2017年1月12日木曜日

2017.01.12 わが友に贈る

挑戦している人には
嘆きも愚癡もない。
清新の息吹が漲る。
生まれ変わった決意で
前進また前進!

一生成仏抄 P384
『迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し』

☆女性に贈ることば 一月十二日
心の置き方ひとつで決まる。「楽観主義で生きよう」と決めれば、逆境も苦難も、人生のドラマを楽しむように、悠々と乗り越えていくことができる。
心の窓を大きく開いて、希望の青空を仰いで生きることだ。
「明日はきっと、よくなる!」−−と。

☆今日のことば365 一月十二日
一人の偉人を育てるよりも
 私は 健全なる 常識人を求めたい
偉人には
 多くの犠牲者をともなうことを
  恐れるからだ

☆1月度座談会拝読御書 生死一大事血脈抄
◇本抄について
本抄は文永9年(1272年)2月11日、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地・佐渡の塚原で認められ、最蓮房に与えられた御書とされます。本抄は、最蓮房が「生死一大事血脈」という仏法の極理について質問したことに対する御返事です。
「生死一大事」とは、生と死を繰り返して流転する生命において根本の大事、つまり万人成仏の法を意味します。また「血脈」とは、法が仏から衆生へ伝えられていくことを、親から子へ血筋が受け継がれることに譬えた言葉です。結局、「生死一大事血脈」とは、仏から衆生に伝える根本的に重要な成仏の法を意味します。
大聖人は本抄で、「生死一大事血脈」とは妙法蓮華経であることを、天台・伝教の釈を引いて明らかにされます。そして、衆生が生死一大事の血脈を受け継ぐために、どのような信心の姿勢に立つべきかを、3点にわたって示されます。
第一に、仏と法と衆生の生命の三つに差別がない、すなわち妙法の当体である衆生自身の胸中に尊極な仏の生命が具わっていることを信じて題目を唱える実践です。
第二に、三世にわたって御本尊から離れないという持続、不退転の信心です。
第三に、広宣流布を目指して、異体同心で南無妙法蓮華経と唱える中にこそ、生死一大事の血脈があることを教えられています。拝読御文は、この3点目の仰せの中の一節です。

◇拝読御文
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か

◇異体同心
「異体同心」とは、広宣流布を進めるに当たって、私たちが信心を根本に団結していく時に最重要とすべき指針です。「異体」とは、それぞれの見かけ、個性、特質、立場などが異なることです。「同心」とは、志、目的を同じくすることです。各人が同じ心に立って、力を合わせていくことをいいます。
仏法の実践においては、万人成仏を実現するために妙法を説き弘めていく広宣流布こそが、仏の大願であり、根本の目的です。ゆえに同心の「心」とは、信心のことであり、広宣流布という大願に心を合わせていくことにほかなりません。
すなわち、各人の個性や特質を生かし、一人一人の可能性を最大限に発揮しながら、広宣流布を目指していくことが、異体同心です。
日蓮大聖人は、「異体同心事」でこう仰せです。
「異体同心なれば万事を成じ」「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書1463ページ)
信心の団結によって、さまざまな難を乗り越えながら前進すれば、仏法が必ず広まっていくことは間違いないと、大聖人は教えられているのです。
池田先生は、次のように述べています。
「異体同心というのは、現代で言えば『組織』ということです。『異体』というのは、人それぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。しかし『心』は——信心は『同心』でいきなさいというのです」
異体同心の組織があれば、仏の広布大願が途切れることなく継承され、広宣流布が成就することは、大聖人の仰せに照らして間違いありません。
異体同心の指針のままに、一人一人が存分に力を発揮しながら、大聖人の御遺命である広宣流布へ前進していきましょう。

