2017年1月18日水曜日

2017.01.18 わが友に贈る

厳寒の朝を駆ける
無冠の友に最敬礼。
無理せず 安全第一で。
勇気と希望を届ける
聖業に福徳は燦然!

法華証明抄 P1587
『鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまにのむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、あなかしこあなかしこ、此の人のやまいを忽になをしてかへりてまほりとなりて鬼道の大苦をぬくべきか』

☆女性に贈ることば 一月十八日
身だしなみや服装を整え、清潔に、きちんとしていくこと。
世界の一流の人格というのは、その点にも心を配っている。

☆今日のことば365 一月十八日
私は、私なりに、音楽というものは、生きものであると感じている。心の感動を、音に託して、はじめて音楽は成り立ち得るものと思うし、心と心の共鳴以外のなにものでもない----と思っている。

☆みんなで学ぶ教学〜新会員教室〜第1回 一生成仏 2017年1月10日
◇唱題で仏性を開き、喜びの人生を歩もう
今回から「みんなで学ぶ教学〜新会員教室」と題して、新入会の方に仏法を分かりやすく解説していきます。また、「放課後メモ」では、テーマの理解を深める書籍等を紹介していきます。初回は「一生成仏」をテーマに、正しい成仏観・幸福観を学びます。

◇皆に無限の可能性が
——創価学会に入会して、何よりも驚いたのは、だれもが生き生きと信仰に励んでいることです。

現代にあって、日蓮大聖人の仏法を正しく実践している団体は創価学会以外にありません。「成仏」への直道がここにあります。

——「成仏」といわれても、ピンときません……。

「仏」というと、一般的には、きらびやかな仏像を思い浮かべたり、亡くなった方を表す言葉と理解したりしている人が多いかもしれません。
しかし、大聖人の成仏観は全く異なります。一人一人の生命に仏性(成仏するための性分)が具わっており、自分の祈りと行動で現実に顕していけると説いているのです。
朝晩の勤行で読誦する「法華経」には、万人の成仏が説かれています。凡夫(普通の人)がその身のままで、しかも今世で成仏できる——このことを大聖人は、「一生成仏」という言葉で示してくださっています。

——一生成仏? 初めて聞きました。

一生成仏とは文字通り、この一生のうちに成仏することです。
一生成仏について、大聖人は示されています。
「法華経の行者は、仏が説いた通りに修行すれば、必ず一生のうちに一人残らず成仏することができる。譬えば、春や夏に田んぼを作るが、稲に早生と晩生という品種の違いがあっても全て1年のうちに収穫できるように、法華経の行者も上中下の機根の相違があっても、必ず一生のうちに成仏できるのである」(御書416ページ、通解)

◇絶対的幸福境涯とは
——「成仏できる」とは、「幸せになれる」と言い換えることもできるでしょうか。

そうです。現実は悩みの連続です。そのために信心が必要になるのです。
創価学会第2代会長の戸田城聖先生は、幸福について「絶対的幸福」と「相対的幸福」があると述べています。
相対的幸福とは、恵まれた環境や裕福さ、社会的地位の高さなどで感じる満足感を指します。いわば、欲望が満たされたことで得られる幸福感といえます。しかし、人間の欲望には際限がないので、永続させるのは困難です。

——たしかに欲望がなくなることはありません。

これに対して、絶対的幸福とは、欲望にとらわれたり、状況に左右されたりすることのない"歓喜の境涯"を指します。
戸田先生は、絶対的幸福について次のように語っています。
「絶対的幸福というのは、どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるのです。(中略)腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ、そういう境涯ができたら、うれしくありませんか」

始覚深き信と持続の祈り
——一生成仏するためには、具体的にどうすればよいのでしょうか?

大聖人は、「一生成仏抄」に詳しく記されています。
「深く信心を起こして、昼も夜も朝も夕も怠ることなく磨くべきである。では、どのようにして磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである」(御書384ページ、通解)
ここで、ポイントは二つあります。
第一に、「深く信心を起こす」ことです。自身に具わる仏性を確信して、御本尊に題目を唱えていきましょう。
第二に、「持続の信心」です。大聖人は、この御文の直前で鏡を譬えとして、映りの悪い鏡も磨いたならば、くっきり全てのものをよく映すことができると仰せです。同じように、生命も"磨き続ける"ことで、真実の悟りの生命と現れることを教えられています。

——創価学会の皆さんが輝いている理由が、分かったような気がします。

大聖人は、成仏の「成」について、「成は開く義なり」(同753ページ)と仰せです。人間離れした特別な"神仏"に成ることを目指す必要は全くありません。万人の生命に本来具わる"仏の生命"を開いていけるのが、私たちの信仰なのです。
信心を通して、以前の自分では思いもよらなかった、どんな時にも常に希望を見いだしていける人間に変われた——こうした喜びの連鎖が広まり、今では世界中で題目を唱える同志が立ち上がっているのです。