2019年6月11日火曜日

2019.06.11 わが友に贈る

一番大変なところへ!
一番大変な人に勇気を!
これが創価の心意気だ。
金剛不壊の団結で
栄光の峰へ挑み抜こう!

秋元殿御返事 P1070
『若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん』

【通解】
もし法師に親近するならば、速やかに悟りの道を得るであろう。この師に従って学ぶならば、恒河の沙の数ほどの仏にお会いできよう。

〈寸鉄〉 2019年6月11日
「顔貌に色を調へて閑に言上すべし」御書。誠実と確信の声で相手の心掴め
東京・板橋師弟の日。果敢に正義を拡大!新時代の勝利は錦州城の友ありて
勇気の大善人一人いれば大事を成就—牧口先生。私こそ突破口開く主役と
「虹は嵐の後に出るから美しい」詩人。今日も全力で。それが黄金の歴史に
出生率低下で人口減少が加速と。今こそ皆を人材に。一段と青年に激励を

☆新時代を築く 太陽の心で今日も前進! 2019年6月1日
今月6日は、先師・牧口常三郎先生の生誕の日。今年は148周年となる。
わが学会の無上の誇りは平和の殉教の先師を創立の父と仰ぎ、正義の志を烈々と受け継いでいることだ。
前後して女子部(4日)と婦人部(10日)の記念日が続き、学会家族の希望あふれる月間が展開される。
若き日から女性の教育に尽くし、何より母たちの幸福を願って死身弘法された先生も、笑顔で見守ってくださっているに違いない。
御本仏は、「日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見て候へ」(御書1418ページ)と言われた。
大聖人が大難を恐れず貫かれた「立正安国の対話」を現代に蘇らせ、まさに「多くの人」に会っていかれたのが、牧口先生である。
「健康のためには活動が第一」と、足取り軽やかな先生であった。戦時下で交通事情の厳しい中、九州へも幾たびとなく向かわれた。その途次には兵庫へ訪問を重ね、一人また一人と仏縁を結ばれている。草創の神戸の支部も、先師が手づくりで築かれたのである。
先生は「菩薩行をせねば仏にはなれぬ」と教えられた。立正安国に挑む我らの菩薩行は、どこまでも偉大な先師と共に仏の道を歩むのだ。
* * *
大聖人は、伴侶を失い、信仰のゆえに人から怨まれながらも、毅然と広宣流布に生き抜く女性を「さながら不軽菩薩の如し」(同1419ページ)と讃えられた。さらに法華経の記別である「一切衆生喜見仏(一切衆生が喜んで仰ぎ見る仏)」とは、貴女にこそふさわしい名前であるとまで仰せである。
これは、そのまま創価の母、華陽の乙女へのご賞讃と拝されてならない。
68年前、アジアで戦乱が打ち続く中、平和への誓いと祈りを込めて、婦人部、女子部は結成された。
来る日も来る日も、創価の女性は民衆の大地を勇み走って、どの人にも仏の生命があると「不軽の対話」を勇敢に誠実に重ねてきた。
どんな苦労にも負けず、どんな宿命も打開できると、「煩悩即菩提」の勇気の光を明々と放っている。
そして今や、まさしく世界中が喜んで仰ぎ見る「幸と平和のスクラム」が輝き広がっているのだ。
* * *
わが後継の高等部は結成55周年を迎える(7日)。正義の走者たちが成長する「従藍而青」の晴れ姿を、牧口先生も、どれほどお喜びか。
先生は「年齢はどうあれ、一日一日、進歩する人が、青年である」と強調された。
さあ、今日も、太陽の心で若々しく前進だ!
人と会い、友と語り、境涯を開きながら「立正安国」即「福運安穏」の勝利劇を!

☆御書と歩む� 第72回 誇り高く「立正安国」の対話を
『汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か』(立正安国論、31ページ)

◇通解
あなたは、一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を祈るべきである。

◇同志への指針
我らの大願は「立正安国」の実現だ。その出発は、自他共の幸福を築く「真剣な祈り」である。その実践は、足元からの「誠実な対話」である。我らが祈り、動き、語った分、幸の仏縁が広がる。
「この世から悲惨の二字をなくすのだ!」——恩師が熱願された平和安穏の楽土へ、勇気凜々と朗らかに、友情と信頼のスクラムを結び築いていこう!

☆虹を懸ける 池田先生とインド�=完 2019年5月26日
◇"目標の山"を越えゆけ!
大聖哲はいわれた
「一は万が母」と
「万」の多数も
「一」から始まる
苛烈な太陽の
光を防いで
木陰の安息を
約束する菩提樹
その千枝万葉も
一根より生ずる
社会に深く
根を張った
智慧の一人の重みは
千人 いな万人にも
匹敵する