◇広宣流布の大願
日蓮大聖人は拝読御文で「広宣流布の大願」と仰せです。ここでいう「大願」とは、自身の成仏とともに一切衆生を救済しようとする、仏や菩薩の願いのことです。この大願と同じ意義の言葉に「誓願」があります。
法華経の方便品には、釈尊自身の誓願について「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(法華経130ページ)と説かれています。全ての人々の内面に、自身(釈尊)と同じ仏の境涯を開かせたいという誓願のままに釈尊は仏法を弘めました。
また、法華経では釈尊が弟子たちに対して、"万人の成仏を説き明かした法華経を弘める者はいないか"と呼び掛けています。これを受けて、弟子たちも妙法弘通を誓います。
この"万人の成仏を願う法華経の心"のままに、末法広宣流布の誓願を生涯、貫かれたのが大聖人です。「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224ページ)、「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(同1056ページ)との仰せの通り、死身弘法の御生涯を貫かれました。
そして、この御本仏のお心のままに広布の大願に生き抜いてきたのが、創価三代の会長であり、なかんずく池田先生であることはいうまでもありません。
池田先生は「『広宣流布の大願』と『仏界の生命』とは一体です」と述べています。広布の誓願と仏界の生命は一体です。広布の誓願を貫く中に、崩れざる幸福境涯が築かれることを心に刻みましょう。

◇最蓮房
最蓮房は、元は天台の学僧であり、日蓮大聖人と同じ時期に何らかの理由で佐渡へ流罪となり、文永9年(1272年)2月初めに大聖人に帰依したとされます。
大聖人は、弟子となった最蓮房に与えられた御書の各所で、"師弟の深い因縁"を述べられています。
例えば、本抄では「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか」(御書1338ページ)——過去の宿縁(過去世に作った因縁)から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか——と仰せです。
最蓮房は、大聖人の弟子となったために、さまざまな難を受けたようです。大聖人は、御自身も大難の渦中にありながら、「難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ」(同1337ページ)——(最蓮房は)法華経のゆえに難に遭われており、その心中が思いやられて心を痛めている——と述べられ、深い慈愛の激励をされています。
最蓮房は難に屈することなく、厚い求道心をもって信心を貫いていったと考えられます。それは、最蓮房が、たびたび大聖人に法門についての質問をし、甚深の法門を明かされた御書を頂いていることからうかがえます。

◇池田先生の指針から 心を一つにして祈ろう
「異体同心」についての大聖人の教えの要点を述べれば、第一に、異体同心こそ万事において「事を成就するための鍵」「勝利の要諦」であると強調されています。
第二に、特に仏と魔との戦いである末法広宣流布においては、「異体同心の団結」が絶対に不可欠である。
そして、いかに広宣流布を妨げる悪の勢力が強くても、「異体同心の団結」があれば、必ず勝ちこえていけるとの大確信を打ち込まれています。
異体同心は、いわば「法華経の兵法」の究極であると言えます。「法華経の兵法」とは、要するに「祈り」です。なかんずく、異体同心とは、「心を一つにして祈る」ことにほかなりません。(『生死一大事血脈抄講義』)
◇ ◆ ◇
広宣流布への祈りを根幹とする異体同心の前進には、勢いがあり、勝利への力があります。
さらにまた、その中で前進している人々は仲がよく、労苦があっても楽しい。その勝利のリズム、躍動のリズムを築くための要諦は、ひとえに「同心」にあります。
すなわち「広宣流布の大願」という「仏の心」に皆の心を合わせていくから、妙法のリズムが生まれる。
仏の尊極の心に共鳴していくから、成長があり、前進があり、歓喜があり、勝利がある。
また、世間的な仲間意識やつながりを、はるかに超えた、崩れることのない「人材の城」「幸福の城」「平和の城」ができあがるのです。
「仏の大願」「師の心」に自分の心を合わせるのが異体同心です。その意味で、異体同心の核心も「師弟不二」にあるといってよい。
本抄では、大聖人の弘通の「所詮」つまり目指すところは、「異体同心」の実現にあるとの重要な御指南をされています。
これは、異体同心の組織こそが、仏の血脈を通わせることができるからです。師弟不二の実践を、どこまでも大きく広げ、いつまでも長く通わせる力を持っているのが、異体同心の和合僧です。(同)