若々しい誓いに燃える
東北の勇敢の友よ!
「松栄れば柏悦ぶ」との
麗しき異体同心の団結で
幸の連帯を築きゆこう!
頼基陳状 P1162
『頼基が良観房を蚊蚋蝦蟆の法師なりと申すとも経文分明に候はば御とがめあるべからず』
【通解】
頼基殿(四条金吾)が、極楽寺良観を「蚊」「アブ」「ガマ」法師と言っても、経文に明らかならば、仏法上のお咎めはない。
〈寸鉄〉 2019年6月29日
戦いは、真剣でなくては悔いが残る—恩師。師子は戦う。大いなる歴史を
兵庫が一瀉千里の攻勢!最後まで攻め抜いた方が勝つ。逆転劇をここから
奈良、和歌山の友が気迫の拡大!燃える関西魂。民衆勝利の決定打を頼む
創価の青年こそ「平和の防波堤」—識者。共生の世紀へ、社会変革の主役と
手足口病、大流行の兆し。タオルの共用は注意。小まめな手洗い・嗽で撃退
☆愛する沖縄を幸の楽土に 糸満 座間味の友を訪ねて 2019年6月23日
◇今いる場所で紡ぐ平和の未来
きょう6月23日は「慰霊の日」。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月に始まり、多くの人命が奪われた沖縄戦において日本軍の組織的戦闘が終結したとされる日であり、鎮魂の祈りをささげる日である。沖縄戦最後の激戦地といわれる糸満市、そして米軍が最初に上陸した慶良間列島の一つ、座間味島を訪ねた。
梅雨の時季とはいえ、沖縄を訪れる観光客の足が途絶えることはない。糸満市の摩文仁の丘を望む平和祈念公園にも、外国人や修学旅行生の姿が目に付く。
県外の中高生だろうか。沖縄県平和祈念資料館に、少し、はしゃいだ様子で入館してきた。しかし沖縄戦の展示を見学するにつれ、言葉数が少なくなる。目にうっすらと涙を浮かべる生徒も。館内に掲示されたアンケートには、こんな言葉がつづられていた。
「ここに来るまで、戦争がこんなにも、おそろしいとは思いませんでした」
公園内には、沖縄戦の犠牲者を追悼する石碑「平和の礎」が、波のうねりのように建てられている。そこに刻印された犠牲者の名前の数は24万1566人(令和元年6月現在)。日本人だけではない。アメリカ、イギリス、台湾、北朝鮮、韓国の人々の名もある。
今月15日、この一つ一つの石碑を、水にぬらしたタオルで懸命に磨く子どもたちの姿があった。糸満市の子ども会である。「慰霊の日」を前に、遺族や地元住民が清掃を行っているのだという。共に汗を流す大人たちの中の一人に、藤田学さん(支部長)がいた。糸満市子ども会育成連絡協議会の副会長を、14年間にわたり務めている。
「この礎には、糸満生まれの妻の祖父や、親族の名前も刻まれているんです」
学さんは山形出身。東京で恵美子さん(支部婦人部長)と結婚し、1991年(平成3年)に糸満へ。2人の子宝にも恵まれる。次女の病や不登校、経済苦などを乗り越えて2人の娘は創価大学に進学・卒業。一家を支えてくれた地域の方々の恩に少しでも報いたいと、夫妻して子ども会や自治会の役員、小学校PTA役員などを歴任してきた。
沖縄戦の歴史も重ねて学んだ。ガマ(洞窟)を利用した自然壕に子どもたちを案内し、平和学習をすることも。戦争の悲惨さを、平和の尊さを、繰り返し伝えること。地域の人々を友情と信頼で結ぶこと。それが"最も苦しんだ沖縄を、最も幸福な楽土に"と願う池田大作先生の弟子として、「私が糸満で果たすべき使命だと決めたんです」。
長年にわたる取り組みが評価され、学さんは先月、市から青少年育成功労者として表彰を受けた。
◆◇◆
平和祈念公園から程近い自宅で長年、洋裁業を営む上原トヨ子さん(婦人部副本部長)には、"会ったことのない姉"がいる。沖縄戦で亡くなったと、生前の母から聞いていた。姉の面影を伝える写真は一枚も残っていない。「母も戦争の記憶をあまり語ろうとはしませんでした」。戦後生まれのトヨ子さんにとって、姉をはじめ8人の親族の名前が刻まれた「平和の礎」は、肉親の"生きた証し"に触れ、偲ぶ縁でもある。
トヨ子さんが両親と共に学会に入会したのは1959年(昭和34年)。第3代会長に就任間もない池田先生がアメリカ施政下の沖縄を訪問し、沖縄支部が結成される前年のことだった。
沖縄の服装学院を経て、洋裁師として修業を積もうと上京。数々の師弟の原点を刻む。71年(同46年)5月3日に日本武道館で行われ、池田先生も出席した鼓笛祭では、衣装部門の一人として裏方に徹した。師を間近に見ることはかなわずとも、世界平和を誓う"民衆の祭典"に心は震えた。
