけない。信心を貫きなさい」
この直後、第2次宗門事件が勃発。南さんは、"だから、あの時、先生は厳しく言われたんだ"と、どこまでも青年を守ろうとする師の真心を知り、広布に生き抜く人生を誓った。
宝の原点を胸に、広布の最前線を駆けてきた。今、3月の世界青年部総会を目指し、青年の育成に全力を注いでいる。

90年11月7日の勤行会で、先生は語った。
「私は、学会に尽くした人のことは絶対に忘れない」——会館が完成した日ではなく、この日を選んで、先生が大田を訪問したのは、二月闘争の折、蒲田支部の支部長を務めた友の三回忌だったからである。
共に戦った同志のことを忘れない。
ここに、師の心がある。
そして、学会の温かさがある。

2018年2月11日日曜日

2018.02.11 わが友に贈る

会合へ参加できない人へ
温かな声掛けを!
「徹して一人を大切に」
これが創価の心だ。
希望の光を隅々まで!

経王御前御書 P1123
『又如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し、恐恐謹言』

◇寸鉄 2018年2月11日
戸田先生の生誕日。悲惨の二字をなくす!恩師の闘魂継ぐ陣列は192カ国に
国際部結成の日。語学と人間力で世界を一つに!広布の伸展支える賢者よ
若者は実行と決意。やれば必ずできる—牧口先生勇敢に正義語り、壁破れ
子どもの育成自体が平和の為の仕事—博士。鳳雛に励ましを。未来部の日
「おれおれ詐欺」の被害が過去最悪。慌てず焦らず。振り込む前に家族に相談

☆御書と歩む� 第5回 広布の使命に胸を張れ
『諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり』(諫暁八幡抄、588ページ)

◇通解
(法華経の第5巻には)「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに法華経の行者を衛護する」(安楽行品第14、趣意)と説かれている。この経文の通りであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天王、帝釈天、日月、四天等が昼夜にこれを守護されるわけである。

◇同志への指針
妙法のために動けば、諸天も必ず動く。広布のために戦えば、諸天は断じて護る。これは、法華経の会座で諸天が誓いを立てたことだ。
今、全世界の青年が、平和と幸福のために真心の対話を広げている。諸天の守護が現れないわけがない。
若き地涌の男子部大学校生よ! 栄光の大道を、先頭に立って走りゆけ! 一人一人の勝利を祈り待っている。

☆藍よりも青く 「3・16」60周年へ走る 四国の若き友
◇魁光る人材の大城
本紙連載中の小説『新・人間革命』「勝ち鬨」の章では1981年(昭和56年)の「四国闘争」の歴史がつづられた。池田先生が反転攻勢の戦いを開始した徳島訪問から学会歌「紅の歌」の誕生に続く、師子のドラマである。
"志国"に脈打つ師弟の精神を受け継ぐ香川・高知・愛媛・徳島の青年部では、世界青年部総会に向け、"紅の朝を開くのは我ら!"との心意気で、対話拡大、参加確約の増加に奔走する。
このうち、各部が"壮男""婦女"の模範の団結で前進するのは、香川戸田県。香川東部に位置し、瀬戸内海に面した東かがわ市とさぬき市からなる同県は、香川でも高齢化や人口減少などが進む地域である。
鏡原力県男子部長は、こう語る。
「青年層が薄いという地域の実情はありますが、状況を嘆くだけでは変化は起こせません。若き日の池田先生を範とし、私たちが"必死の一人"になろう、と誓い合いました。そうした中で、壮年の先輩方が力を貸してくださるようになったのです」
一騎当千の自覚に燃える男子部と、信心の経験豊富な壮年部——両部ががっちりとスクラムを組んだ。綿密に打ち合わせを行い、男子部だけでは会えなかった部員を、家族に人脈のある壮年が担当するなどして、総会のチラシを手に訪問激励。
"参加は無理かも"と周囲が諦め掛けていた部員が、皆の励ましによって元気になり、一人また一人と総会の参加を約束してくれている。昨年は果たせなかった新規の大学校生を誕生させることもできた。
また、鏡原さんのもとに「うちの地域の未入会の2人の兄弟と対話してほしい」との連絡が。話を重ねるうちに仕事や進路の悩みを打ち明けてくれるようになった。
鏡原さんは自身の転職を勝ち取った信仰体験を語るなど、兄のように励まし、2人を入会に導くことができた。
さらに、ニュー・リーダーの男子部の友も、壮年部の大応援を受け、1月2日に大好きな祖父への弘教が実った。
◇◆◇
"栄光の年"の出発に当たり、四国女子部ではオリジナルの「サンフラワーシート」を作成。会合への参加や「池田華陽会御書30編」の読了などの活動者増に向けた人材育成の目標を婦人部と共有し、スクラム固く歩みを進める。
昨年、入会を決意する人が支部で1人以上誕生した香川戸田県女子部では、女子部1人につき、3人の婦人部が「祈り隊」「励まし隊」「勝たし隊」という応援隊を結成。人生経験豊かな先輩が温かく女子部の活動をサポートする。
2012年に入会した森下梓さん(華陽リーダー)も婦人部の励ましで変わった一人。人見知りで話すことが苦手だったが、地区の同志に支えられて学会活動に励む中で、明るく誰とでも話ができるように。その姿を間近で見てきた父が、「俺も信心すれば変われるのか?」と15年に入会した。
さらに昨年末、森下さんは婦人部の友と一緒に仏法対話に歩き、友人が入会を希望。自信をつかんだ森下さんは、さらに3人の友に対話を重ね、皆が入会を決意した。
森下さんは「婦人部の心強い応援のおかげで、勇気を持って対話することができました。私のことを、わがことのように喜んでくれる婦人部の皆さんと共に、今度は聖教の購読推進にも挑戦したい」とほほ笑む。
小倉綾乃さん(女子地区リーダー)は、16年に行われた「四国総会」の本会場に参加したことがきっかけで、積極的に活動に励むように。さらに同級生の女子部員が白蓮グループで輝いている姿を見て、「私もやりたい!」と昨年、同グループに入った。
白蓮での薫陶で成長した彼女は、支部婦人部長の母と共に祖父と対話。祖父は、生き生きとした孫の姿に胸打たれ、入会を決意した。
現在、小倉さんは大学3年生。来年の看護師国家試験を目指し、唱題根本に勉学に挑む。
本年は、四国の歌「我等の天地」発表から40周年の佳節。四国青年部は「友よ負けるな!」との師の叫びを命に刻み、各部一体で難攻不落の人材城を築こうと、誇り高く前進する。

2018年2月10日土曜日

2018.02.10 わが友に贈る

壁を破るのは
不撓不屈の執念と
粘り強い行動だ!
強盛な祈りを根本に
きょうも挑戦の一歩を!

千日尼御前御返事 P1312
『たすけんとする日蓮かへりて大怨敵とをもわるるゆへに女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上又佐渡の国へながされぬ』

◇寸鉄 2018年2月10日
宗教は人生の背骨である—牧口先生。絶対勝利の信心。自信満々に語ろう
御書「此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」。折伏こそ幸福の大道
B長・白ゆり長の奮闘に感謝!地域広布の開拓者よ伝統の2月を勝ち開け
平昌五輪が開幕!限界突破の熱戦に期待高まる。我らも今いる場所で金を
公明こそ命と教育の権利を守り抜いてきた党—識者。立党精神を胸に進め

☆虹を懸ける 池田先生と香港� 2018年1月29日
◇持続の信心で勝利の人生を
間もなく香港は「春節」(中国正月)のお祝いの時季を迎える。
今年の元日は、2月16日。一年で一番のにぎわいを見せる。
1979年2月、5年ぶり8度目となった香港訪問は、春節の祝日期間だった。
2月3日、池田先生は鹿児島から空路で香港へ。街は新年を寿ぐ文字や赤いランタンで彩られていた。
香港会館には、師の来訪を聞きつけた青年部や近隣の同志が集まっていた。
先生は会館に到着するや、居合わせたメンバーと庭で記念撮影を行い、仏間に移動して共に勤行を。そのまま懇談会となり、「持続の信心」の大切さを訴えている。
「生まれたばかりの子どもは、1週間や10日では大人にはならない。同様に、10年、20年と信・行・学の実践を続けるなかで、考えもしなかった幸福境涯が開けるものなんです」
さらにこの後、先生は各部代表者会議へ。九州指導を終えた直後にもかかわらず、激闘の疲れを見せることなく、香港の未来のために、初日から次々と手を打っていった。

◇体験を語ろう
翌4日午後、池田先生は香港広布18周年を祝賀する勤行会に出席(九龍会館)。スピーチを終え、ピアノを演奏すると、合唱を披露した男女青年部と記念のカメラに納まった。
夜には会場を移し、香港本部長会が行われている。
61年の初訪問の際、10世帯ほどのメンバーにより、最初の地区が結成された香港SGIは、18年の時を経て、5本部にまで拡大・発展していた。
先生は参加者の近況や意見を聞きながら、一人一人をねぎらい、励ましの言葉を贈っている。
�信心とは遠くではなく、身近にあるものである。ゆえにまず自分自身を磨くこと。家庭を盤石にすること。地域に貢献できる力を付けること。
�財物を得て感じる幸せには限りがあるが、信心によって勝ち得る幸せは、満足の深さが違う。
�信心を一生涯やり抜いた人は、人生の勝利者になる。
�地道な努力を積み重ね、本当に力あるリーダーに成長していただきたい。
�同志に対しては、わがきょうだい・家族のように親切にしてあげてほしい——と。
先生の指導を一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で耳を傾ける香港の友。その一人、李倫歓弟さん(香港副婦人部長)は当時、本部の婦人部長を務めていた。
入会は68年。5人の子を抱え、ミシン縫製の仕事をしながら、懸命に家計を支えていた時である。過労で肺を患うが、休むわけにもいかず、人生に疲れ果てていた。
そんなある日、ふとしたきっかけで13歳の少女と知り合う。
何気なく病気のことを口にすると、"私のお母さんも体が悪かったけれど、元気になったわよ"と。
聞けば、水上生活者であった彼女の一家は学会員だった。
後日、李さんは少女が暮らす船を訪ね、そこで初めて仏法に出合う。帰宅してからも、言われるままに題目を唱えた。
すると、気持ちが安らぎ、ぐっすりと眠れるように。仕事も軌道に乗り、体調面でも医師にかかる必要がなくなっていった。
入会後は、夫が部品製造工場を開業。当初は経営に四苦八苦するも、信心根本に夫婦二人三脚で取り組んだ結果、大口の注文が入るようになった。工場は現在、長男が後を継いでいる。
折々に師との出会いを刻んできた李さん。
「かつて先生が言われた指導が、心に深く残っています。『この信心で得られた自身の体験を、どんどん周りの人たちに語っていくのです』と。入会から50年、本当に幸せな人生になりました。これからも、この信仰の喜びを一人でも多くの人に伝えていきたい」
これまで実らせた弘教は18世帯。子どもたちも、孫たちも広布後継の人材へと育ち、世界に羽ばたいている。

◇必ず健康に!
2月5日は、次の目的地であるインドへ旅立つ日だった。
出発を前に、池田先生は時間をこじ開け、香港広布の功労者宅を訪問。その道中、九龍の大通りで、一人の青年を激励している。
彼の名は、周亜生さん(副本部長)。そのシーンを、先生は小説『新・人間革命』第29巻の「源流」の章につづった。
地下鉄工事の作業員として働いていた周さん。昼食を取るために地上に上がったところで、偶然にも先生一行と対面した。
この3年前に、妻の葉泳芬さん(本部副婦人部長)と結婚。家庭を持ったが、仕事が安定せず、経済的な苦境に立たされていた。
加えて、ぜんそくの持病を抱えていた周さんに、先生は「必ず健康になるんだよ!」と渾身の励ましを。思いがけない言葉に、胸が熱くなった。
だが翌年、ぜんそくの症状は悪化。医師からは、完治は難しいと宣告されてしまう。
それでも"先生との約束だ。絶対に病を克服してみせる!"と、周さん夫妻は決して諦めなかった。自行化他の題目を唱え抜き、学会活動に励む中で、少しずつ健康を取り戻していく。
さらには、信心の功徳で海運業に転職。世界一のコンテナターミナルでの仕事ぶりが認められ、会社の経営陣にも加わり、悠々たる境涯を築くことができた。3人の子も金鷹体操隊や紫荊鼓笛隊に入るなど、創価家族の輪の中で成長している。
周さん夫妻は誇らかに語る。「先生との出会いを原点に、健康と勝利の人生を開くことができました。感謝の心を忘れず、広布の大道を歩み続けます!」

◇親から子へ
11日間に及ぶインド訪問から、池田先生が再び香港に戻ったのは2月16日。4日後の帰国まで、数々の行事が予定されていた。
翌17日夜、香港中文大学の歓迎晩さん会に出席した後、宿舎で東南アジアの代表らを激励。翌日にも香港をはじめマレーシアやタイなどの同志と懇談し、"太陽の仏法を、太陽のごとく燃え上がる信心で、アジアの大地に燦々と輝かせよう"と呼び掛けた。
61年の平和旅以来、アジア広布の起点となってきた香港。働き口などを求めて、東南アジア等の国々からやって来る人も多い。
副総合婦人部長の郭許翌雲さんも、タイの出身である。華僑の父とタイ人の母との間に生まれ、日本語学校のクラスメートの紹介で信心に巡り合った。
草創のタイで女子部のリーダーとして活躍し、結婚を機に香港へ移り住んだのは、73年のこと。長年、香港在住のタイのメンバーを支えながら、婦人部の最前線を駆けてきた。
「女子部時代から、折あるごとに先生に励ましていただき、今日の私があります。タイの同志と共に香港にお迎えできた79年は、宝の思い出の一つです」
生涯現役の決意で、所願満足の人生をと誓う郭さん。長女の心心さんは香港青年部長。3月の世界青年部総会へ、若きスクラムを広げる。
先生が香港の同志に示した「持続の信心」は、親から子へ、世代から世代へ、確かに継承されている。

2018年2月9日金曜日

2018.02.09 わが友に贈る

わが地域の青年を
最大に励まそう!
新しい人を伸ばせば
新しい力が生まれる。
後継が輝く新時代を!

最蓮房御返事 P1343
『我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ』

◇寸鉄 2018年2月9日
池田博士は対話を通して価値を創る人—教育者。我らも触発の対話を更に
民音の日。人々の心潤す音楽の城。推進委員の皆様こそ大文化運動の旗手
本幹中継スタート。温かく友を迎える全役員に感謝!さあ二月闘争を加速
賢い人ほど、思想を表現する言葉は簡潔—文豪。信心の歓喜を真っすぐに
100歳超の長生きの人は好奇心旺盛で社交的—調査挑戦重ねる多宝の同志よ

☆池田先生ご夫妻のメッセージ 2018年2月2日
◇皆さんのスクラムが創価の希望
広布のトップランナーの誇りも高く、先駆を切って、ヤング・ミセスの集い、寒いなか、また忙しいところ、まことにご苦労さま!
生き生きと躍動する皆さん方のスクラムこそ、わが創価家族がいよいよ栄え光りゆく希望の象徴です。
妻がいつも褒めています。
「ヤング・ミセスの方々は、人生で一番あわただしく、一番めまぐるしい試練の年代に、本当によく頑張ってくれていますね」と。
二人して、皆さんに拍手を送っています。
日蓮大聖人は、いざという時に勇気ある信心を貫いてきた女性の日妙聖人に仰せになられました。
「青き事は藍より出でたれども・かさ(重)ぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり」(御書1221ページ)とお約束なのであります。
妙法こそ、絶対に行き詰まりのない「幸福勝利」の力です。
何があろうと、一つ一つ、必ず変毒為薬しながら、境涯を深めていくことができます。そして、一家も、友人も、縁する人々も、地域社会も、明るく温かく照らしていくことができるのです。これが信心です。
どうか、良き先輩や良き友と何でも励まし合い、支え合い、守り合いながら、「私たちの『誓願の題目』『自行化他の題目』が叶わないわけがない!」との大確信で、強く賢く朗らかに進んでいってください。
有名な「年は・わか(若)うなり福はかさなり候べし」(同1135ページ)との御聖訓は、今のヤング・ミセスの女性に贈られた御聖訓です。どうか、ますます若々しく、ますます福運に充ち満ちた幸と平和の連帯を、一人また一人と広げていっていただきたいのであります。
皆さんと私の命は題目で結ばれています。これからも、大切な皆さん一人一人に届けと、題目を送り続けていきます。
どうか、健康第一で! 風邪などひかれませんように!

