未来部育成に全力を!
長所を見つけ
褒めて伸ばそう!
「後継の宝」の成長が
人類の命運を決める。
千日尼御前御返事 P1314
『あわれあわれふしぎなる事かな、此れもかまくらも此の方の者は此の病にて死ぬる人はすくなく候、同じ船にて候へばいづれもたすかるべしともをぼへず候いつるにふねやぶれてたすけぶねに値えるか、又竜神のたすけにて事なく岸へつけるかとこそ不思議がり候へ』
☆女性に贈ることば 一月二十五日
日々、より高く、より深く、より広い何かを求めて進歩する。
人のため、社会の平和のために行動する。
そこにかぎりない向上がある。充実がある。安心も幸福もある。何よりも若々しく生きられる。
☆今日のことば365 一月二十五日
趣味は豊かな心の泉である。その泉のなかより、自然にわきいづるものが尊いのである。また、趣味は、人間性の美しい色彩でもある。平凡のなかに、キラリと輝く人間性---ここに真実の美しさ、気品があり、趣味の真髄がある。
☆「雪の秋田指導」35周年記念特集㊦ 2017年1月12日
◇一人ももれなく幸福王者と輝け
池田先生は秋田への万感の思いを詠んでいる。「おお秋田 偉大な秋田に 勝利あれ 一人ももれなく 幸福王者と」。友の幸福を願い、見守ってきた先生。その深き真心に応えてきた秋田の同志。「雪の秋田指導」35周年記念特集㊦では、総秋田青年部の抱負と、"秋田の魂"を継ぐ一家の代表を紹介する。
◇総秋田 齋藤光一青年部長 "秋田の闘魂"は我らが継ぐ
1982年(昭和57年)1月10日、池田先生は秋田へ。空港から会館までの途上、同志を見つけては車から降り、雪でぬかるんだ道を、革靴のまま踏みしめて同志を励まされました。
この折の「雪の秋田指導」で刻まれた数々の黄金の歴史を受け継ぐため、総秋田青年部は会合や研修会などで先生の足跡、指導を研鑽してきました。
当時の歴史を学ぶほど、皆の胸に使命の天地で戦う誇りがみなぎり、雪道を訪問激励に向かう一歩一歩にも力がこもります。
現在、「『正義の秋田』――青年・大拡大月間」を驀進しています。男子部・学生部はかつてない対話に挑み、女子部はロマン総会の大成功へ励ましの輪を拡大。元日から多くの弘教が実り、広布の息吹がみなぎっています。
「雪の秋田指導」の場に居合わせた先輩が口々に言われること。それは「悪は許してはならない」「正義は叫ばなければならない」との"秋田の闘魂"です。
「日本海の雄」秋田の新たな青年の陣列を築いてまいります。
◇秋田嵐舞県 長谷部信男さん・俊子さん 師の温かさ知った原点
いつ師匠が来るかは分からなかった。それでも、長谷部俊子さん(婦人部副本部長)は、まだ幼かった長男の良弘さん(千秋光彩県、県男子部長)、長女の良美さん(県女子部主任部長)を抱え、秋田空港の近くで待ち続けた。
「どうしても、お会いしたかった。その気持ちだけで、その場に数時間いました」
1982年(昭和57年)1月10日の午後2時過ぎ、池田先生を乗せた車が近づいてきた。先生は車から降り、俊子さんと握手を。良弘さんの姿を見つけて、「創価大学に」と声を掛け、良美さんの頭をなでた。
「先生はね、あったかい人。時間にして数分だったと思う。だけど、あの感激は忘れられない」
雪の降る中で行われた13日の記念撮影にも、俊子さんは参加。師と共に勝ちどきを上げたことは、黄金の思い出だ。
夫の信男さん(副本部長)は、牙城会の一員として、13日の撮影の整理役員に就いていた。「県内から集う同志の姿を見て、改めて思いました。"学会は、先生と同志の一対一の絆でできているんだ"と」
14日の第1回秋田県青年部総会に集ったことは、誉れの原点である。
良弘さん、良美さん、次男の洋治さん(男子部員)は、父母の姿に、信心の姿勢を学んだ。
良弘さんは高校卒業後、建設会社に就職。1級土木施工管理技士などの資格を取得した。
2013年(平成25年)、創価大学通信教育部に入学。働きながら学ぶ努力を続ける。
昨年、弘教を実らせた。「青年の陣列を拡大します」と意気込む。
良美さんは、座談会などで、「雪の秋田指導」について学んできた。「時を重ねるほど、いかに大切な場にいたのかを実感します」と語る。
これまで訪問激励に尽力し、女子部の連帯を拡大。「一人を徹して大切にし、幸の輪を広げていきます」と決意する。
洋治さんは、仕事が多忙な中、果敢に対話に挑戦している。
地域で着実に信頼を積み重ね、学会理解の輪を広げてきた長谷部さん夫婦。「私たちが先生の恩に応えるには、広布拡大しかない。まだまだ頑張るよ」――そう声を弾ませる夫婦の姿には、「雪の秋田指導」の感動が、今も躍動していた。