沖縄返還を目前に控えた72年(同47年)2月、池田先生に直接、帰郷を報告する機会にも恵まれた。うんうんと耳を傾け、「頑張るんだよ」と語ってくれた師の笑顔は今も忘れない。
糸満の地で、トヨ子さんは夫・勇さん(故人)と二人三脚で地域貢献に奔走した。勇さんは自治会の会長を20年以上務め、トヨ子さんも市商工会の婦人部長や女性部副部長などを歴任。数々の表彰を受けた。
昨年10月、勇さんが70歳で霊山に旅立つまで、二人して語り合ってきた夢がある。「ここを広宣流布の模範の地域にしよう」
長年、広布の会場として提供している自宅から同志や友人の笑い声が途切れる日はない。トヨ子さんの3人の子どもも、その孫も皆、創価後継の道を歩む。平和の誓いのバトンは、確かに受け継がれている。
◇始まりの地から
那覇市から西へ約40キロの東シナ海に、大小30あまりの島々が点在している。
慶良間列島である。
そのうちの一つ、座間味島の港の一角に、ひっそりとたたずむ細長い石碑がある。フェリーから続々と降りてくる観光客の中で、目を留める人は少ない。碑には「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地 昭和二十年三月二六日午前九時上陸」と刻まれている。ここは、米軍が本島攻略の足掛かりとして上陸した島だった。当時、座間味村では迫り来る米軍を前に、170人以上の住民が強制集団死に追い込まれたという。
悲しみの歴史を今に伝える自然豊かなこの島が、慶良間諸島国立公園として環境省に指定されたのは2014年(平成26年)3月。座間味村への観光客は年々増加し、年間で10万人を超える。海外からの観光客のうち、欧米系外国人が約4割を占めるのも特徴だ。
宮里哲村長は言う。
「4度5度と訪れてくださるヘビーリピーターも少なくありません。島の住民との交流を通して、ファンになってくださるんです」
座間味の魅力は、透き通るほどの青い海と、おいしい食の数々、そして人の温かさだ。「座間味の学会員の方々は皆、島を大切にしていこうとする思いがとても強く、面倒見もいい人ばかり。かくいう私も幼い頃は、島の学会員の"おじい・おばあ"に、かわいがってもらったものです。県外から移住してきた人も同じ思いで島の発展に尽くしてくださる姿に、感謝は尽きません」(宮里村長)
大阪出身の大原伸恵さん(副白ゆり長)は、愛知出身の夫・芳夫さんと共にカフェを営む。スムージーからサンドイッチのパンや鶏ハムまで自家製だ。最初の一口で、おいしさに目を丸くするお客さんの表情こそ「私たちの幸せです」。英語が堪能な芳夫さんと、いつも笑顔の伸恵さんとの語らいを求め、一日に2度も買いに来る観光客や、毎年のように足を運んでくれる外国人もいるという。
芳夫さんは未入会だが、毎月の座談会には伸恵さんと3人の子どもたちと一緒に参加。池田先生の著作も学ぶ。「学会の人たちは、身近な人の悩みを共有し、祈り、励まし合うだけではなく、世界の幸福にも尽くしている。そこに僕は胸を打たれ、共感します」。今いる場所で目の前の一人と心を結び、希望を紡ぐことで、平和への取り組みに連なりたいと願っている。
座間味に初の「地区」が誕生したのは、2000年(平成12年)。初代地区部長を務めたのは、小嶺幸春さん(故人)である。当時の心境を、幸春さんは本紙にこう語っている。
「座間味島に広布の灯がともって四十年余。『いつの日か、地区に』というのが皆の願いでした」(2000年10月16日付沖縄版)
沖縄戦で米軍が座間味島に上陸したその日、島の小学校では卒業式が行われる予定だった。当時、幸春さんは小学6年生。晴れの門出の舞台は、嵐のような銃撃によって打ち砕かれた。大切な友も失った。戦後、幸春さんは信心と出合う。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」——この小説『人間革命』の冒頭の一節が沖縄で書き起こされた誇りを胸に、対話に走った。
14年(同26年)、地区部長の後任を託された照屋学さんは、幸春さんと共に訪問激励に歩いた日々を覚えている。「とにかく池田先生のことを語る人でした。座間味の広布史も、たくさん教えてもらいました」
学さんは今、妻・智由紀さん(地区婦人部長)と共に島中を駆ける毎日だ。長女・叶笑さん(小学4年)も座談会で司会を元気に務めるなど、未来っ子として伸び伸びと育つ。
夫妻が営む商店から港は目と鼻の先。米軍上陸の歴史をとどめる碑も見える。沖縄地上戦が始まったこの島から、今度は平和の波を広げよう——これが照屋さん夫妻の誓いであり、地区の同志の心である。