☆笑顔咲くロマン総会 池田先生ご夫妻のメッセージ 2018年2月3日
すがすがしい希望の光に満ちたロマン総会、誠におめでとう!
世界192カ国・地域の創価家族も、皆さん方の福智のスクラムを喜び見つめ、讃えています。
私も妻も、皆さん方と一緒に楽しく語らう心で見守り、一人一人に届け! と題目を送っています。
日蓮大聖人は、女性の門下に仰せになりました。
「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり」「此の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成る」(御書1580ページ)と約束されているのであります。若くして、この大哲学を学び実践しゆく皆さん方は、わが生命を最も健やかに、最も美しく、最も気高く輝かせゆく太陽の女性です。
智慧と勇気の光を自分らしく放ちながら、家族も、友人も、地域も、社会も、照らし晴らしていくことができるのです。
ゆえに、たとえ思うようにいかなくとも、クヨクヨしたり、悲観したりする必要などありません。
皆さんには、どんなことも、たくましく乗り越えていける「変毒為薬」の妙法があります。そして、どんな時も明るく支えてくれる創価の笑顔の母たちのスクラムもついています。
どうか、素晴らしい宝の仲間と、素晴らしい「桜梅桃李」のロマンの青春を、伸び伸びと朗らかに進んでいってください。
何があっても負けない「人間革命」の幸福劇を創り広げていただきたいのであります。
私と妻は、皆さん方の健康とご一家の福徳を祈り続けていきます。
どうか、風邪などひかれませんように! 親孝行も忘れずに!
世界の宝の華陽姉妹に幸光れ!

2018年2月8日木曜日

2018.02.08 わが友に贈る

他人でも環境でもない。
わが一念の変革から
宿命転換の劇は始まる。
愚癡や悩みを祈りに変え
勇敢に! 朗らかに!

題目功徳御書 P1300
『功徳は先の功徳にたくらぶれば前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、先の功徳は一渧の水のごとし題目の功徳は大海のごとし、先の功徳は瓦礫のごとし題目の功徳は金銀のごとし、先の功徳は螢火のごとし題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり』

◇寸鉄 2018年2月8日
「金は・やけば真金となる」御聖訓。試練こそ飛躍のバネ。負けじ魂で挑め
沖縄の日。勝利また勝利の舞を今こそ!さあ歓喜に燃えて幸福楽土を建設
「情熱がなくては物事は動き出さない」戸田先生。幹部は広布の理想を語れ
2月は省エネ月間。ウォームビズで空調温度の調節など、賢き工夫で節電
低体温症の死者、大半が屋内の高齢者。孤立化も背景に。近隣の声掛けを

☆虹を懸ける 池田先生と香港② 2018年1月24日
◇仏法即生活の功徳の実証を
1974年、池田先生は2度にわたり、香港を訪れている。
1月27日には、約1000人の友との記念撮影会の後、66年に開館した香港会館へ。
翌28日には、香港広布13周年記念の集いが同会館で盛大に開催された。
この日は13年前、先生が香港を初訪問した日である。席上、先生は香港広布の第2期となる次の10年へ、三つの指針を示した。
「仏法即生活なれば、一人も漏れなく功徳の生活の実証を!」
「健康で価値ある日々を送るために真剣な勤行を!」
「21世紀を開く仏法哲理を心肝に染めるために教学の研鑽を!」
さらにこの後、会館の庭に移動し、記念植樹などを行った。
引き続き、祝賀会が催され、先生ご夫妻が中国服に着替えて登場すると、メンバーの喜びは頂点に――。
翌日以降も、先生は香港市政局公立図書館や香港大学、香港中文大学を相次ぎ表敬訪問し、文化・教育交流を大きく推進。世界広布の未来を展望し、前年に結成された「東南アジア仏教者文化会議」の第1回代表者会議にも出席している。

◇青年を育成
この間、池田先生は次代を託す青年の育成にも全力を注いだ。
張勝綿さん(副本部長)は役員として諸行事の運営に当たった。
同行中、先生と食事を共にする機会があった。その際に掛けられた「どんなにつらいことがあっても、歯を食いしばって頑張りなさい」との言葉は、一生の宝に。苦難に直面するたびに、この一言を思い出し、自らを鼓舞してきた。
父の大病を治したい一心で、63年に入会した張さん。やがて父は霊山へと旅立つが、その安らかな臨終の相に仏法の功力を確信し、男子部の一員として対話の最前線を駆けた。
先生との忘れ得ぬ出会いを刻んだ直後の74年8月には、香港男子部長に就任。若き陣列の構築へ、寸暇を惜しんで一人一人を励ましていった。

これまで、梱包資材の製造工場を営んできた張さん。壮年部となり、仕事と活動の両立は困難を極めたが、少しでも時間を見つけては同志のもとへ。先生から贈られた指針「仏法即生活」の実証を示そうと奮闘してきた。
その背中を見つめてきた2人の子は学会の庭で成長。幼い頃から会合に連れて歩いた長男・伸城さんは現在、香港男子部長に。長女・麗香さんも本部女子部長として活躍し、師弟の信心が脈々と受け継がれている。
今年で入会55年。今再び、張さんは誓う。
「常に目の前の一人を大切にされてきた先生の振る舞いを模範とし、使命の人生を歩み続けます」

◇力を付けるのだ
陳萍生さん(副理事長)もまた、役員として池田先生の激励行を目に焼き付けた。
入会は69年。ベトナム戦争が泥沼化し、中国では文化大革命が起きるなど、国際情勢は混迷を極めていた。
「武力による革命ではなく、人間の内面を変革するという哲学に強く共鳴したのを覚えています」。何より、世界平和のために命懸けで行動を続ける池田先生という存在に、深い感銘を受けた。
良き先輩や仲間にも恵まれ、信心を始めた直後から男子部の活動に参加。香港広布にまい進する中、張さんの後任として男子部長に任命された。

実は陳さんには、一つの夢があった。経済的な理由で一度は断念した大学進学である。
「"青年は学び、力を付けるのだ"との先生の言葉に触れ、その思いは日に日に強くなっていきました」
それ以上に、自分も日本語を習得し、御書や先生の指導を香港の同志に伝えるお役に立ちたい――その情熱が陳さんを動かした。
仕事と学会活動の合間を縫って日本語学校へ通い、やがて創価大学に13期生として入学を果たす。アルバイトをしながら、経済学部で懸命に学び抜いた。
香港に戻った後は、香港SGIの出版活動の中心者に。機関紙誌の編集、教学著作や先生の指導の翻訳・発刊をリードしてきた。
妻の美代子さん(本部副婦人部長)は創大の通信教育部を卒業。不屈の信心でがんを乗り越えることができた体験を語り、病院で知り合った患者親子を折伏。昨年末に入会に導くことができた。
長女の美香さんは、香港創価幼稚園の3期生。東京・創価学園、創大で学び、香港へUターン。人材派遣会社に勤めながら、女子部の部長として幸福のスクラムを広げる。

◇必ず幸せに
74年の2回目の訪問は、中国に第一歩をしるした、5月から6月にかけてである。
池田先生は歴史的な初訪中へ、香港から出発した(5月30日)。
当時は、日本と中国を結ぶ直行便がなく、香港から列車を乗り継ぎ、境界線の鉄橋を歩いて深圳へ。
そして17日間の友好の旅路を終えると、再び香港に戻ったのである(6月15日)。
後年、先生は長編詩「『栄光の都市』香港の旭日」で詠んだ。

初の中国の訪問――
私は あなたたちに送られ
羅湖から徒歩で国境を渡って
深圳に入った
香港の友の明日を思いながら
中国の大地を踏んだのだ
帰途 上水の駅のホームで
手を振って私を迎えてくれた
香港の同志の笑顔を
私は 決して忘れない

柳楊若珍さん(副総合婦人部長)も、その場に居合わせた一人だ。
「羅湖駅の一つ前の上水駅で先生にお会いした感動は、鮮やかに記憶しています。香港と中国の繁栄を願い、"金の橋"を架けてくださった師匠に感謝の思いは尽きません」
折々に先生の激闘を目の当たりにしてきた柳さん。草創の女子部長だった時代には、代表と一緒に先生との懇談の場が持たれた。
「香港女子部は必ず幸せになりなさい。もしも君たちが不幸になることがあったら、私はとても悲しい」。この先生の心を、柳さんは後継の乙女たちに語り継いでいる。
結婚後も、婦人部の第一線で学会活動に奔走。幼子を抱えながら自宅から離れた香港島や、離島の長洲島のメンバーのところへも足を運んだ。
その胸にいつも輝いていたのは、命を削って同志を激励し続ける師匠の姿だった。
長女の聖子さんは、香港副女子部長に。25カ国・地域の友が所属する英語本部の女子部長でもある。長男の伸彦さんは、日本人を中心とする日語本部で副男子部長を務める。
東京出身で、香港中文大学の卒業生である夫の光彦さん(副理事長)と共に、柳さんは師弟誓願の世界広布に生涯を懸ける。

2018年2月7日水曜日

2018.02.07 わが友に贈る

「いかなる病
さはりをなすべきや」
題目の師子吼こそ
病魔を打ち払う力だ。
強き祈りで変毒為薬を!

十法界明因果抄 P430
『常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて下視が如し而も外には仁義礼智信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり』

◇寸鉄 2018年2月7日
SGIには地に足の着いた思想と生き方がある—博士。信心は実践に脈動
男子部大学校生が弘教に大挑戦!"誉れの1期生"の誇り胸に拡大の先陣を
釈尊は「自分から語り掛ける人」仏典。心軽やかに動き、励ましの対話へ
平和の術を教えるのは女性の使命—偉人。192カ国に輝く創価の婦女の連帯
除雪時の事故多し。雪下ろしは命綱、複数人での作業が大事。安全最優先

☆藍よりも青く 「3・16」60周年へ走る 東北の若き友
◇福光の勝ち鬨を轟かせる
「先生と共に戦い、先生のもとに集う!」
3月に開催される「世界青年部総会」に向けて、東北が掲げたテーマである。
決して青年だけのテーマではない。壮年も、婦人も同じ心意気で進んでいる。
今月からは毎週の地区協議会を「青年拡大会議」として、各部一体の取り組みをスタート。リーダー率先で訪問激励に走る。
東北家族の一体感を生むため、ツールにも工夫をこらす。活躍メンバーを共有する「東北家族メール」や、拡大の状況を"見える化"する「勝ち鬨カウンター」などを活用している。
東北の友は、今回の総会で「2万」の青年・未来部の結集と、かつてない弘教拡大を目指す。
町田東北青年部長は、その意気込みを語る。
「学会の永遠性を確立する今この『時』に、東北青年部の一人一人と、池田先生の絆を強める機会にしていきます。そのために、リーダー一人一人が総会に参加する意義を深め、自らの言葉で、その思いを語り抜いていきます」
先月から東北の方面リーダーは、小説『人間革命』第12巻「後継」の章などを学び、毎週のように語り合っては、その意義と思いを深めてきた。その熱は今、東北全土に広がっている。
「10年後、20年後に"あの時、歴史的な会合に集って良かった""必ず意味がある"と思える日がくる」——青森・五所川原圏の小田桐卓也さん(圏男子部長)は雪道を踏みしめてメンバーに語り歩く日々だ。
そんな小田桐さんの原点は学会活動に懸命に走り、池田先生の指針を学び、仕事の苦境を乗り越えたこと。その折、"どんな苦難にも、全てに意味がある"ことを心に刻んだ。
その確信があるからこそ小田桐さんの言葉には力がみなぎるのだ。同圏では、本年に入って、創価班大学校生をはじめ3人が弘教を達成。小田桐さんは「皆で"勝ちました!"と胸を張れる挑戦を開始します」と決意する。
福島・郡山南圏の女子部では、婦人部や女子部の先輩からの温かな励ましによって、弘教を実らせる若き友が誕生。上原弘美さん(圏女子部長)は語る。
「私は女子部になった頃は、誘われるままに会合に参加するだけでした。でも先輩たちの真剣な姿を見るたびに、気持ちが変化しました。私も"師を求めていこう"と決めました。そう決めて行動し続けた時、成長を実感できたのです」
上原さんは今、ありのままの思いをメンバーに語っている。また、リーダー率先で弘教にも挑戦。友人と一緒に教学を学んでいる。
「池田先生が"心から楽しみにしている"とつづってくださった世界青年部総会。私たち一人一人が、悩みに負けずに立ち上がり、対話に挑戦して勝利の姿で総会を迎えます」
◇◆◇
歴史的な世界青年部総会が開催される「3月」で、東日本大震災から7年となる。ゆえに、東北家族の"思い"は一段と強い。
震災直後、池田先生から贈られた指針は、今も友の心に脈打っている。
「最も大きな難を受けた東北が、最も勝ち栄えていくことこそが、広宣流布の総仕上げだ」と。
さらに、震災から2年後の2013年3月11日、池田先生はこう詠み贈った。
「この一生 東北家族と 総仕上げ」
友は、何度も涙を拭いながら、眼前の課題を乗り越え、前進してきた。池田先生と共に、広布の"総仕上げ"を果たすために——。
そして、毎年巡り来る「3月」を常に"日本一"の拡大で荘厳してきたのである。
世界青年部総会へ、東北家族は、福光の"勝ち鬨"を堂々と轟かせていく!