◇能代広宣県 佐藤真一さん・サヨさん 一日も忘れたことはない
「これをね、いつもポケットに入れているんです」。そう言って、佐藤真一さん(総県総合長)が取り出した1枚の紙。「『雪の秋田指導』の時の池田先生の指導です」
妻のサヨさん(総県副婦人部長)が「『雪の秋田指導』のことを忘れたことは、一日もありません」と言葉を続けた。
真一さんは、能代市・多宝寺の檀家総代だった。1978年(昭和53年)の元日、"学会を離れないから"という理由で、解任された。
「宗門は先生、学会のおかげで発展したんでしょ。それなのに、弓を引くなんて、あまりにもばかげている。私は『お前たちなど相手にしない!』と叫んで寺を出ましたよ」
宗門の迫害が続く中、サヨさんは二ツ井支部の支部婦人部長に就任。仏法の正義は学会にしかないと語り抜いた。
そうして迎えた82年(同57年)1月12日。サヨさんは、先生との懇談の席に招かれた。
「場内を見渡し、先生は『秋田に人材が出てきたね』と。そのご期待にお応えしてみせると誓いました」
その日の夜に開催された県幹部会には夫婦で参加。能代の代表メンバーが勝利宣言した感動は、今も胸に鮮やかだ。
父母が歩んできた"広布の道"を今、長女・加代子さん(白ゆり長)、次女・由貴子さん(地区副婦人部長)も進む。
加代子さんは「何かあれば『題目あげれ』が父と母の口癖。私も母になって、気付けば子どもたちに『何があっても題目よ』と言うようになっていました」と笑顔で。
1月が巡り来るたび、秋田では座談会などで「雪の秋田指導」について学ぶのが伝統だ。
由貴子さんは、「その時の熱気が、私たちにも伝わってきます。まさに、『秋田の魂』だと感じます。その精神を継承し、伝え続けていかなければと思います」と語った。
2012年(平成24年)、真一さんに胸部大動脈瘤が見つかった。8時間の手術を行い、一命を取り留めた。
声がかすれるなどの後遺症が残ったものの、「命ある限り、先生のため、学会のため、同志のために戦い続ける。それが私の使命です」と、今も広布の最前線を走る真一さん。
夫の力強い言葉に、隣にいたサヨさんが、にっこりほほ笑んだ。
◇秋田黄金県 高橋■〈霍の右に犬〉さん・レツさん 「あんたの家は幸せだな」
草創期から妙法の灯がともった大仙市も、宗門事件の嵐が吹き荒れた地域である。
この地を広布の舞台とする太田支部で当時、地区婦人部長だった高橋レツさん(婦人部副本部長)。「絶対に退転者は出さない」と奔走し、地区から退転・反逆者は一人も出なかった。
1979年(昭和54年)9月、支部婦人部長に。学会への暴言を浴びる中、夫の■〈霍の右に犬〉さん(副県長)と「私たちの師匠は池田先生だ!」と、同志に正義を訴え抜いた。
82年(同57年)1月11日の午後、レツさんは池田先生が出席した懇談会に招かれた。先生はピアノを弾いて温かく皆を励ましてくれた。
「その時、再び奮起したんです。『よし、一生かけて実証を示そう』って」
57年(同32年)、■〈霍の右に犬〉さんと共に入会した。貧しく、わらぶき屋根の家には冬になると吹雪が吹き込んだ。「拝み屋」と冷やかされもしたが、「今に見てろ」との決意に変えた。
その後、自宅を改築し、広布の会場に提供。さまざまな悩みと戦う同志が集まった。三度の食事に事欠く生活苦、夫婦仲の問題……。まるで高橋家は"よろず相談所"となった。
「あの人がどういう性格か、好きな食べ物は何か、全部分かりました。自分たちの悩みもあったけど、知らない間に解決していました。同志の皆さんと、苦難を乗り越えてきたことが一番の財産です」(レツさん)
長男の直博さんは多くの同志が集う"創価家族"の中で信心を学んだ。「雪の秋田指導」の際に決定した「第1回世界農村青年会議」の運営に尽力。85年(同60年)の「第1回秋田青年平和合唱祭」にも参加し、秋田の発展に期待を寄せる師匠のスピーチに、生涯、広布の道をと誓った。
家業の農業を継ぎ、地域のJA職員としても奮闘。現在、太田支部の支部長、総秋田農漁光部の書記長として妻の三智子さん(支部婦人部長)と広布に駆ける。
孫の桂子さんは先月、女子部の本部長に。「私は池田先生にお会いしたことはありませんが、家族の姿を通して、先生を身近に感じています」と語る。同じく孫の大輔さんは植物の研究者として、ドイツの研究機関で使命の道をまい進中だ。
今では近隣の住民から「あんたの家は信心しているからこんなに幸せなんだな」と、深い信頼を寄せられる高橋さん一家。
師弟の道を真っすぐに歩んできた一家には今、功徳の花が爛漫と咲き薫っている。