2017年1月29日日曜日

2017.01.29 わが友に贈る

人生は自己との闘争だ。
戦いがあるから面白い。
悩みや課題があるから
人間革命できるのだ。
楽しく強く進み勝て!

聖愚問答抄上 P491
『知恩をもて最とし報恩をもて前とす世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす』

☆女性に贈ることば 一月二十九日
真剣ほど強いものはない。物事に真剣に取り組んでいる姿ほど若々しく、美しいものはない。

☆今日のことば365 一月二十九日
人間は、皆、虚栄を張るものだ。
しかし、これからの指導者は、
確固たる力をもつ、人間でなくてはならぬ。

☆「雪の秋田指導」35周年記念特集� 2017年1月11日
◇世界の友が仰ぎ讃えむ
1982年(昭和57年)の1月10日から15日まで行われた「雪の秋田指導」。池田先生は「それは忘れえぬ 決して忘れることのできぬ 私の胸中の歴史の一コマであった」とつづっている。今回は「雪の秋田指導」35周年記念特集として2回にわたって掲載する。�では、先生の足跡を追い、「励ましのドラマ」に迫る。

秋田文化会館の1階ロビーにある金色に輝く銘板。池田先生の長編詩「みちのくの幸の光彩」が刻まれている。
その銘板の由来文に、先生は秋田の友への万感の思いをつづった。
「忍耐強く試練の冬を勝ち越えし不屈の勇者あり」
「全世界の創価の同志も その英姿を仰ぎ讃えむ」
——1977年(昭和52年)ごろから、秋田で第1次宗門事件が勃発。悪侶が退転・反逆者と結託し、謀略の限りを尽くした。
秋田の友は懸命に耐えた。その迫害の嵐を乗り越え、師弟の勝利の雄叫びが轟いたのが、82年(同57年)1月の「雪の秋田指導」である。

1982年(昭和57年)1月10日、池田先生は10年ぶりに秋田の地を踏んだ。
"一目でも"と、師を求める同志が、空港からの沿道に、次々と集まってきていた。寒風が吹きすさぶ中で、先生は居合わせた友と記念撮影を。会館到着後も、カメラに納まり、激励を重ねた。
その回数、計9回。空港到着後から、わずか1時間で励ました友は、約1000人に及んだ。"正義の心"熱き友との出会いの感動を、先生は詠んだ。
「寒風に 喜々と求道 広布へと 胸張る秋田の 友は光りぬ」
翌11日午前、先生は秋田会館(当時)で、元日から行われていた「池田SGI会長 平和行動展」へ足を運んだ。
同展は秋田青年部が企画し、準備に当たってきた。前日の10日には、来館者が1万人を突破。元日から、秋田の友は、師の正義を地域に宣揚していたのである。
その後、代表メンバーとの懇談会場へ。
この場にいた加藤ユミさん(故人)。80年(同55年)に、学会の親善交流使節団の一人として、アメリカを訪問できた感謝を伝えた。
先生は「海外に行くなんて、すごいね」。すると、加藤さんは「私は折伏をしました。そうしたら、いつの間にか海外に行けるような境涯になりました」。
先生の言葉に力がこもった。
「偉いな。愚直に学会活動に励んだ人が、一番幸せになるんだ」

秋田指導3日目の12日、県幹部会が行われた。
伊藤克己さん(秋田黄金県、県副総合長)は、妻の陽子さん(同、県副婦人部長)と、幹部会に駆け付けた。
宗門事件で、伊藤さんの男子部時代の先輩が退転した。信頼していただけに、激しい怒りが込み上げた。
伊藤さんは「先生とお会いして"自分たちの地域の広宣流布は、自分たちの手で成し遂げていく"と腹が決まりました」と。
この誓いのままに、陽子さんと、地域広布にまい進してきた。その情熱は今も赤々と燃え、この10年で、夫妻は9世帯の弘教を実らせている。
陽子さんは、民生児童委員を18年にわたって務めるなど、地域貢献にも率先する。
「生涯、広布に戦い続ける。それが『雪の秋田指導』の報恩だと思っています」と、夫妻は口をそろえた。
翌13日午前、秋田文化会館に続々と友が集まってきた。先生の提案で、「自由勤行会」の開催が決まったのである。その場には、宗門事件の嵐が激しかった県北の能代、県南の大曲の友の歓喜した姿もあった。
勤行会終了後、会館に隣接する広場で、記念撮影が行われることに。降りしきる雪の中で、「人間革命の歌」の合唱が響き、師弟の勝ちどきが轟いた。
勤行会は午後も行われ、合わせて、約3000人が師のもとに集った。
先生は午前の友に「吹雪グループ」、午後の友に「嵐舞グループ」との名を贈った。さらに後年、行事の成功を自宅で祈り、見守った友は「雪の秋田指導 栄光グループ」と命名された。
先生は"栄光グループ"に対し「純白の雪の如く清らかな、その深き真心を、私はどうして忘れることができようか」と感謝をつづっている。
会えても、会えなくても、深く通い合う師と弟子の心。その絆は今も燦然と輝き、秋田広布の未来を照らし続けている。