☆藍よりも青く 「3・16」60周年へ走る 北海道の若き友 2018年1月25日
◇一人も漏れなく人材に
3月の「世界青年部総会」を目指し、新しい人材による"新たな拡大"に焦点を当て、「支部2」の弘教に挑む北海道男子部。中でも力を入れているのが「男子部大学校」1期生の輩出だ。
すでに、昨年の創価班・牙城会大学校の2・5倍を超えるメンバーが入校を決意。近年最高の輩出数となる見込みだ。
全道屈指の結果を残しているのが大空知総県。全国でも特に過疎化が進む地域だが、「新たな人材を生み出す原動力は、壮年部・婦人部と一体でメンバーを激励していることです」と古川健一総県男子部長は語る。
きっかけとなったのは、昨年4月の北海道の創価青年大会。広大な総県内に点在する男子部員を、仕事や家庭、各種役員の任務など、多忙を極める男子部のリーダーだけで把握し、激励することは困難だった。
"わが地域の後継の男子部を、一人でも多く大会に集わせてあげたい"——男子部とともに、壮年部・婦人部の"先輩たち"が一肌脱いだ。その結果、4割に迫るメンバーが青年大会に参加することができた。その後も、男子部員を各部で応援することが定着。壮年部・婦人部が激励を重ねた友を男子部のリーダーにつなげ、人材育成する流れが確立したのだ。
男子部の会合にも壮年部員が駆け付け、人生経験豊かな先輩が若き友を励ます光景は日常となっている。
こうした壮年部・婦人部の力強い支えにより、大空知総県では、昨年の4倍を超す友が大学校への入校を決意したのだ。
芦別王者圏の荒川淳一さんは、口腔の病に悩み、昨年4月、職場の上司である婦人部の紹介で入会。病気のためうまく話せず、引っ込み思案だった彼が、学会家族の励ましで日増しに明るく変わっていった。
"信心を実践する中でもっと成長したい!"と大学校への入校を決意。若者の少ない地で青年が一人立ったことに、喜びの波動は圏全体に拡大し、新たな友の育成に勢いが増している。
今月のロマン総会や、全道各地で開かれる来月の「青年主張大会」への取り組みを通し、華陽姉妹が陸続と誕生している北海道女子部。
中でも、"日本一"の弘教を誓い、2016年、17年と目標の弘教を成就するなど、オホーツク県女子部(大畑淳子女子部長)は希望のスクラムを大きく広げる。
特に昨年は、一昨年の2倍となる御本尊流布を成し遂げ、全道をけん引した。
池田先生は、かつてオホーツク県の友にこう詠み贈った。
「オホーツクに 春は来たれり 広宣の 一人ももれなく 功徳の花咲け」
一人ももれなく——師匠が示したこの精神を体現しようと、各部が一体となって青年部を育むことが、同県の誇り高き伝統となっている。
女子部の躍進の要因もまた、婦人部が徹底して女子部に関わる一体の取り組みにあった。
メンバー一人一人に対して、「幸福責任者」を設定。婦人部と女子部の友が手分けをして、全女子部員に激励の手が届くよう努めている。
時には、婦人部のリーダーが、あまり活動に参加できていない女子部員の母親らと心を通わせ、その女子部員に寄り添う励ましが送れるよう尽力。その状況を女子部のリーダーと共有し、"婦女一体"で激励している。
各部の友の祈りと綿密な連携により、北見牧口県・留辺蘂支部では、昨年の1月、"訪問ロマン総会"を含めて、全女子部員がロマン総会に参加することができた。
網走戸田県の石川結衣香さんは、こうした"婦女一体"の励ましによって立ち上がった一人。昨年、体調を崩し、精神的にも追い詰められた。
「頑張っているからこそ悩みが出るんだよ。今が宿命転換できるチャンスだよ」——母をはじめ同志の励ましに、石川さんは奮起した。
昨年8月、自宅に御本尊を御安置し、唱題に挑戦。祈るほどに、全てを乗り越えていけることを実感して、華陽リーダーの任命も受けた。
さらに、親友への仏法対話にも挑戦。本年の新年勤行会では受付の役員を務めた。「私が変われたのは家族や婦人部、女子部の先輩方のおかげです。さらに成長し、広布のお役に立つ人材に成長したい」と石川さんは声を弾ませる。
一人を大切にする中にしか、広宣流布の拡大はない。各部一体の取り組みで、北海の天地に一人、また一人と使命に燃え立つ地涌の若人が躍り出ている。

2018.02.06 わが友に贈る

人材を育てる人が
広布の大人材だ。
自らが一人立てば
「二人・三人・百人と」
共戦の同志は続く!

佐渡御書 P957
『正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず』

◇寸鉄 2018年2月6日
関西で幹部会。圧倒的な拡大で飾った友の笑顔!常勝の人生は明るく痛快
会長は身近な人との対話から平和を構築—教授。我らも地域の絆を強固に
青年ならば新しい勝利の道をつくれ—戸田先生。さあ金字塔築く二月闘争
褒められたい社員8割。一方、褒めぬ上司6割と。励ましこそ時代が求む力
列島に寒波襲来。吹雪や雪崩、凍結路に注意。幹部は全同志の無事故を祈念

☆アルカラ大学「名誉博士号」授与式での池田先生の謝辞 2018年1月28日(375番目)
◇「民衆の大地」を潤してこそ大学
◇市民の熱誠が守り抜いた学舎 仰ぎ見る500年の栄光
一、尊敬するフェルナンド・ガルバン学長はじめ諸先生方、また水上正史駐スペイン大使、ご列席の皆さま方、誠にありがとうございます。
人類の至宝と輝く知性の大殿堂より、名誉教育学博士号を賜り、これほどの誉れはございません。
この栄誉を、私は、日本の軍国主義と対峙して獄死した「創価教育」の創始者・牧口常三郎先生に捧げさせていただくとともに、その平和と人道の哲学を継承しゆく、スペインをはじめ世界192カ国・地域の宝友たちと分かち合わせていただきます。
一、一滴の水は、大河の流れに連なることによって不滅の命を宿します。
それと同じように、かけがえのない一人一人の若き生命が人類の悠久なる智慧の流れに連なり、未来へ向かって無窮の価値創造の力を発揮できる「文化と精神の大河」が、大学ではないでしょうか。
大学という大河は、「民衆の大地」を潤し、市民の幸福へ貢献しゆく中でこそ、最も尊く、最も広く、最も永続する流れとなるものでありましょう。
そして、幾多の黄金の人材群を500年以上にわたって滔々と育成してこられた栄光の大河こそ、貴・アルカラ大学なのであります。
19世紀半ば、貴大学が移転を余儀なくされた際、アルカラ・デ・エナーレス市の市民は一致団結して立ち上がり、愛する学舎を守り抜きました。民衆の熱誠が厳護し、築き上げてきた、この大学都市が栄えある世界遺産と選定されていることも、教育史に輝き光る金字塔であります。また、世界市民教育の壮大な友情のネットワークを積極果敢に結び広げておられます。
民衆立の大学として誕生し、「大学に行けなかった人のために尽くす大学」を標榜して、地元・八王子市の市民とご一緒に50年を迎えんとする、わが創価大学にとって、まさしく貴大学は仰ぎ見る希望と勇気の指標であります。
世界の大学の大河が幾重にも融合して、英知と良識と創造力の大海原へと流れ注ぎゆくところに、人類に立ちはだかる試練を乗り越え、新たな平和と共生の地球文明を創出することができる——私は、この信条を胸に、教育交流に尽力してきた一人であります。
一、「友情は魂の中の魂である」とは、貴大学に学んだ劇作家ロペ・デ・ベガの箴言であります。
本日、光栄にも、貴大学の至高の友情の陣列に連ならせていただいた大恩にお応えするためにも、私自身、創造的世界市民を育成しゆく人間教育の大河を、さらに流れ通わせていく決心であります。
結びに、貴大学のいよいよの栄光、そして本日ご列席の皆さま方のますますのご健勝を、心よりお祈り申し上げ、私の謝辞とさせていただきます。
ムーチャス・グラシアス!(スペイン語で「大変にありがとうございました!」)(大拍手)

☆世界写真紀行 第29回 イタリア・ミラノ スフォルツァ城
◇生命の「根」を強く深く
この堂々たる存在感は、無数の石材を積み上げた堅固さによるものだけではないだろう。数百年の風雪を経たからこそ、どっしりとした風格を備えているように思えてならない。
イタリア・ミラノにあるルネサンス期最大の宮殿・スフォルツァ城。
15世紀の建設以来、歴史の興亡の中で、破壊と修復が繰り返されてきた。現在は、ミラノ市の市立博物館として、重要な歴史的・文化的遺産が展示されている。
1994年6月、2年ぶりにイタリアを訪問した池田先生は、ミラノのスフォルツァ城へ。ミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」像など、数々の展示物を鑑賞する中、「アッセの間」と呼ばれる部屋に足を踏み入れた。
そこには、壁から天井に至るまで、大きく描かれた桑の大樹の絵が。天井で枝とツタがからみ合っている。イタリア・ルネサンスの"万能の天才"レオナルド・ダ・ビンチの作品だった。
とりわけ池田先生が注目したのは、樹木の根の部分。岩に入り込んで伸びる様子が、克明に描写されていた。
先生は後に述べている。
「普通、樹木を描いても、根までは描かない。しかし、レオナルドは、根に着目し、全部、描いていた。忘れられない光景である」
スフォルツァ城を訪問した翌日、先生は、SGIのヨーロッパ・アジア交流会議でスピーチ。根を描いたダ・ビンチの観察眼に触れ、次のように語った。
「『根』は見えない。しかし全体を支えている。人間にも『根』がある。組織・団体にも『根』がある。社会にも、文明にも、宗教にも『根』がある。『根』が深ければ、『枝』は茂る。天に向かって、大きく伸びていける。多くの人々は、目に見える部分にしか注目しない。しかし、私どもは、何ごとも、どこに『根』があるかに着目し、よき『根』を養い、育てることに全力を尽くさねばならない」
先生のミラノ訪問は、これまでに4度(65年、81年、92年、94年)。要人との会見や記念行事への出席などで多忙を極める中、広布を陰で支えるメンバーに、渾身の励ましを送ってきた。
さらに、ホテルのドアボーイや車の運転手など、出会った一人一人に対しても、真心の言葉を忘れなかった。
そうした振る舞いを目の当たりにしたイタリアの友は、師に続くように、平和と友情の対話を重ねた。
また「現代世界の人権」展や「核兵器廃絶への挑戦」展の開催等を通し、人間主義の哲学を発信してきた。一昨年には、イタリア共和国政府とイタリア創価学会仏教協会の間でインテーサ(宗教協約)が発効。SGIに対する社会の信頼は揺るぎない。
2014年1月には、ミラノ池田平和文化会館がオープン。本年は、2万人の青年の陣列を目指して、勢いよく前進している。
根というものは、一朝一夕には育たない。種を蒔いたら水をやり、時には肥料を与え、見守り続けていく。
このたゆまぬ労作業は、信心の実践にも通じよう。朝晩の勤行・唱題は、自身の生命の根を成長させゆくためにある。友への励ましは、雑草を払い、清らかな信心の水を通わせることともいえる。
"華々しい舞台"で、強い根は育たない。人の見ていないところで、どこまで努力を重ねられるか。人材育成も焦らず、しかし励ましを絶やしてはならない。
強く深い根を持つ人は、どんな嵐にも揺るがぬ大樹となる。自他共の勝利へ、生命の「根」を鍛える新しい挑戦を開始したい。

2018年2月5日月曜日

2018.02.05 わが友に贈る

新聞休刊日

蒙古使御書 P1473
『所詮万法は己心に収まりて一塵もかけず九山八海も我が身に備わりて日月衆星も己心にあり』

☆第43回「SGIの日」記念提言(下)2 「人権の世紀へ 民衆の大河」
◇国連が採択目指す二つの国際枠組み
次に第二のテーマとして、人権に関する具体的な提案を行いたいと思います。
まず提起したいのは、難民と移民の子どもたちを巡る状況の改善です。
国連では現在、グローバル・コンパクトと呼ばれる難民と移民に関する二つの国際枠組みの年内の採択が目指されています。
私は、このグローバル・コンパクトにおいて、すべての項目を貫く原則として人権を掲げた上で、重点課題の一つとして「子どもたちの教育機会の確保」を各国共通の誓約にすることを、強く呼び掛けたい。
現在、難民や国内避難民などの数は、世界全体で6560万人に達し、難民の半数は子どもたちが占めています。
移民の子どもたちの多くも、移民全体に対する偏見や差別の影響で厳しい状況に置かれています。
特に深刻なのは、保護者から離れて各地を移動する子どもたちの状況であり、ユニセフ(国連児童基金)が昨年発表した報告書によると、2010年以降、その数は約5倍に増加し、80カ国で約30万人に及んでいるといいます。
ユニセフの報告書の題名が「子どもは子ども」となっているように、難民や移民といった境遇の違いに関係なく、すべての子どもの権利と尊厳は等しく守らなければならないというのが、世界人権宣言と子どもの権利条約の根本理念ではないでしょうか。
2年前の「難民と移民に関する国連サミット」で合意されたニューヨーク宣言で言及されていたのも、子どもを取り巻く状況の改善の重要性でした。
宣言では、「子どもの最善の利益に常に主要な考慮を与えつつ、その地位に関わりなく、全ての難民と移民の子どもの人権と基本的自由を保護する」とうたっています。また、具体的な政策課題として、「全ての子どもが、到着から数か月以内に教育を受けることを確実にする」との決意が記されていました(国連広報センターのウェブサイト)。
私は、これを決意に終わらせることなく、難民と移民に関する二つのグローバル・コンパクトで、教育機会の確保を各国が政策に反映することを共に約束した上で、受け入れが少ない国は、受け入れが多い国をさまざまな形で支援する体制を整えるべきではないかと訴えたいのです。
ニューヨーク宣言が強調する通り、教育の機会を得ることは、厳しい状況下にある子どもへの基本的な保護となるだけでなく、若い世代の心に「未来に対する希望」を灯すものになっていくに違いありません。

◇シリアから逃れた水泳選手の言葉
昨年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使に就任した、シリア出身の水泳選手ユスラ・マルディニさんは語っています(UNHCR駐日事務所のウェブサイト)。
「食べ物によって空腹が満たされ、難民が救われることはあります。しかし、人として生きぬくためには、その心が満たされなければなりません」
彼女は戦場となった母国から逃れ、トルコ経由でギリシャに海路で向かう途中、ボートが故障したため、姉と一緒に海に飛び込み、2人で泳いでボートを数時間押し続けて、同乗していた20人の命を助けました。
その後、たどり着いたドイツで水泳の練習を重ねる中、リオデジャネイロでのオリンピックに難民選手団の一員として出場を果たしたのです。現在は、ドイツで教育を受けながら、2020年の東京オリンピックへの出場を目指し、トレーニングを続けています。
マルディニさんは「難民は過酷な状況を体験した普通の人であり、チャンスさえ得られれば何かを成し遂げることができるというメッセージを今後も広めていきたい」と述べています。
その何よりのチャンスとなるのが教育であると、私は強調したいのです。
また、教育によって灯される「未来に対する希望」が、受け入れ地域の子どもたちの間にも広がり、"共生の心"を力強く育む流れへとつながっていくことを期待してやみません。
この点、ICANのフィン事務局長が語っていた言葉が胸に残りました。
「私は移民が多い地域で育ちました。7歳の時に、突然、学校にバルカン諸国の生徒が大勢入ってきたのを覚えています。全員がたいへんな経験をしていました」
「干ばつを逃れて親がソマリアからやってきたという友だちもいました。彼らと出会い、彼らの話を聞き、それを実際に体験した彼らの親に会ったりすることで、外国の紛争や危機が、ある意味、身近なものになったのです」(NHKのウェブサイト)
このようにフィン事務局長にとって、母国スウェーデンで世界各地から来た難民や移民の子どもたちと接した経験が、その後、地球的な課題に取り組むNGOの活動に身を投じるきっかけになったというのです。
UNHCRでも、各国の教育制度への受け入れの拡大を呼び掛けていますが、子どもたち同士の関係を通し、家族を含めて地域社会での交流を持続的に深めていくことの意義は大きいのではないでしょうか。
また、学校以外にも、難民の子どもたちに学習機会を提供するノンフォーマル教育の場が重要な役割を担っており、SGIとしても、こうした教育への支援の輪を他団体と協力しながら広げていきたいと考えるものです。

◇60歳以上の人口が世界で9億人に
続いて、現代社会の焦眉の課題として高齢者の人権に関する提案を行いたい。
国連によると、現在、60歳以上の人口は世界で9億人に達し、2030年には14億人になると予測されています。先進国を中心に少子高齢化が進む中、社会の急激な構造変化にどう対応するかが、多くの国で課題になっているのです。
昨年7月、国連で行われた「高齢化に関する公開作業部会」でも、このテーマを巡って議論が交わされました。
そこでは、世界人権宣言に「全ての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である」とあるにもかかわらず、高齢者は生産性が乏しく社会的にも価値が低く、経済や若い世代の負担になるといった否定的な見方などがあるために、人権の享受が年齢とともに厳しくなっているのは明らかだとして、次のような問題提起がされました。
高齢者の排除と差別につながる、こうした構造的な高齢者への差別や偏見をなくすために闘わなければならない——と。
そもそも高齢者の権利保護の重要性は、70年前、世界人権宣言が採択される直前に、アルゼンチンが提出した国連総会の決議で強調されていたものでした。しかし長い間、各国の関心は高まらず、1982年にウィーンで行われた第1回「高齢化世界会議」を機に国際的な議論が進められるようになったのです。
その成果として91年に、「高齢者のための国連原則」として、独立、参加、ケア、自己実現、尊厳、の5項目が定められました。
重要だと思うのは、一人一人の意思を尊重する「独立」をはじめ、健康や生活面での保護を求める「ケア」や、差別や虐待から守る「尊厳」を、高齢者の人権の中核に据えながらも、それだけでは完結していない点です。
以前、ローマクラブ共同会長のエルンスト・U・フォン・ヴァイツゼッカー博士と、高齢者の生きがいについて語り合ったことがあります(『地球革命への挑戦』潮出版社)。
その中で博士は、自らの経験を通しながら、働き続けたいと願う高齢者のために社会環境を整えることは、社会全体にとっても良い結果をもたらすと強調していました。
私も同感であり、仕事に限らず、人々や社会のために何かをすることができたという日々の実感が、喜びと充実感につながるのではないかと述べました。
国連原則の残りの二つの「参加」と「自己実現」は、まさに高齢者の生きがいという面で欠くことのできない要素だと思えてならないのです。
人間の尊厳にとって"周囲から大切にされること"はもとより重要ですが、"自分の存在が他の人々にとって、かけがえのない心の拠り所として受け止められること"を通し、尊厳はその輝きをより増していくのではないでしょうか。
そして、その人間同士のつながりの重みは、病気になったり、介護される身になった時でも、決して変わるものではありません。
自分が今この場所で生きていること自体に、幸せや喜びを感じてくれる人が周囲にいることが、尊厳の源になるのです。
創価学会が3年前から開催してきた「平和の文化と希望展」でも、このテーマに焦点を当ててきました。
ともすれば、老いに対する社会のイメージが否定的になりがちであることを踏まえ、子どもたちや社会のために活躍する高齢者の姿を紹介しながら、高齢者の豊かな体験と知恵が生かされる社会と「平和の文化」の構築を呼び掛ける内容となっています。

◇女性のエンパワーメントで「持続可能な開発目標」を促進
2002年の第2回「高齢化世界会議」で打ち出され、昨年の国連の公開作業部会でも強調されたように、高齢者の人権を守る取り組みは、すべての年齢の人々を大切にし、いかなる差別も許さない人権文化の土壌を育むことにつながるものです。
そこで私は、公開作業部会でも議論された「高齢者人権条約」の制定に向けて交渉を早期に開始することを強く訴えたい。そして、世界で最も高齢化率が高い日本で、第3回「高齢化世界会議」を開催することを提唱したいと思います。
第2回の世界会議で合意された政治宣言と行動計画では、高齢者の経験は思いやりのある社会を築くための財産であり、高齢者は地域での日常的な役割だけでなく、災害などの緊急事態からの復興と再建で積極的な貢献を果たせることが強調されていました。
そのことは、東日本大震災からの復興に取り組む日本でも実感されてきた点であり、国連の会議で3年前に採択された「仙台防災枠組」では、社会の防災力を高めるために高齢者の参加が欠かせないことが明記されたところです。
「高齢者人権条約」の制定にあたっては、国連原則に基づく権利保護を確立するとともに、「エイジング・イン・プレイス」と呼ばれる"高齢者が住み慣れた地域で、生きがいと尊厳をもって生き続けられるために何が必要か"との点に立脚した規定を盛り込むべきではないでしょうか。

◇「多宝」の名称に込められた思い
私どもSGIでも、信仰に基づく活動の根幹として「体験談運動」を通し、さまざまな困難や課題を乗り越えた人生の物語を共有する場を積極的に設けてきました。
体験の重みに裏付けられた、その人でなければ語ることのできない言葉によって、多くの高齢者が、後に続く世代の人たちの心に勇気と希望を灯し続けてきたのです。
私が創価学会の高齢者のグループに「多宝会」という名前を贈ったのは、「高齢者のための国連原則」が採択される3年前(1988年)のことでした。
「多宝」の名称は、釈尊が説いた"万人の尊厳"の思想が真実であることを証明する存在として、法華経に登場する多宝如来に由来するものです。法華経では、世界の宝を集めたような宝塔が出現する場面がありますが、その中から現れるのが多宝如来なのです。
私は、そうした意義を込め、信仰と人生の年輪を重ねてきた大切な同志のグループに、「多宝会」の名前を贈りました。
以来、多宝会のほかに宝寿会や錦宝会が結成され、ドイツでは「ゴールデナー・ヘルプスト」(錦秋会)、オーストラリアでは「ダイヤモンドグループ」などのグループがありますが、高齢者の同志は信仰の面でも社会的な面でも"宝"の存在となっているのです。
人間が生きる上で避けて通れない「生老病死」の悩みを乗り越えてきた信仰の息吹を語ってきたのも、戦争体験や被爆証言などを通してSGIの「平和運動の精神の継承」でかけがえのない役割を担ってきたのも、地域の歴史や人々のつながりを深く知り、「災害からの復興」において励まし合いの輪を支えてきたのも、高齢者の同志でした。
今後もSGIとして体験談運動をはじめ、戦争と災害の教訓を語り継ぐ活動に力を入れるとともに、他のFBO(信仰を基盤にした団体)と協力してシンポジウムなどを開催しながら、高齢者の人権と尊厳を守る社会の潮流を高めていきたいと思います。

◇多くの都市がパリ協定を支援
最後に第三のテーマとして、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みを加速させるための提案をしたい。
SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。
脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです。
近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。
温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。
パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。
発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます。
温暖化の防止はもとより難題ですが、私が大きな希望を感じるのは、各国の自治体の間で意欲的な動きが広がっていることです。
例えば、全米市長会議は「各都市の調達電力を2035年までに全て再生可能エネルギーにする」との決議を行っています。
また、フランスのパリで2030年以降に市内を走行できる自動車を電気自動車に限定する計画があるほか、スウェーデンのストックホルムは2040年までの化石燃料の使用廃止を目指しています。
昨年6月には、世界の140に及ぶ大都市の市長が集まった総会で、国際的な政治状況に左右されることなく、都市がパリ協定の実施に率先して取り組むことを約束するモントリオール宣言が発表されました。
このように、共通のリスクでありながらも、国益がぶつかり合う課題において、多くの自治体が"パリ協定を後押しすることは、自分たちの住む地域を守ることにつながる"との意識を持って、積極的な行動に踏み出しているのです。
自治体同士の経験を共有しようとする動きも始まっており、ヨーロッパでは、ドイツの主導で気候保全をテーマにした都市交流が進められることになりました。
温室効果ガスの排出量が多い北東アジアでも、同様の連携を強めることが急務ではないでしょうか。そこで私は、合計で世界の排出量の約3割を占める日本と中国が連携し、「気候保全のための日中環境自治体ネットワーク」の形成を目指すことを提唱したい。
日本では、環境未来都市と環境モデル都市に指定された自治体を中心に、温暖化防止の対策が積極的に行われてきました。中国でも、太陽光発電の導入量が世界一になるなど、多くの地域で再生可能エネルギーの導入が進んでいます。
ネットワークづくりにあたっては、まず手始めに、国連が3年前に立ち上げた気候中立のイニシアチブ=注5=に、温暖化防止に意欲的に取り組んできた日本と中国の自治体が登録していく方法もあると思います。
すでに東京都と北京市、神戸市と天津市、北九州市と大連市といったように、環境分野での自治体提携の実績もあります。そうした自治体同士の経験の共有や技術協力などを日中両国で積み重ねる中で、自治体協力の輪を他の北東アジア諸国の間にも広げていってはどうでしょうか。

◇大学の提携や青年交流が拡大
今や両国の人的往来は年間で約900万人に達し、自治体の姉妹提携の数も363にのぼります。
私が日中国交正常化の提言をしたのは50年前(1968年9月)でしたが、当時は貿易の継続さえ危ぶまれたほどの険悪な状態で、日中友好を口にするだけでも厳しい批判にさらされただけに隔世の感があります。
1万数千人の学生たちが集まった総会で、私は呼び掛けました。
「国交正常化のためには、それに付随して解決されなければならない問題がたくさんある」「これらは、いずれも複雑で困難な問題であり、日中両国の相互理解と深い信頼、また、何よりも、平和への共通の願望なくしては解決できない問題である」
「国家、民族は、国際社会のなかで、かつてのように利益のみを追求する集団であってはならない。広く国際的視野に立って、平和のため、繁栄のため、文化の発展・進歩のために、進んで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある民族といえるのである」と。
この50年間で、日本にとって中国は最大の貿易国となり、中国にとっても日本はアメリカに次ぐ2番目の貿易国となりました。
日本の大学の間で最大の提携先となっているのも、中国の大学です。
私が創立した創価大学は、国交正常化後の1975年に、中国からの国費留学生を初めて受け入れた日本の大学となりましたが、現在では、両国の大学の交流協定は4400を超えるまで拡大しています。
日中平和友好条約の締結の翌年(79年)からは青年親善交流事業が始まり、若い世代が友好を深める機会が設けられてきました。
創価学会でも、79年に青年部の訪中団を派遣して以来、青年同士の往来が続いており、85年には中華全国青年連合会(全青連)と議定書を結んで交流を定期的に行う中、昨年も11月に青年部の交流団が訪中して友誼の絆を強め合ったところであります。
このように両国の交流は大きく広がり、多くの分野で協力が進んできました。
今年で日中平和友好条約の締結40周年を迎えます。
その佳節を機に、これまで積み上げてきた"両国の関係を深めるための協力"を基盤としながら、「地球益」や「人類益」のための行動の連帯を図る挑戦を、大きく前に進めるべきではないでしょうか。
温暖化防止と持続可能な都市づくりは、いずれもSDGsの重点課題であり、若い世代の情熱と創造力を最大の原動力としながら、北東アジアをはじめ、世界全体のモデルとなる事例を共に積み上げていくことを、強く呼び掛けたい。

◇ジェンダー平等が問題解決に不可欠
結びに、SDGsの推進のために言及しておきたいのは、ジェンダー平等と女性のエンパワーメント(内発的な力の開花)に関する提案です。
このテーマは、SDGsの目標の一つというだけでなく、他のすべての目標を大きく前進させる上で欠かせない"SDGsの基軸"となるものです。
国連でこの課題に取り組むUNウィメンのムランボ=ヌクカ事務局長は、昨年10月、国連安全保障理事会での「女性と平和・安全保障」を巡る討論で、次のように強調していました。
「『女性と平和・安全保障』という議題は、グローバルな政策決定においてその足跡を広げ続けており、今や、地球的な問題を語る上で不可欠な柱となっています」
事実、核兵器禁止条約の前文でも、ジェンダー平等が持続可能な平和にとって不可欠の要素であるとし、核軍縮に女性が関与することの支援と強化が呼び掛けられました。
2000年に国連の安保理で採択された「1325号決議」を機に、紛争解決と平和構築のプロセスへの女性の参加拡大が図られてきましたが、各国の安全保障政策の転換につながる軍縮の分野でも、その重要性が明記されたのです。
こうした問題意識の広がりは、平和の分野だけにとどまりません。
例えば、2015年に合意された「仙台防災枠組」では、女性のエンパワーメントに日頃から取り組むことが、災害に対する社会のレジリエンス(困難を乗り越える力)の強化につながると指摘されています。
また、昨年11月にドイツで行われた気候変動枠組条約締約国会議で「ジェンダー行動計画」がまとめられたように、温暖化防止の面でも女性の役割が鍵を握ることが、国際社会の共通認識になっているのです。
そこで私は、こうした時代変革の波動をあらゆる分野で広げていくために、「女性のエンパワーメントの国際10年」を国連で制定することを提唱したい。
具体的には、安保理の「1325号決議」採択20周年を迎える2020年から国際10年をスタートし、SDGsの達成期限である2030年に向けて、女性のエンパワーメントの推進とともに、SDGsのすべての目標の底上げを期すべきではないでしょうか。
女性のエンパワーメントは"可能であれば考慮する"といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません。
UNウィメンがヨルダンの難民キャンプで実施した支援で、衣類の仕立ての仕事を始めたシリア難民の女性はこう述べています。
「無力感を感じることが少なくなりました。仕事をすることで、自分たちに価値を見出し、エンパワーされると感じます」(UN Women日本事務所のウェブサイト)
また、タンザニアの難民キャンプに逃れたブルンジの女性は、「何もすることがないキャンプでは、先の見えない将来への不安で頭がいっぱいになります」と沈んでいたものの、起業トレーニングへの参加をきっかけに気持ちが上向きになりました。いつかブルンジに戻り、得意のパン作りの技術で生計を立て、子どもたちを再び学校に送りたいとの夢を語るまでになったのです(UNHCR駐日事務所のウェブサイト)。
このように女性のエンパワーメントは、どれだけ厳しい状況に置かれていても、「生きる希望」を取り戻しながら前に進むための原動力となるものです。

◇誰も置き去りにしない世界を!
私どもSGIも、"万人の尊厳"を掲げる仏法の思想に基づき、女性のエンパワーメントの裾野を広げる活動を続けてきました。
国連の「女性の地位委員会」の取り組みを市民社会の側から支援し、国連本部での会合に代表が参加するとともに、2011年からは、他団体と協力して会合の並行行事を継続的に開催しています。
また、国連人権理事会の会期に合わせて、女性の権利を守るための信仰と文化の役割や、男女平等のためのノンフォーマル教育をテーマにした関連行事を行ってきました。
昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルでのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります。
SGIとしても、このプラットフォームの活動に積極的に参加し、他のFBOと力を合わせながら、困難に直面する女性たちの生きる力の源となり、地球的な課題の解決を前に進めるためのアリアドネの糸=注6=を、共に紡ぎ出していきたい。
そして、市民社会の声を結集し、「女性のエンパワーメントの国際10年」の制定に向けた機運を高めていきたいと思います。
SDGsが掲げる「誰も置き去りにしない」とのビジョンは、世界の半分を占める女性たちの人権を守り、希望と尊厳をもって生きられる社会を築く挑戦の中で、力強く躍動していくに違いありません。
この2030年に向けた挑戦を展望する時、かつてローザ・パークスさんが、心の支えにしてきたものとして紹介してくださった言葉が思い浮かんできます。
「"人間は苦しみに甘んじなければならない"という法律はないんだよ」との、パークスさんの母君の言葉です。
パークスさんの母君も差別と戦い続けた女性でしたが、この切実な思いこそ、ジェンダー平等を基軸にSDGsの取り組みを前進させるために、あらゆる差異を超えて皆で共有すべき精神ではないでしょうか。
今後もSGIは、一人一人の生命と尊厳を守ることを基盤に、地球的な課題を乗り越えるための民衆の連帯を大河のように広げていきたいと思います。

2018年2月4日日曜日

2018.02.04 わが友に贈る

◇今週のことば
「一」は万の母なり。
一人への励ましから
希望と喜びの連鎖が。
足どり軽く声を惜しまず
友の心に勇気の点火を!
2018年2月4日

中興入道消息 P1333
『彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人とをもはれたり』

◇寸鉄 2018年2月4日
きょう立春。さあ地域に温かな励ましを!厳冬を突き抜け躍動の春へ共に
「東洋哲学研究所の日」。人間主義の哲理を未来のために。英知を更に結集
東京・中野の日。新時代の暁鐘を私たちの拡大で!仲の良きスクラムで勇進
職場でのストレス、原因6割は人間関係。生命力満々と。皆が絆結ぶ要に
寝だめは体内時計狂わせ体にも悪影響と。リズム正しき生活こそ健康の道