秋田を発つ前日の14日午後6時、青年部と未来部の代表が集い、第1回秋田県青年部総会が開催された。
この総会で、青年たちが心に刻み、今も語り継ぐ師の言葉がある。スピーチを終えた後、先生は会場の出口付近で、高らかに宣言した。
「きょう、私は正式に語っておきます。自分が思うと思わざるとにかかわらず、諸君は池田門下生であると思っています。信頼しています!」
総会に参加した栗田由美子さん(湯沢太陽県、県婦人部長)。この時が初めての師との出会いだった。
「まだまだ未熟な私たちのことを"池田門下生"とおっしゃってくださった。"この誇りを絶対に忘れない"と誓いました」
翌年、夫・民男さんと結婚。2人の子を授かった。経済的には苦しかったが、家族仲良く、幸せな生活だった。
91年(平成3年)、民男さんが心筋梗塞で倒れた。4カ月後に退院できたが、仕事ができる体ではなかった。
栗田さんは、保険の営業職に就いた。6年後、民男さんは霊山へ旅立ったが、"池田門下生"の誇りを胸に、仕事・家事・子育て・学会活動と、全てをやり切ってきた。
昨年11月、県婦人部長の任命を。「地域に功徳の花を咲かせていきます」と誓う。
渡辺達美さん(本荘大勝県、副支部長)も、会場にいた一人。
当時、入会5年。前日の撮影会にも参加し、勝利の凱歌を響かせた。「今の自分があるのは、秋田指導での先生の励ましがあったからです」と感謝は尽きない。
2011年(平成23年)5月、建築業を営む渡辺さんは、東日本大震災の被災地で仮設住宅の建設に携わった。その奮闘の様子を、先生は「秋田魁新報」の特別寄稿の中で紹介した。
"ここまで見守り、励まし続けてくださるのか"。先生の真心に応えんとする誓いを深くした。
渡辺さんは、多忙な合間を縫って勉強に励み、1級技能士や職業訓練指導員など数々の資格を取得してきた。一昨年には、厚生労働省が推進する「ものづくりマイスター」に選ばれ、若者の技能者育成にも尽力する。
12年(同24年)、妻・紀佐子さん(同、県副婦人部長)の乳がんが発覚した。だが、夫婦で懸命に祈り、抗がん剤治療等を経て、紀佐子さんの体調は回復。現在まで再発はない。
地域では待望の新「本荘文化会館」が昨年に完成し、大きな喜びが広がる。
渡辺さんは誓う。
「あの雪の中で合唱した『人間革命の歌』を歌いながら、夫婦で力を合わせ、広布拡大にまい進していきます」
松下誠さん(同、副県長)も、師の"池田門下生"の宣言を胸に刻む。
82年の元日から"平和行動展"の役員として奔走。14日の総会には、吹雪の中を、自宅から3時間かけて集った。
高校卒業後、実家の農家を継いだ。長年、米作りを続けていたが、89年(平成元年)に地元の酒蔵と契約し、酒米作りも始めることに。
数年間、収穫前に酒米の稲が根元から倒れるなど、試練が続いた。しかし、師の"宣言"を思い返しては、「絶対に負けない」と"負けじ魂"を燃やした。
創意工夫を重ね、5年目の挑戦で、ついに見事な稲が育った。そのことが、周囲の農家の信頼にもつながった。
2年前、県地域部長に。「先生が言われる通り、地域に根差すことが大事だな」。そう言って、松下さんは屈託ない笑顔を見せた。

秋田県青年部総会の参加者は「2001年第1期会」と命名され、現在の秋田広布の中核を担っている。
5年前の「雪の秋田指導」30周年の折には、秋田の青年部と未来部の人材グループ「2030年第1期会」が結成され、新たな出発を切った。
池田先生は、秋田青年部に呼び掛けている。
「偉大なる秋田の青年たちよ! 団結せよ! 立ち上がれ! 断固として、勝利を勝ち取れ! 君たちのあとに、日本国中の青年が立ち上がるだろう!」
師が「広宣流布の『日本海の雄』」と讃える秋田。その後継の青年たちが、新たな歴史の幕を開く。