☆第43回「SGIの日」記念提言(下)1 「人権の世紀へ 民衆の大河」
◇冷戦時代の教訓が物語る恐怖による抑止の危険性
続いて、これまで論じてきた"一人一人の生命と尊厳"の観点に基づき、地球的な課題を解決するための提案を行いたい。
第一のテーマは、核兵器の問題です。
昨年7月、核兵器禁止条約が122カ国の賛成を得て国連で採択されました。
核兵器の開発をはじめ、製造や保有、そして核兵器の使用とその威嚇にいたるまで、全面的に禁止する条約です。
かつて国際司法裁判所は、核兵器の威嚇や使用は国際法に一般的に違反するとしながらも、国家の存亡に関わるような極端な状況の場合には、合法か違法かをはっきりと結論することはできないとの勧告的意見を示しました。
この核兵器禁止条約は、そのような場合も含めて、いかなる例外も認めず、一律に禁止するものに他なりません。
先月もICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞の授賞式にあわせるような形で、禁止条約の2回目の署名式が国連で行われたように、条約の発効に向けた努力が積み重ねられています。
その一方で、核保有国や核依存国の間では"核兵器禁止条約は現実的ではない"といった声が根強くあります。
しかし過去の歴史において、核兵器を一時は保有しながらも、非核の選択に踏み切った国の事例がないわけではありません。
例えば、南アフリカ共和国はデクラーク大統領が議会演説でアパルトヘイト(人種隔離)の廃止を約束した翌年(1990年)から、核兵器の解体に着手しました。
その後、核拡散防止条約(NPT)に加盟し、96年には他の国々と共にアフリカ非核兵器地帯条約への署名を果たしたのです。
非核兵器地帯の設立の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約も、前文で「核戦争の惨害を一掃する」との文言に続いて、「全ての人の権利の平等」に基づく恒久的平和が掲げられていたように、"非核の選択"と"人権の理念"が分かちがたく結びつく形で誕生したものでした。
国際人権法の理念は、国の違いを問わず、一人一人の生命と尊厳を守ることを求めるものであり、その追求の先には核軍拡を続ける余地など残されているはずがありません。
翻って現在、北朝鮮の核開発を巡る情勢のように、核兵器の存在があからさまな"威嚇の手段"としての様相を再び強めている状況は、国際社会の深い懸念となっています。
また近年、アメリカとロシアの間で中距離核戦力(INF)全廃条約=注4=の遵守を巡る対立がみられることも憂慮されます。

◇国際法の歴史が築いてきたもの
核抑止政策の骨格は"核兵器による威嚇"にありますが、そこにひそむ問題を突き詰めて考える時、哲学者のハンナ・アーレントが提起した「他者を圧倒する自由意志」としての主権というテーマを思い起こします(『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房)。
アーレントは、古代ギリシャにおいて自由は、他者との交わりの中で"至芸"ともいうべき輝きをもって表れる言葉や振る舞いに息づくものとして捉えられていたのに対し、それが近代以降、他者への眼差しを欠いた自己の意志に基づく「選択の自由」の意味へと変容してきたとして、こう指摘しています。
「自由の理念が、行為から力としての意志へ移動し、行為のうちに具体的に明示される状態としての自由から選択の自由へと移動した結果、それは、前述の意味での至芸であることをやめ、他者から独立し、しかも最終的には他者を圧倒する自由意志の理想、すなわち主権となった」と。
アーレントはこの考察を通し、自由と主権の関係を論じましたが、壊滅的な被害をもたらす核兵器によって安全保障を確保しようとする国家のあり方は、「他者を圧倒する自由意志」の最たるものとはいえないでしょうか。
ある意味で国際法の歴史とは、国家に対して"越えてはならない一線"を明確化し、共通規範として打ち立てていく挑戦の積み重ねでもあったといえます。
16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで続いた戦乱に胸を痛める中で、近代国際法の礎を築いたグロティウスは、『戦争と平和の法』で、敵といえども人間であることに変わりはなく、信義は守られなければならないと訴えました。
そしてその思想は19世紀以降、戦時における禁止事項を定めた国際人道法の形成につながり、20世紀の2度に及ぶ世界大戦を経て、国連憲章で「武力による威嚇または武力の行使」が一般的に禁止されたのです。
これまで生物兵器や化学兵器をはじめ、対人地雷やクラスター爆弾が、条約によって"いかなる場合も使用が許されない兵器"として一線が引かれたことを機に、保有を望み続ける国が減少するようになりました。昨年は化学兵器禁止条約の発効20周年でしたが、締約国は192カ国に達し、化学兵器の9割が廃棄されてきたのです。
国際規範はひとたび明確に打ち立てられれば、国家のあり方のみならず、世界のあり方を方向づけていく重みがあります。
ICANのフィン事務局長も、ノーベル平和賞の授賞式で訴えていました。
「今日、化学兵器を保有することを自慢する国はありません。神経剤サリンを使用することは極限的な状況下であれば許されると主張する国もありません。敵国に対してペストやポリオをばらまく権利を公言する国もありません。これらは、国際的な規範が作られて、人々の認識が変わったからです」(NHKのウェブサイト)
そして今、条約の採択によって、核兵器が"いかなる場合も使用が許されない兵器"として明確化されるにいたりました。
国連のグテーレス事務総長も、「グローバルな緊張が高まり、軍事力が誇示され、核兵器の使用を巡って危険な言葉が交わされている」との強い警告を発しています。核兵器を巡る混迷が深まっている今だからこそ、核抑止政策の是非を真摯に問い直すべきではないでしょうか。

◇フルシチョフのアメリカ訪問
そこで私は、核兵器の使用を巡る危険な言葉の応酬がやまなかった冷戦時代の教訓を、振り返ってみたいと思います。
以前、テレビのドキュメンタリー番組で、ソ連の首脳として初めて訪米を果たしたフルシチョフ首相の様子が紹介されていました(ARTE FRANCEほか制作『フルシチョフ アメリカを行く』、NHK BS1、2017年10月18日放映)。
訪米は、ソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射に続いて、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した2年後(1959年9月)のことでした。
"近いうちに核戦争をしかける人物"としてのイメージが浸透していたフルシチョフ首相は、行く先々で政治的な批判にさらされましたが、一方でアメリカ市民との触れ合いを何よりの楽しみとしていました。
意見の対立を抱えつつ、アメリカと一定の信頼関係を築いて帰国したものの、翌年、アメリカの偵察機であるU2がソ連の領空内に入り、撃墜される事件が起きました。関係は再び悪化の一途をたどり、61年のベルリン危機に続いて、62年にはキューバ危機を招いてしまったのです。
キューバ危機は、ケネディ大統領とフルシチョフ首相がぎりぎりの所で踏みとどまったことで最悪の事態を免れましたが、ドキュメンタリー番組の最後で、当時のフルシチョフ首相の心境を推察しながら、次のように問いかけていたことが胸に残りました。
もちろん、理由はいくつかあったであろう。政治家として妥協せざるを得なかったかもしれない。それでも核戦争に踏み切らなかった理由の一つに、つかの間ではあってもアメリカ市民と触れ合った懐かしい記憶があったことを想像できないだろうか——と。
これはあくまで番組の問いかけではありますが、核攻撃によって命を失うのは大勢の民衆に他ならないという現実は、私自身、フルシチョフ氏の後任のコスイギン首相と率直に語り合った点でもあります。
コスイギン首相とお会いしたのは74年9月で、ソ連は当時、アメリカだけでなく中国とも深刻な対立関係にありました。
私は、核戦争のような事態が起きることは絶対にあってはならないとの思いで、3カ月前の訪中で目にした、ソ連の攻撃に備えて中国の人々がつくった防空壕の様子を伝えました。
北京では防空壕に加え、中学校でも生徒たちが校庭で地下室づくりをしている姿を見て、胸が痛んでならなかったからです。
その思いを込めつつ、中国の人々が感じている懸念を伝え、「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と話を切り出すと、コスイギン首相は意を決したようにこう述べました。
「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と。
私はこの重要なメッセージを携え、再び中国を訪問しましたが、核保有国の指導者が核の脅威にさらされている大勢の民衆や子どもたちの存在に思いをはせる大切さを、強く感じずにはいられませんでした。

◇核戦争を防止するための重要な楔
一方、ソ連と対立していたアメリカでも、シミュレーションによる軍事演習で大統領が衝撃を受けていた様子が、証言で浮き彫りにされています。
——レーガン大統領が82年に参加した演習では、スクリーン上に映し出されたアメリカの地図に、ソ連からの核攻撃で壊滅した都市が赤い点で示されるようになっていた。
一分また一分と時間がたつごとに、その数は増え、「大統領がコーヒーを一口飲む前に、地図は赤い海へと変わっていった」。
レーガン大統領はその壊滅的な結末にショックを受け、マグカップをただ握りしめるしかなかった——と(デイヴィッド・E・ホフマン著『死神の報復(上)』平賀秀明訳、白水社を引用・参照)。
その体験を胸にとどめ、レーガン大統領はソ連との対話を模索し続ける中で、ゴルバチョフ書記長との首脳対談を果たし、INF全廃条約が実現をみたのであります。

◇核廃絶の前進を求める新たな「民衆行動の10年」
シミュレーションでの仮想の地図では「赤い点」の増加だけで済むかもしれませんが、実際に核攻撃の応酬が始まってしまえば、どれだけ多くの尊い命が失われ、人間生活の営みが破壊されることになるのか。
SGIがICANと協力して制作した「核兵器なき世界への連帯」展で浮き彫りにしようとしたのは、まさにその点でした。
展示の冒頭では、「あなたにとって大切なものとは?」と問いかけます。
一人一人の胸に浮かぶものは違っても、核兵器はその「大切なもの」を根こそぎ奪うものに他ならないという現実と真正面から向き合うことが、核時代に終止符を打つための連帯の礎になると信じるからです。
核抑止政策がキューバ危機での双方の挑発のエスカレートをぎりぎりまで止められなかったように、"恐怖の均衡"はいつ何時、誤解や思い込みで破綻するかわからない、薄氷を踏むものでしかないことを、核保有国と核依存国の指導者は肝に銘じるべきです。
2002年にインドとパキスタンの緊張が高まった時も、両国が踏みとどまった背景にはアメリカの外交努力がありました。
仲裁に入ったアメリカのコリン・パウエル国務長官は、パキスタンの首脳に電話し、「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促しました。
その上で、「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか」と話すと、パキスタン側は説得に応じました。
また、インド側に働きかけた時も同様の反応が得られ、危機を回避することができたというのです(「朝日新聞」2013年7月10日付の記事を引用・参照)。
以上、歴史の教訓をいくつか振り返ってきましたが、核戦争を防止する上で重要な楔となってきたのは、"恐怖の均衡"による抑止というよりはむしろ、まったく別の要素であったとはいえないでしょうか。
一つは、敵対する国に対して門戸を閉ざさず、あらゆる角度から対話の道を探るなどコミュニケーション(意思疎通)の回路を確保しようとする努力であり、もう一つは、広島や長崎の惨劇を踏まえて多くの民衆の犠牲が生じることに思いをはせることにあったのではないかと、感じられてならないのです。

◇立場を超えて建設的な議論を
本年4月から5月にかけてNPT再検討会議の準備委員会が行われ、核軍縮に関する国連ハイレベル会合が5月に開催されます。
核兵器禁止条約の採択後、核保有国や核依存国も交えての初の討議の場となるものであり、「核兵器のない世界」に向けた建設的な議論が行われるよう、強く呼び掛けたい。
その場を通して、2020年のNPT再検討会議に向けて各国が果たすことのできる核軍縮努力について方針を述べるとともに、核兵器禁止条約の7項目にわたる禁止内容について、実施が今後検討できる項目を表明することが望ましいと考えます。
例えば、「移譲の禁止」や「新たな核保有につながる援助の禁止」は、NPTとの関連で核保有国の間でも同意できるはずです。
また核依存国にとっても、「核兵器の使用と威嚇の禁止」や、そうした行動につながる「援助・奨励・勧誘の禁止」が、自国の安全保障政策にどう関係してくるのかを検討することは可能だと思います。
国際法は、条約のような"ハード・ロー"と、国連総会の決議や国際的な宣言などの"ソフト・ロー"が積み重ねられ、補完し合う中で実効性を高めてきました。軍縮の分野でも、包括的核実験禁止条約(CTBT)において、条約に批准していない場合に個別に取り決めを設けて、国際監視制度に協力する道が開かれてきた事例があります。
核兵器禁止条約においても、署名や批准の拡大を図る努力に加えて、こうした"ハード・ロー"と"ソフト・ロー"の組み合わせのように、署名や批准が当面困難な場合であっても、宣言や声明という形を通じて各国が実施できる項目からコミットメント(約束)を積み上げていくべきではないでしょうか。
何より核兵器禁止条約は、NPTと無縁なところから生まれたものではありません。条約採択の勢いを加速させた核兵器の非人道性に対する認識は、2010年のNPT再検討会議で核保有国や核依存国を含む締約国の総意として示されていたものに他ならず、核兵器禁止条約は、NPT第6条が定めた核軍縮義務を具体化し、その誠実な履行を図っていく意義も有しているからです。

◇広島と長崎の被爆者の思い
私が創立した戸田記念国際平和研究所では、昨年11月、協調的安全保障をテーマにした国際会議をロンドンで開催しました。
会議では、停滞が続く核軍縮を前に進めるための課題を検討するとともに、NPTと核兵器禁止条約の二つの枠組みが補完し合う点について討議しました。
また来月には東京で国際会議を行い、日本や韓国、アメリカや中国から専門家が参加し、北朝鮮情勢や北東アジアの平和と安全保障を巡って打開策を探ることになっています。
核軍縮の停滞に加え、核兵器の近代化が進み、拡散防止の面でも深刻な課題を抱える今、「NPTの基盤強化」と「核兵器禁止条約による規範の明確化」という二つのアプローチの相乗効果で、核兵器による惨劇を絶対に起こさせない軌道を敷くべきではないでしょうか。
その意味で、唯一の戦争被爆国である日本が、次回のNPT再検討会議に向けて核軍縮の機運を高める旗振り役になるとともに、ハイレベル会合を機に核依存国の先頭に立つ形で、核兵器禁止条約への参加を検討する意思表明を行うことを強く望むものです。
先のパウエル氏の言葉に敷衍して言えば、"1945年8月の後、核兵器が使用されるかもしれない事態が生じた時、それを容認する国に連なることができるのか"という道義的責任から目を背けることは、被爆国として決してできないはずだからです。
禁止条約の基底には、どの国も核攻撃の対象にしてはならず、どの国も核攻撃に踏み切らせてはならないとの、広島と長崎の被爆者の切なる思いが脈打っています。被爆者のサーロー節子さんも、「思い出したくない過去を語り続ける努力は、間違いでも無駄でもなかった」(「中国新聞」2017年11月25日付)との感慨を述べていました。
日本は昨年、次回のNPT再検討会議に向けた第1回準備委員会で、「非人道性への認識は、核兵器のない世界に向けての全てのアプローチを下支えするもの」と強調しましたが、日本の足場は"同じ苦しみを誰にも味わわせてはならない"との被爆者の思いに置かねばならないと訴えたいのです。

◇平和・軍縮教育を市民社会で推進
核兵器禁止条約に関し、もう一つ呼び掛けたいのは、市民社会の連帯を原動力に条約の普遍性を高めていくことです。
核兵器禁止条約の意義は、一切の例外なく核兵器を禁止したことにありますが、その上で特筆すべきは、条約の実施を支える主体として国家や国際機関だけでなく、市民社会の参画を制度的に組み込んでいる点です。
条約では、2年ごとの締約国会合や6年ごとに行う検討会合に、条約に加わっていない国などと併せて、NGO(非政府組織)にもオブザーバー参加を招請するよう規定されています。
これは、世界のヒバクシャをはじめ、条約の採択に果たした市民社会の役割の大きさを踏まえたものですが、同時に、核兵器の禁止と廃絶は、すべての国々と国際機関と市民社会の参画が欠かせない"全地球的な共同作業"であることを示した証左といえましょう。
また条約の前文では、平和・軍縮教育の重要性が強調されています。
この点は、私どもSGIが、国連での交渉会議に提出した作業文書や、交渉会議における市民社会の意見表明の中で繰り返し訴えてきたものでもありました。
核兵器の使用が引き起こす壊滅的な人道上の結末に関する知識が、世代から世代へと継承され、維持されるためには、平和・軍縮教育が不可欠であり、それが禁止条約の積極的な履行を各国に促す土台ともなると考えるからです。
そこでSGIとして、核兵器禁止条約の早期発効と普遍化の促進を目指し、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の第2期を本年から新たに開始することを、ここに表明したい。
昨年までSGIは、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」のキャンペーンを進めてきました。
これは、私が2006年8月に発表した国連提言での呼び掛けを踏まえ、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」発表50周年を機に、2007年9月に開始したものです。
ICANと協力して「平和への願いをこめて——広島・長崎 女性たちの被爆体験」と題するDVD(5言語版)を制作し、証言映像で核兵器と戦争の悲惨さを訴えてきたほか、先に紹介した「核兵器なき世界への連帯」展を19カ国81都市で開催してきました。
また、2010年のNPT再検討会議に寄せて核兵器禁止条約の制定を求める227万人の署名を提出したのに続き、2014年には核兵器廃絶のキャンペーンに協力し、512万人を超える署名を集めました。
そのほか、多くの団体と連携して「核兵器廃絶のための世界青年サミット」を2015年に広島で開催するとともに、核兵器の人道的影響に関する国際会議や、国連での核兵器を巡る一連の討議と交渉会議に参加し、市民社会の声を届けてきたのであります。
このような活動を通し、核兵器の非人道性を議論の中軸に据える後押しをしながら、核兵器禁止条約の交渉を求め、「核兵器のない世界」を求める多くの民衆の思いに立脚した、いかなる例外も認めない全面禁止を定めた条約の制定を訴え続けてきました。

◇「非核」の民意を世界地図で表す
これまでの「民衆行動の10年」の最大の焦点は、核兵器禁止条約の制定にありました。
本年から開始する「民衆行動の10年」の第2期では、平和・軍縮教育の推進にさらに力を入れながら、核兵器禁止条約の普遍化を促し、禁止条約を基盤に世界のあり方を大きく変えていくこと——具体的には、禁止条約を支持するグローバルな民衆の声を結集し、核兵器廃絶のプロセスを前に進めることを目指したいと思います。
平和首長会議への加盟が162カ国・地域の7500以上の都市に達しているように、「核兵器のない世界」を求める声は、核保有国や核依存国の間でも広がっています。
またICANの活動に賛同するNGOも、世界で468団体に及んでいます。
私は、核兵器禁止条約の普遍性を高めるには、各国の条約参加の拡大を市民社会が後押しするとともに、グローバルな規模での市民社会の支持の広がりを目に見える形で示し続けることが、大きな意義を持つと考えます。

◇生きがいと尊厳を支える高齢者人権条約を制定
例えば、ICANや平和首長会議など多くの団体と協力する形で、核兵器禁止条約を支持する各国の自治体の所在地を国連のシンボルカラーである"青"の点で示した世界地図を制作したり、さまざまなNGOから寄せられた条約支持の声を集めて幅広く紹介し、国連や軍縮関連の会議の場で継続的に発信していく方法もあると思います。
また青年や女性、科学界や宗教界など、あらゆる角度から連帯の裾野を広げ、各国の条約参加を呼び掛けるとともに、条約の発効後は、非締約国に締約国会合へのオブザーバー参加を、市民社会として働きかけることも考えられましょう。
先ほど私は、冷戦時代のシミュレーション演習で仮想の地図が赤く染まっていった様子に言及しましたが、"私たち世界の民衆は、非道な核攻撃の応酬が引き起こされかねない状況を黙って甘受することはできない"とのグローバルな民意の重さを明確な形で示すことで、世界全体を非核の方向に向けていく挑戦を進めたいのです。
ICANへのノーベル平和賞の授賞式で、被爆者のサーロー節子さんは訴えました。
「私は13歳の少女だったときに、くすぶる瓦礫の中に捕らえられながら、押し続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です」
「どのような障害に直面しようとも、私たちは動き続け、押し続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです」(NHKのウェブサイト)
ICANや平和首長会議が築いてきたネットワークを基盤に、市民社会の連帯をさらに広げ、核兵器廃絶を求めるグローバルな民意の大きさを可視化していく——。その民意の重みが、やがては核保有国と核依存国の政策転換を促し、核時代に終止符を打つことにつながっていくと、私は確信してやみません。

2018年2月3日土曜日

2018.02.03 わが友に贈る

人生の一切の闘争に
断じて勝つ仏法だ!
勢いよく大胆に戦い
後世に仰がれる
不滅の実証を残そう!

妙法尼御前御返事 P1403
『百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる』

◇寸鉄 2018年2月3日
会長には他者の意見を聞きながら真理に導く力が—博士。聞き上手の鑑と
『新・人間革命』に感動と決意の声。君よ反転攻勢の歴史胸に!正義を叫べ
できないと言う人から何も生まれぬ—夫人。信心に不可能なし。祈り強く
受験シーズン本番。最後まで諦めない人に栄冠は輝く。周囲も温かく応援
騙されたふりして詐欺犯検挙へ—大阪でGメンが始動と。撲滅の知恵更に

☆第43回「SGIの日」記念提言(上)2 「人権の世紀へ 民衆の大河」
◇世界各地で広がる排他主義の動き
"万人の尊厳"を説いた釈尊が常に留意を促していたのも、言葉による固定化がもたらす危険性に他なりませんでした。 
「生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)と、人間の尊さは属性を示す言葉で左右されるものではないと訴えたのです。
仏法に、「厭離断九」という言葉があります。
仏と人間とを全く別の存在として立て分けてしまい、最極の生命状態(仏界)を得るためには、それ以外の生命状態(九界)をすべて厭い、そこから離れて、断ち切る以外にないと考えることを指し、それを戒めた言葉です。
日蓮大聖人はこの点を踏まえて、「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげ(歎)くべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(御書522ページ)と述べ、特定の人々の存在を根本から否定するのは、他者の尊厳を傷つけるだけでなく、自分の尊厳の土台を突き崩すことになると訴えました。
これは仏法の生命論的な視座ですが、人間の尊厳に対して障壁を設けることの危険性は、現代の人権問題を考える上でも看過してはならない点だと思えてなりません。
特定の人々を蔑み、遠ざけようとし、関係を持つことを嫌う排他主義が、世界各地で深刻な問題を引き起こしているからです。
昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
宗教などの違いに基づく不寛容と闘うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です。
2年前に国連で採択されたニューヨーク宣言=注2=でも、「難民または移民を悪魔呼ばわりすることは、私たちが深く関わってきた全人類に対する尊厳と平等の価値を心の底から損ねている」(国連広報センターのウェブサイト)と警鐘が鳴らされていました。
もとより、自分が属する集団に愛着を感じるのは、自然な感情といえるものです。また、自分が住む地域に他国から来た人々を迎え入れることに不安や戸惑いを感じるのも、やむを得ない面があるかもしれません。
しかしそれが排他主義へと傾き、ヘイトスピーチのように憎悪や敵意をむき出しに差別をすることは人権侵害になります。

◇フィルターバブルが引き起こす問題
特に近年、情報社会化が進み、他者とつながる可能性は拡大しているにもかかわらず、ネット空間を通じて増幅するのは、同じような考えを持つ人々との一体感ばかりという現象がみられることが懸念されます。
「フィルターバブル」と呼ばれるもので、インターネットで情報を探す際に、利用者の傾向を反映した情報が優先的に表示され、他の情報が目に入りにくくなるため、知らず知らずのうちに特定のフィルターで選別された情報に囲まれて、バブルの球体の膜に包まれてしまったような状態になることを指します。
深刻なのは、社会問題を巡る認識でも、その傾向が顕著になりつつあることです。
気になる社会問題があっても、目にするのは、自分の考えに近い主張や解説が載ったウェブサイトやSNS(インターネット交流サイト)の内容になってしまいがちで、異なる意見は最初から遠ざけられ、吟味の対象となることは稀だからです。
この問題に詳しいイーライ・パリサー氏は、「情報の共有が体験の共有を生む時代において、フィルターバブルは我々を引き裂く遠心力となる」と注意を喚起しています。
物事を適切に判断するためには文脈を把握し、さまざまな方位に目を配ることが必要となるはずなのに、「フィルターバブルでは360度どころか、下手をすると1度しか認識できない可能性がある」と、視野の狭さがもたらす悪影響に警鐘を鳴らしているのです(『フィルターバブル』井口耕二訳、早川書房を引用・参照)。
多様性の尊重に関する研究でも、社会で主流をなす集団の人々が、差別的な扱いを自分たちは受けずに済んでいる現実をさほど意識しないままでいることが、それ以外の人々に「生きづらさ」を感じさせる状況を助長してきたと指摘されています。
かつて、"公民権運動の母"と呼ばれるローザ・パークスさんとお会いした時(1993年1月)、語っておられた言葉が忘れられません。
「私は悲しい出来事をいくつもいくつも体験してきました。人種差別が、法律のもとで堂々とまかり通り、自分も含めて多くの人々が苦しむのを、何度も目の当たりにしています」
心の痛みをどれだけ強く感じようが、目に見える形で表さなければ、誰も気にとめようとはしない——。
あの歴史的なバス・ボイコット運動は、パークスさんの"不正義に対する明確な拒否"の姿勢が、多くの人々の胸に突き刺さったからこそ、大きな波動を巻き起こしたのではないでしょうか。

◇歴史の教訓を青年に語り継ぐ
日本でも、中国や韓国など近隣諸国の人々への差別意識が根強くみられることは、極めて遺憾と言わざるを得ません。
近隣諸国との相互理解と信頼の構築を目指し、私が長年にわたって交流を深める中で友誼を結んできた一人に、韓国の李寿成元首相がいます。
李元首相の父君は、日本が植民地支配をしていた時代に判事の仕事に就きましたが、韓服を着て出勤し、日本語を話すことを強要されても、決して受け入れませんでした。そして、固有の名前を日本式に改める「創氏改名」を拒否したために判事の職を追われ、弁護士の仕事を始めようとしても開業を許されなかったといいます。
この李元首相から伺った話を含め、戦前と戦時中に非道な扱いを受けた近隣諸国の人々の心の痛みを日本の青年たちに語り継がねばならないとの思いで、私はことあるごとに歴史の教訓を訴えてきました。
昨年10月、創価大学で講演した李元首相は、「どんなに優れた人であっても、他者に対して傲慢であってはならない。また、ある民族が他の民族に対して、傲慢であってはならない」と呼び掛けましたが、日本で今なお続く差別をなくすためにも、若い世代が胸に刻んでほしいと願わずにはいられません。
ともすれば差別は、多くの人にとって無関係のものと受け止められがちです。しかし、社会的なマイノリティー(少数者)の立場に置かれてきた人々にとって、それは日常的に身に降りかかる現実なのです。

人権教育は、こうした差別を助長する"無意識の壁"の存在に目を向けさせ、日々の行動を見つめ直す契機となるものです。
私どもSGIが、人権教育の推進を通して力を入れてきたのも、エンパワーメント(内発的な力の開花)による一人一人の尊厳の回復と、「多元的で誰も排除されない社会」を共に築くための意識啓発です。
これまでSGIは、1995年にスタートした「人権教育のための国連10年」を支援するとともに、そうした国際的な枠組みの継続を呼び掛け、2005年から国連が新たに開始した「人権教育のための世界プログラム」を推進する活動を行ってきました。
その上で、多くの団体と協力しながら、「人権教育および研修に関する国連宣言」の採択を市民社会の側から後押しし、2011年の採択以降は、人権教育に関わる市民社会のネットワークづくりに取り組んできました。

また、人権教育映画「尊厳への道」を制作して上映会を開催してきたほか、昨年3月にジュネーブの国連欧州本部で行った新展示「変革の一歩——人権教育の力」の開催を各地で進めています。
映画や展示で紹介している事例の一つに、オーストラリアのビクトリア州警察での人権研修から広がった社会の変化があります。
ある捜査でLGBTと呼ばれる人々への不当な扱いが問題となったことを契機に、全職員を対象とする人権プロジェクトを導入した州警察では、移民の人々に対する厳しい態度も改められるようになりました。
警察官は「人」と「行為」を混同してはならない。あくまでも「人」は保護し、違法な「行為」があれば、その「行為」に対処する。これが、人権を基盤にした警察の責務である——との認識が徹底されていったのです。
以来、移民の人々の間でも変化が生じました。ある青年は語っています。
——悪いことをしていなくても、警察官が近づくだけで不安を感じていたが、ある時、「青年のためのリーダーシップ育成のプログラムに参加しないか」と声をかけられた。
プログラムに参加して、警察に対する印象も変わり、"この国の警察官は、制服を着ていても同じ市民であり、普通の人間と変わらない"と思うようになった——と。
こうして人権研修の導入をきっかけに、警察官の意識が変わり、移民の人々の不安も次第に解消される中で、警察に対する市民全体の信頼が高まっていったのです。

◇「因陀羅網」の譬え
この事例が象徴するように、人権教育や人権研修の意義は、知識やスキルを身に付けるだけで完結するものではありません。
異なる集団の人々に対し、同じ人間として向き合う心を取り戻し、社会で共に生きていく関係を紡ぐことに眼目があるのです。
これまで「人権教育のための世界プログラム」では、5年ごとに重点対象を設け、�初等・中等教育、�高等教育と教育者や公務員等、�メディアとジャーナリスト、の三つの段階で進められてきました。
続く第4段階は2020年から始まりますが、私は、その重点対象を「青年」にすることを提唱したいと思います。
青年は、フィルターバブルの影響を受けやすい面がある一方で、人権教育で学んだ経験を周囲に語り、発信することで偏見や差別を克服する輪を広げていける存在です。
核兵器の禁止を求めるICANの活動の中核を担ったのも、20代や30代の青年たちでした。
人権の面からも、そうした世代が形づくられていけば、世界の潮流を分断から共生へと大きく転換できるに違いありません。
フィルターバブルや"無意識の壁"に囲まれていると、他者の人間性の輝きは目に映らず、自分に本来具わる人間性の輝きも曇らされて周囲に届かなくなってしまいます。
人権教育には、属性や立場の違いがつくり出す自他を隔てる壁を取り払い、自分にとっても、他の人々にとっても"人間性の光"を豊かに輝かせる場を広げる力があります。
大乗仏教に「因陀羅網」(帝釈天の宮殿を飾る網)の譬えがあります。
壮大な網の結び目の一つ一つに付けられた宝玉が、互いの姿を映し合う中で、それぞれの輝きを増し、網全体も荘厳されていくイメージに、私は、人権教育が切り開く社会のビジョンをみる思いがします。
人権教育に関する国連宣言が呼び掛ける「多元的で誰も排除されない社会」は、その"人間性の光"を豊かに受け合うつながりを幾重にも織り成す中で、力強く支えられていくのではないでしょうか。

◇国連の取り組みが目指す社会の姿
第三の柱で論じたいのは、人権文化の紐帯は"喜びの共有"にあるという点です。
先月、世界人権宣言が採択された日(12月10日)に合わせ、宣言誕生の場となったパリのシャイヨ宮で「世界人権宣言70周年」のキャンペーンが立ち上げられました。
国連のゼイド・フセイン人権高等弁務官は、声明でこう呼び掛けました。
「私たちは、妥協することなく決然たる立場をとらなければなりません。なぜなら、他者の人権を断固支持することは、自分たちの人権や将来世代の人権を守ることでもあるからです」
この呼び掛けを貫く"力を合わせて人権を共に守る"との問題意識は、国連の他のキャンペーンにも共通するものです。
難民や移民の人々が直面する状況の改善を目指す「TOGETHER」(トゥゲザー)や、ジェンダー平等を推進する「HeForShe」(ヒー・フォー・シー)の取り組みでも、タイトルが象徴するように、差異を超えて行動の連帯を広げることが鍵となっています。
それは、他者の置かれた境遇への理解を必ずしも伴わない消極的な寛容とは本質的に異なる、人権文化の建設を志向したものといえましょう。
消極的な寛容の場合、共生といっても、同じ地域で暮らすことを受け入れるとか、法律やルールがあるからそれに従うといった、表層的なものだけに終わる恐れがあります。
そうした消極的な寛容では、同じ人間として向き合う姿勢には結びつかないために、社会で緊張が高まった時には排他主義を食い止めることは難しいのではないでしょうか。
だからこそ、一人一人の意識変革を通し、「誰もが尊厳をもって生きられる社会」という新しい現実を一緒につくりあげようとする人権文化の取り組みが、今、国連を中心に進められようとしているのです。
仏法に「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御書761ページ)という言葉がありますが、共生の社会を築く源泉となるのは、一人一人が尊厳を輝かせていく姿を互いに喜び合う生き方にあるのではないかと、私は考えます。
法華経では、"万人の尊厳"を説く釈尊の教えに心を打たれた弟子たちが、一人また一人と誓いを立てていく場面があります。
その姿を前に周囲に広がるのは、「心大歓喜」や「歓喜踊躍」といった言葉が随所に出てくるように、喜びの輪であり、その喜びを分かち合う中で人々が"万人の尊厳"への思いを深めていく姿が描かれているのです。
SGIの民衆運動を突き動かしているのも、そうした"喜びの共有"に他なりません。
国や人種の隔てなく、互いが直面する課題に対し、共に前に進んでいけるよう支え合っていく。そして、困難に立ち向かう中で尊厳の光を輝かせる友の姿を胸に焼き付け、その友の前進を我が事のように一緒に喜び合っていく思いが源泉となってきたのです。

◇自由と平等求めた公民権運動の精神
この"喜びの共有"に関連して頭に浮かぶのは、以前、歴史学者のビンセント・ハーディング博士から伺ったアメリカ公民権運動の思い出です(『希望の教育 平和の行進』第三文明社)。
博士が運動に身を投じたのは、大学院生だった頃、マーティン・ルーサー・キング博士の自宅を訪れたことがきっかけでした。
当時、アメリカでは、バス・ボイコット運動を機に差別撤廃を求める動きが広がる一方で、黒人の大学生が登校停止になったり、黒人の生徒が高校の入学を拒否され続けるなど、南部の州を中心に緊張が高まっていました。
シカゴにいたハーディング博士は、黒人と白人のキリスト教徒が協力し合う活動に参加していましたが、そのうち、仲間の間で次のような自問が広がるようになったといいます。
「もし我々が、黒人と白人が兄弟姉妹として一緒に暮らすことが違法で危険な南部に住んでいたなら、我々はどう行動するだろうか。重大なトラブルに巻き込まれても信念を貫き、互いの関係を守ることができるだろうか」
そこで博士たちは「それなら、南部へ行ってみよう」と決断し、2人の黒人と3人の白人の5人組で車に乗り込みました。
最初に立ち寄ったアーカンソー州で目にしたのは、入学拒否にあった生徒を支援する中心者の家に向けられていた非道な脅迫の実態だったといいます。
差別に反対する人々への暴力が続いていたミシシッピ州を通り抜け、アラバマ州に着いた時、キング博士はナイフで刺される事件に遭ってまもない頃で、モンゴメリーの自宅で安静を余儀なくされていた状態でした。
それでもコレッタ夫人は来訪を大変に喜び、キング博士との面会が実現しました。
その時の出会いを回想して、ハーディング博士は語っていました。
「モンゴメリーで初めて出会ったとき、私たち二人の黒人と三人の白人の五人組が『兄弟』として、南部での旅を試みていることに、キングはとくに感銘を受けていました」
「というのも、彼の主要な目標の一つは、単に黒人のために法的な権利を確立することではなく、それを超えて、彼が『愛に満ちた共同体』と呼んでいた"同じ人間としての根本的なつながり"を再発見できる場を創ることにあったからです」と。
もちろん、キング博士にとって、新たな法律の制定を後押しし、平等と社会的公正を実現する道を開くことは、何としても勝ち取らなければならないものでした。公民権法のような法律の整備は、差別や抑圧の蔓延を阻止するための社会の礎として、絶対に欠かせないものだからです。
その上でキング博士の眼差しは、根強い偏見や感情的なしこりを取り除く努力、そしてさらに、ハーディング博士の表現を借りれば、「黒人や白人、そしてあらゆる人々が一緒になって、"共通の善"のための"共通の基盤"を見いだすことのできる『アメリカ』を創ること」に向けられていたのです。
公民権運動が大きなうねりとなり、二人の出会いから5年後(1963年8月)にワシントン大行進=注3=が実現した時には、人種の違いを超えて多くの人々が参加しました。
キング博士は、その大勢の人々の思いを代弁するかのように、こう述べています。
「その日首都に旅してきたおよそ二十五万人の人々の中には多くの高官や名士たちがいた。しかし真に人々の心を揺り動かす感動は、一意専心自分たちの時代に民主主義の理念に到達しようと決意して、堂々と立ち尽くしていた普通の一般大衆からやってきた」(クレイボーン・カーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』梶原寿訳、日本基督教団出版局)
そこに集った人々の胸に脈打っていたのは、自由と平等への思いを共にする中で社会に巻き起こしてきた一つ一つの変化に対する"分かちがたい喜び"ではなかったでしょうか。キング博士の言葉に「旅」とありますが、私は、その当日だけでなく、そこに至るまでの日々というプロセスの中でさまざまな労苦を重ねてきたからこそ、多くの人々の胸に迫る万感の思いがあったと感じるのです。
であればこそ、多くの白人が参加しただけでなく、キング博士が当時の記者の見解として特筆していた、「平和時におけるこの国のどんな問題よりも、米国の三大宗教信仰を近づけた」という歴史的な連帯が築かれたのだと思えてなりません。

◇8回にわたって共同声明を発表
テーマは異なりますが、SGIが核兵器の禁止を目指す中、さまざまな信仰を背景とする団体と協力し、宗教コミュニティーとしての共同声明を発表してきたのも、民衆の連帯によって時代変革の波を起こしていかねばならないとの一意専心の思いからでした。
くしくも、その連帯を築く出発点となったのは、アメリカのワシントンで2014年4月に開催した宗教間シンポジウムです。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教を信仰する人々が集まり、核兵器の問題について語り合った末に、14団体の宗教者の署名による共同声明を発表したのです。
以来、同年12月にウィーンで行われた核兵器の人道的影響に関する国際会議をはじめ、2015年のNPT再検討会議や、2016年の核軍縮に関する国連公開作業部会、そして昨年の核兵器禁止条約の交渉会議など、重要な節目ごとに宗教コミュニティーとしてその場に臨み、8回にわたって共同声明を積み重ねてきました。
私たちは宗教の垣根を越えた使命感を共有していますが、連帯の紐帯はそれだけではありません。力を合わせて挑戦を前に進めること自体に、何よりの喜びを感じてきたのです。
SGIは、昨年11月にバチカン市国で行われた、核兵器のない世界への展望を巡る国際会議にも参加しました。
フランシスコ教皇は、核兵器の使用だけでなく核兵器の保有そのものについても明確に非難し、核兵器は誤った安全保障観をつくり出すだけで、「連帯の倫理」こそが平和的な共存の基盤になると訴えました。
また、核兵器禁止条約の交渉会議で多くの国々が核兵器の非人道性を踏まえて示したような「健全なリアリズム」の重要性を強調しましたが、私も深く同意するものです。

◇人類の歴史開く民衆の連帯を!
振り返れば、私が核兵器禁止の合意形成を強く呼び掛けたのは、今から50年前、キング博士が亡くなった翌月のことでした。
それだけに、キング博士が最後に行った講演の一節は、ひときわ胸に残っています。
博士は講演で、"もし人間の全歴史を眺めることができるとしたら、どの時代に生きたいか"と自問する中で、ルネサンスの時代や、リンカーンが奴隷解放宣言の署名を決断した時など、多くの出来事を見たいが、そこで立ち止まらずに、あくまで自分が生きている時代に立ち会いたいとし、こう述べました。
「さてこれは奇妙な発言だと思われることでしょう。なぜなら今世界はめちゃくちゃになっているからです。国は病んでおり、地には悩みがあり、どこにも混乱があります。たしかにこれは奇妙な発言です。しかしどういうものか、私は真っ暗な時にこそ、星はよく見えることを知っています」
「そして私がこの時期に生きることを幸せと思うもう一つの理由は、われわれは人々が歴史を通じて取り組もうとしてきた地点に、どうしても来ざるをえないようにさせられているからです」(前掲『マーティン・ルーサー・キング自伝』)と。
翻って現在、人権文化の建設に国連と市民社会が協働して取り組む流れが形づくられようとする一方で、世界の民衆の「生命の権利」を守る核兵器禁止条約の発効に向けて正念場を迎えるこの時、キング博士の言葉を今一度かみしめるべきではないでしょうか。
私たちの眼前には、人類史を画する挑戦の舞台が大きく広がっています。
すべての人々が尊厳をもって生きられる平和と共生の地球社会という「新しい現実」を創造することは決して不可能ではなく、その挑戦を成し遂げる原動力は民衆の連帯にあると、私は確信してやまないのです。

2018年2月2日金曜日

2018.02.02 わが友に贈る

厳寒の朝を駆けゆく
「無冠の友」に大感謝
転倒や交通事故を
絶対に起こさぬよう
安全を最優先で!

法門申さるべき様の事 P1268
『其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず但嶋の長なるべし、長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上面目なんど申すは旁せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか』

◇寸鉄 2018年2月2日
「励まし週間」スタート。全幹部が友の元へ!最前線から納得と歓喜の波を
「共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し」御書。共に祈り壁を破れ
疲れ切った時こそ御書を拝読していけ—戸田先生青年よ行学の両輪で前へ
情報セキュリティの日。悪質な犯罪が増加。対策ソフトの更新等、隙なく
流感は腹痛や下痢になることもあると。異変感じたら即診断。拡大を防げ

☆第43回「SGIの日」記念提言(上)1 「人権の世紀へ 民衆の大河」
◇市民社会の声が後押しした核兵器禁止条約の採択
昨年は、平和と軍縮を巡るターニングポイント(転機)の年となりました。
国連での交渉会議を経て、核兵器禁止条約がついに採択されたのです。
7月の採択以来、50カ国以上が署名しており、条約が発効すれば、生物兵器や化学兵器に続く形で、大量破壊兵器を禁止する国際的な枠組みが整います。
そもそも、核兵器を含む大量破壊兵器の全廃は、国連創設の翌年(1946年1月)、国連総会の第1号決議で提起されたものでした。以来、光明が見えなかった難題に、今回の条約が突破口を開きました。しかも、被爆者をはじめとする市民社会の力強い後押しで実現をみたのです。
その貢献を物語るように、条約制定を求める活動を続けてきたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)にノーベル平和賞が贈られました。
先月の授賞式で、ベアトリス・フィン事務局長に続いて演説したサーロー節子さんは、広島での被爆体験を通し、「人類と核兵器は共存できない」「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪」と訴えました。フィン事務局長は今月、日本を訪問し、創価学会の総本部にも来訪されましたが、演説に込められた思いは、発足まもない頃からICANと行動を共にしてきたSGIの信念と重なるものです。
ひとたび敵対関係が強まれば、相手の存在を根本的に否定し、圧倒的な破壊力で消し去ることも厭わない——。核兵器を正当化する思想の根底には、人権の根本的な否定ともいうべき冷酷さが横たわっています。
私の師である創価学会の戸田城聖第2代会長が、核開発競争が激化した冷戦の最中(57年9月)に「原水爆禁止宣言」で剔抉したのは、まさにその点でした。
抑止による平和の名の下に核の脅威が広がる中で、「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」(『戸田城聖全集』第4巻)と、世界の民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の非人道性を指弾したのです。
その遺志を継いだ私は、半世紀前(68年5月)に行った講演で、当時、交渉が終盤を迎えていた核拡散防止条約(NPT)の妥結だけでなく、製造・実験・使用のすべてを禁止する合意の追求を呼び掛けました。
また私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました。
そして、翌83年から「SGIの日」記念提言の発表を開始し、これまで35年間にわたり、核兵器の禁止と廃絶への道を開くための提案を重ねてきたのです。
なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか。
それは、戸田会長が洞察したように、核兵器がこの世に存在する限り、世界の平和も一人一人の人権も"砂上の楼閣"となりかねないからです。
SGIが核廃絶の運動を続ける中、交流を深めてきた団体の一つにパグウォッシュ会議があります。その会長を昨年まで務めたジャヤンタ・ダナパラ氏も、核問題をはじめとする多くの地球的な課題に臨むには倫理的なコンパス(羅針盤)が欠かせないと強調していました。
「倫理的な価値観という領域と、現実主義的な政治の世界は大きくかけ離れており、決して接することはないと広く考えられているが、それは正しくない。国連のこれまでの成果は、倫理と政策の融合は可能であることを示しており、平和と人類の向上に貢献してきたのは、この融合なのである」(IDN—InDepthNews 2017年1月23日配信)と。
今年で採択70周年を迎える世界人権宣言は、その嚆矢だったといえましょう。
そこで今回は、世界人権宣言の意義を踏まえつつ、地球的な課題に取り組む上で「倫理と政策の融合」を見いだすための鍵となる、一人一人の生命と尊厳に根差した「人権」の視座について論じたい。

◇ハンフリー博士の生い立ちと体験
第一の柱は、人権の礎が"同じ苦しみを味わわせない"との誓いにあることです。
国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、昨年、移民と難民を巡る問題を担当する特別代表のポストを新たに設けました。
現在、移民の数は世界で2億5800万人に達し、難民の数も増加の一途をたどる中、こうした人々に対して、ともすれば負担や脅威といったイメージばかりが先行し、排他的な風潮が強まっています。
特別代表に就任したルイーズ・アルブール氏は、「他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません」(国連広報センターのウェブサイト)と訴えていますが、問題解決の土台に据えねばならない点だといえましょう。
20世紀の歴史が物語るように、2度に及ぶ世界大戦において異なる集団への蔑視や敵意が扇動され、多くの惨劇が引き起こされてきたことを忘れてはならないからです。
国連創設の3年後(1948年12月)に採択された世界人権宣言は、こうした教訓に基づいて結実したものに他なりませんでした。
移民と難民の人々に対する差別をはじめ、現代のさまざまな人権問題を解決するためには、今一度、世界人権宣言の精神を想起し、確認し合うことが重要ではないでしょうか。
国連の初代人権部長としてその制定に尽力したジョン・ハンフリー博士と、以前(93年6月)、お会いしたことがあります。
世界人権宣言の意義などについて語り合う中、深く胸に残ったのは、博士自身が直面してきた差別や体験の話でした。
カナダ出身の博士は幼い頃、両親を病気で亡くし、自らもひどい火傷を負って片腕を失う悲劇に見舞われます。兄や姉とも離れて生活し、入学した寄宿学校では、その生い立ちのために、いじめや心ない扱いを受け続けました。
大学卒業後、結婚をした翌月に起きたのが世界恐慌で、博士自身は仕事を続けられたものの、いたる所で見かける失業者の姿に胸が痛んでならなかったといいます。また、1930年代後半にヨーロッパで研究生活を送った時には、ファシズムによる抑圧を目の当たりにし、一人一人の権利を国際法によって守る必要性を痛感したのでした。
博士はある時、「世界人権宣言について誇りに思うことは、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的権利を入れることができたことです」と述懐していました。
こうした博士の生い立ちや体験が、世界人権宣言の草案をまとめる際に大きく影響したのではないかと思えてなりません。
実のところ、博士の功績は、20年に及ぶ国連の人権部長の仕事を終えた後も、長らく知られないままの状態が続きました。
博士が私に強調しておられたように、世界人権宣言はあくまで「多くの人の共同作業」で制定されたものであり、「"作者不明"であったところに、この宣言が、いくらかの威信と重要性をもてた理由があった」というのが、博士の考えだったからです。
それでも私は、博士から草案の復刻版をいただいた時、手書きの文字の一つ一つに、誰もが尊厳をもって生きられる社会の実現を願う"種蒔く人の祈り"が込められているのを感じてなりませんでした。
その心情を多くの人に伝えたいとの思いで、SGIでは「現代世界の人権」展などで、草案の復刻版を紹介してきたのです。
海外初の開催となったカナダのモントリオールでの同展の開幕式(93年9月)で、博士との再会を果たし、世界人権宣言の精神を未来に語り継ぐことを誓った時の思い出は、今も忘れることはできません。

◇獄中で培った確信
世界人権宣言が採択された48年は、一方で、南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離)政策が始まった年でもありました。
その撤廃を目指し、自らが受けた差別への怒りや悲しみを乗り越えながら前に進み続けたのがネルソン・マンデラ元大統領です。
初めてお会いしたのは、マンデラ氏が獄中生活から釈放された8カ月後(90年10月)でした。
青年時代に解放運動に立ち上がった思いを、マンデラ氏は自伝にこう綴っています(『自由への長い道(上)』東江一紀訳、NHK出版)。
「何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて、怒りが、反抗心が、同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた」と。
投獄によってさらに過酷な扱いを受けたものの、氏の心が憎しみに覆われることはありませんでした。
どんなに辛い時でも、看守が時折のぞかせる「人間性のかけら」を思い起こし、心を持ちこたえさせてきたからです。
すべての白人が黒人を心底憎んでいるわけではないと感じたマンデラ氏は、看守たちが話すアフリカーンス語を習得し、自ら話しかけることで相手の心を解きほぐしていきました。
横暴で高圧的だった所長でさえ、転任で刑務所を離れる時には、マンデラ氏に初めて人間味のある言葉をかけました。
その思いがけない経験を経て、所長が続けてきた冷酷な言動も、突き詰めていけば、アパルトヘイトという「非人間的な制度に押しつけられたもの」だったのではないかとの思いに行き着いたのです。
27年半、実に1万日に及ぶ獄中生活を通し、「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない」(『自由への長い道(下)』)との揺るぎない確信を培ったマンデラ氏は、出獄後、大統領への就任を果たし、「黒人も白人も含めたすべての人々」の生命と尊厳を守るための行動を起こしていきました。
大勢の黒人が白人のグループに殺害され、黒人の間で怒りが渦巻いた時にも、型通りの言葉だけで融和を図ろうとはしませんでした。
ある演説の途中でマンデラ氏は、突然、後方にいた白人の女性を呼んで演台に迎え、笑みをたたえながら"刑務所で病気になった時に看病してくれた人です"と紹介しました。
問題は人種の違いではなく人間の心にある——その信念を物語る場面を目にした聴衆の雰囲気は一変し、復讐を求める声も次第に収まっていったのです。
この振る舞いは、自身を縛り続けてきた"非人間性の鎖"の重さが身に染みていたからこそ表れたものではないでしょうか。

◇法華経に描かれた不軽菩薩の実践
私どもが信奉する仏法にも、マンデラ氏が抱いた「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない」との確信と響き合う行動を、どこまでも貫いた菩薩の姿が説かれています。
釈尊の教えの精髄である法華経に描かれている不軽菩薩の行動です。
不軽菩薩は周囲から軽んじられても、"自分は絶対に誰も軽んじない"との誓いのままに、出会った人々に最大の敬意を示す礼拝を続けました。
悪口を言われ、石を投げつけられても、"あなたは必ず仏になることができます"と声をかけることをやめなかった。
マンデラ氏が獄中でひどい仕打ちを受けても、人間性に対する信頼を最後まで曇らせなかったように、不軽菩薩はどれほど周囲から非難されても、相手に尊極の生命が内在していることを信じ抜いたのです。
"万人の尊厳"を説いた法華経に基づき、13世紀の日本で仏法を弘めた日蓮大聖人は、その行動に法華経の精神は凝縮しているとし、「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と述べました。
「仏」である釈尊の出世の本懐が、「人間」としての振る舞いにあったとは、逆説的に聞こえるかもしれません。
しかし、釈尊が人々の心に希望を灯したのは、超越的な力によるものではなく、目の前の人が苦しんでいる状態を何とかしたいという人間性の発露に他なりませんでした。
重い病気で寝たきりになった人に対し、周りが手をこまねいている時に、見過ごすことはできないと体を洗って励ましたのが釈尊であり、視力を失った人が衣服のほころびを直したいと思い、"誰か針に糸を通してもらえないだろうか"とつぶやいた時、真っ先に声をかけて、手を差し伸べたのも釈尊でした。
その一方で、頼みにしていた2人の弟子を亡くし、胸を痛めながらも自らを鼓舞して前に進むことをやめなかったのが釈尊であり、80歳を過ぎて体の無理がきかなくなったことを受け止めつつも、人々のために最後まで法を説き続けたのが釈尊だったのです。
失意の闇に沈む人がいれば寄り添い、辛い出来事があっても心に太陽を昇らせて、人々を励まし勇気づける——。この人間・釈尊の振る舞いという源流があればこそ、法華経の"万人の尊厳"の思想は、生き生きとした脈動を現代まで保ち続けることができたのではないかと思えてなりません。
大乗仏教において、仏を「尊極の衆生」と名付けていたように、仏といっても、人間と隔絶した存在では決してない。不軽菩薩のように、自己の尊厳に目覚め、その重みをかみしめながら、周りの人々を大切にする人間の振る舞いが、そのまま、仏界という尊極の生命の輝きを放ち始めるというのが、法華経の核心にある教えなのです。
大聖人は、この生命のダイナミズムを、「我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」(御書413ページ)と説きました。
仏法には、苦難を抱えながらも、人々のために行動する一人一人の存在こそ、尊厳の光で社会を照らし出す当体に他ならないとの思想が脈打っているのです。
人権も同じく、法律や条約があるから与えられるものではないはずです。人間は本来、誰しもかけがえのない存在だからこそ、自由と尊厳が守られなければならないのです。
人権を守る法制度づくりに息吹を吹き込んできたのも、ハンフリー博士やマンデラ元大統領のように、差別や人権侵害に見舞われながらも、"この辛い思いを誰にも味わわせてはならない!"と、社会の厳しい現実の壁を一つまた一つと打ち破ってきた人たちの存在だったのではないでしょうか。

◇厳しい弾圧の中で貫き通した信念
私どもSGIの平和運動の源流は、第2次世界大戦中に日本の軍部政府と戦い抜いた、創価学会の牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の信念の闘争にあります。
牧口会長は20世紀初頭に著した『人生地理学』で、植民地支配の広がりによって世界の多くの民衆が苦しんでいる状況に胸を痛め、「競いて人の国を奪わんとし、之がためには横暴残虐敢て憚る所にあらず」(『牧口常三郎全集』第1巻、第三文明社、現代表記に改めた)と警鐘を鳴らしました。
また、日本が軍国主義への傾斜を強め、その影響が教育にも色濃く及ぶ中で、1930年に『創価教育学体系』を世に問い、子どもたちの幸福と社会全体の幸福のために価値創造の力を養うことに教育の目的があると訴え、自ら実践の先頭に立ち続けました。
その信念は、国家総動員法=注1=が敷かれ、「滅私奉公」のスローガンの下、政治や経済から文化や宗教にいたるまで統制が進んだ時も変わることはなく、「自己を空にせよということは嘘である。自分もみんなも共に幸福になろうというのが本当である」(同第10巻、現代表記に改めた)と、軍部政府の方針に痛烈な批判を加えたのです。
思想弾圧によって機関紙が廃刊を余儀なくされ、会合に特高刑事の監視がつくようになっても、一歩も退かずに声を上げ続けた結果、牧口会長は43年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で弟子の戸田理事長(当時)らと共に逮捕されました。
「表現の自由」「集会の自由」「信教の自由」のすべてが奪われ、投獄までされながらも、牧口会長は最後まで信念を曲げることなく、獄中で73年の生涯を終えたのです。
マンデラ元大統領の忘れ得ぬ言葉に、新しい世界を勝ち取る人間とは腕組みをした傍観者などではなく、「暗澹たるときでも真実を見限ることなく、あきらめることなく何度も試み、愚弄されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人」であるとあります(『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』長田雅子訳、明石書店)。
獄中で生涯を閉じたという事実だけを見れば、牧口会長の信念は結実をみなかったように映るかもしれません。しかし、その信念は、獄中闘争を共に貫いた戸田第2代会長に厳然と受け継がれ、途絶えはしなかったのです。
冷戦が深まる中で朝鮮戦争が起きた時、戸田会長の心を占めていたのは、「戦争の勝敗、政策、思想の是非」といった国際政治の次元で語られる関心事ではありませんでした。
「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないか」と憂慮し、「人民がいくところがない。楽土にたいする希望がないほど悲しきことはない」(『戸田城聖全集』第3巻)と述べたように、その思いは牧口会長と同じく、何よりも民衆の窮状に向けられていたのです。
56年にハンガリー動乱が起きた時にも、その眼差しは変わりませんでした。政治的な経緯もさることながら、「国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる」とし、「ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたい」と、時代変革の波を民衆の行動で起こすことを固く誓ったのです。
こうした信念に基づき、どの国の民衆も踏み台にされることのない世界を築く「地球民族主義」を提唱した戸田会長が、絶対に見過ごすことのできない一凶と捉えていたのが、民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の問題に他なりませんでした。
であればこそ戸田会長は逝去の7カ月前に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器の禁止と廃絶への道を切り開くことを、当時、青年だった私たちに託したのであります。

◇一人一人の生命と尊厳を守り抜く
このように、二人の先師にとって世界平和の追求は、国家間の緊張解消や戦争の防止にとどまらず、民衆一人一人の生命と尊厳を守り抜くことに主眼がありました。
SGIが核兵器禁止条約の制定を目指す中で、「生命の権利」を守る人権アプローチを重視してきたのは、牧口会長と戸田会長の精神を受け継いだものだったのです。
その意味でも、禁止条約が軍縮に関するものでありながら、国際人権法の精神を宿していることに深い意義を感じてなりません。
条約の最大の特色は、核兵器を禁止する理由として「すべての人類の安全」への危険性を挙げ、被害を受ける"人間"の観点を条約の基礎に据えていることにあります。また、条約に関わる主体として、国家だけでなく、市民社会の役割の重要性を明確に位置付けていることです。
歴史を振り返れば、国際社会における個人の存在を、同情の対象ではなく権利の主体として位置付けるきっかけとなったのは、「われら人民」の言葉で始まる国連憲章であり、「すべての人」という主語を掲げる条文などで構成された世界人権宣言でした。
核兵器禁止条約でも、自らの被爆体験を通して核兵器の非人道性を訴え続けてきた行動の重みをとどめるべく、「被爆者」の文字が前文に刻まれています。
禁止条約の交渉会議で、市民社会の代表が座っていた席は議場の後方でした。
しかし、ある国の代表が、市民社会は"尊敬の最前列"にあったと語ったように、禁止条約を成立させる原動力となったのは、広島と長崎の被爆者や核被害を受けた世界のヒバクシャをはじめ、心を同じくして行動を続けてきた市民社会の声だったのです。
SGIもその連帯に連なり、ICANとの共同制作による展示を通した核兵器の非人道性に関する意識啓発や、国連への作業文書の提出などを通して、核兵器禁止条約の制定プロセスに深く関わってこられたことは、大きな喜びとするところであります。
平和や人権といっても、一足飛びに実現できるものは何一つありません。
"自らが体験した悲惨な出来事を誰の身にも起こさせない"との誓いが平和と人権を守る精神的な法源となり、市民社会の間で行動の輪が大きく広がる中でこそ、一人一人の生命と尊厳を守る法律や制度の基盤は固められていくのではないでしょうか。

◇国と国をつなぐインフラの構築
次に第二の柱として挙げたいのは、分断を乗り越える人権教育の重要性です。
近年、移民と難民の急増に伴う入国管理の強化や資源の領有に関する係争など、国境を巡る問題がさまざまクローズアップされるようになってきています。
一方で、それとは正反対の動きが勢いを増していることが注目されます。
多くの国を直通で結ぶ鉄道をはじめ、国をまたいだ電力供給網やインターネットの海底ケーブルの敷設など、共通インフラの整備が広がっていることです。
最新の研究によると、これまで敷設された海底ケーブルは約75万キロ、鉄道は約120万キロといったように、その長さは、世界の国境線の総計である25万キロをはるかに上回る規模になっています。
また、こうしたインフラの構築に投入される費用は年間で3兆ドルに達し、世界全体の防衛費の年額(1兆7500億ドル)よりも多く、その差は広がる傾向にあるというのです。
この状況を踏まえて、地政学の見直しを提唱するシンガポール国立大学のパラグ・カンナ上級研究員は、次のように指摘しています(『「接続性」の地政学(上)』尼丁千津子・木村高子訳、原書房)。
「構築されたインフラの全体図が地図に記されていないために、国境線は、人が創造した地理を映し出すどんな手段より勝っているような印象を受ける。だが、今日では真実はその逆である。国境線が重要な役割を果たすのはあくまでその場のみで、他の線のほうが重要な場合がはるかに多いのだ」と。
共通インフラの構築は、EU(欧州連合)のような地域にとどまらず、緊張を抱える地域でも見られ、その利用を通じて互いに受ける恩恵が「自然の地理と政治的地理がそれぞれ抱えている問題点」を克服する契機にもなりうると強調しているのです。
国境線という「政治的な地理」の現実を踏まえつつも、共通インフラの果たす役割に着目し、「機能的な地理」の姿を浮かび上がらせようとしたカンナ氏の試みに、私は、先に言及した牧口初代会長の『人生地理学』を貫く眼差しと相通じるものを感じます。
地理への認識が人間や国家の行動に及ぼす影響を重視した牧口会長は、行動の基軸を「人道的競争」に置くこと、すなわち、「その目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」方法を意識的に選び取ることを呼び掛けていたからです(前掲『牧口常三郎全集』第2巻、現代表記に改めた)。
国境線がどの国にとっても譲れないものだとしても、越境して結ばれる共通インフラの線が増えれば、それだけ国と国との関係は豊かなものに変わっていく——。こうした動きは、牧口会長が提唱した「人道的競争」への萌芽ともいえるものではないでしょうか。
牧口会長の思想の根幹には"価値は関係性から生じる"という哲学がありましたが、異なる存在を結ぶつながりを広げることは、人権を巡る課題を前に進める上でも欠かせない要素であると私は考えます。マンデラ氏が、白人の看守や看護師といった人々との個人的な結びつきを広げ、出獄後の政治活動の礎ともなった人間性に対する確信を深めていったように、さまざまな差異があっても、互いの関係性をプラスの価値を生み出す方向へと転じることはできるからです。