池田先生は1992年のインド訪問の折、長編詩「月氏の曙 地涌の讃歌」を詠み贈った(2月8日)。
12日間の滞在中、先生は、ベンカタラマン大統領、シャルマ副大統領、インディア・インタナショナル・センターのカラン・シン会長、ガンジー記念館のパンディ副議長、ラダクリシュナン館長らと会談。また、非暴力デリー会議から最高特別会員称号が、国際科学文化・意識センターからはグローバル意識開拓賞が贈られている。
先生はそうした激務の中、寸暇を惜しんで同志の激励に心を尽くした。その励ましは、一人一人の胸中に信心の確信を打ち込み、広宣流布へ行動を促していった。
ディネーシュ・バトナガルさん(副壮年部長)は当時、創価班の一員として、整理・誘導などの任に当たっていた。
ある日、先生一行が宿泊するホテルのロビーで、先生から「ご苦労さま!」とねぎらいの言葉を掛けられた。
さらに先生は、バトナガルさんの目をじっと見つめて「何があっても、明るく朗らかに」と。
「ほんの一瞬の出来事でしたが、先生の真剣なまなざしと力強い声は、今も鮮やかに胸に刻まれています」
元来、気が弱く、ささいなことですぐに思い詰めてしまう性格だったが、先生の言葉を支えに、その後の苦難を乗り越えていく。
それから10年余りが過ぎ、男子部から壮年部に進出。支部長の任命を受けた。しかしその直後、不況のあおりを受け、リストラに遭ってしまう。
初めは思い悩んだものの、「今は"蔵の財"ではなく、"心の財"を積む時だ」と一念を定め、学会活動に徹した。
訪問・激励に歩く中、同じように仕事をなくした同志が大勢いることを知る。
バトナガルさんは、その一人一人の名前を紙に書き出し、仏前に掲げた。人数は全部で15人。最後に自分の名前を書いた。
毎日、メンバー宅を訪ねては、一緒に唱題し「法華経の兵法で勝とう!」と誓い合った。
やがて、次々と就職が決まり、ついに名前を挙げた全員が新たな仕事を見つけた。
共に苦境を勝ち越えた同志は現在、その多くが広布の最前線で活躍する。
「振り返れば、失職したことにも深い意味がありました。仕事や経済苦で悩む人に心から寄り添えるようになれたからです」
何があっても、明るく朗らかに——師がまいた一つの"励ましの種子"が、幾つもの"勝利の大輪"を咲かせている。

◇一人立て
日蓮大聖人の御聖誕770年の節を刻んだ92年2月16日。翌日の午前中にインドをたつ池田先生にとって、メンバーとじっくり時間を共にできる最後の日である。
この日、インド創価学会(BSG)の同志が待望していた、先生のインド文化会館初訪問が実現。各地の代表が集い、勤行会が開かれた。
スピーチは冒頭、即席の質問会に。先生は、ユーモアを交えながら一つ一つ丁寧に応答。そして、参加者に呼び掛けた。
「唱題はあらゆる苦しみを、すべて希望の前進へのエネルギーへと転じていく。わかってみれば、悩みは、幸福に不可欠の糧でさえある。ゆえに、みずから目標の山をつくり、山をめざし、山を乗り越えていくのが、真の信仰者なのである」
「一人が本当の信心に立ち上がれば、一家も一族も、先祖も、皆、必ず救いきっていける。その一人になることである。その一人を大切に育てることである」
ミヌ・サリーンさん(圏婦人部長)はこの日、白蓮グループとして、先生を会館で出迎えた。
「実は当日、電気の不具合で会場の冷房が効かなくなってしまいました。先生はそうした中でも、勤行会を延長されるなど、最後まで渾身の指導を続けてくださったのです」
女子部時代に師弟の原点を刻んだサリーンさんが苦難に直面したのは、それから14年後のこと。職場を解雇されたショックで、夫がうつ状態になってしまったのである。
2人目の子を身ごもっていたサリーンさんは、不安にさいなまれる夫を支えながら、「経済革命」「家族の健康」「無事出産」を懸けて、懸命に祈り続けた。やがて、その姿を見ていた10歳の長女が、唱題を実践するように。夫も少しずつ、落ち着きを取り戻していった。
サリーンさんはその後、元気な女の子を出産。夫も再就職を果たし、壮年部のリーダーに。長女は女子部の本部長を務め、次女は未来部の人材グループではつらつと活動。信心継承の模範を示している。

◇青年の時代
BSGのビシェーシュ・グプタ議長も、あの日の勤行会に参加した一人である。
「池田先生が入場した途端、場内の雰囲気が一変しました。師匠の慈愛に包まれた勤行会は終始、笑いが絶えず、参加者は皆、広布への決意を深くしました。その後、インドでは折伏・弘教や個人指導にも熱が入り、広布の大河の流れは一段と開かれていきました」
94年夏、研修会で日本へ。その折、先生から直接託された「これからは青年の時代だよ。アジアの夜明けの時代だ」との一言を心に刻んでいる。
男子部本部長を務めていた2008年にリーマン・ショックが吹き荒れ、仕事を失った時も、グプタさんは信心根本に立ち上がった。"今こそ"との思いで、教学研さんに励み、先生の著作も読破していった。
何度も読んだのは、小説『人間革命』。弟子・山本伸一が、恩師の願業である75万世帯を達成し、人々を根底から蘇生させ、社会を変革しゆくストーリーに感動した。
「この師弟不二の物語は、どこの国であっても実現できるはずだと決意し、まず自身の宿命転換に挑戦していきました」
失業から数カ月後には、新たな就職を勝ち取ったグプタさん。14年、BSGの議長に就任。後継の青年たちに師弟の精神を語り伝える日々だ。
——インド広布の重要な指針が示された1992年の勤行会で、先生は述べている。
「私たちは、法華経の霊山会での『広宣流布』という久遠の誓いを、ともに果たすために生まれた。みずから願って、それぞれの使命の舞台に躍り出てきたのである」
「年ごとに、希望あふれるインドである。決して、あせることなく、着実に、また確実に、悠久のガンジスの流れのごとく、一千年先、二千年先を見つめて、堂々と進んでいただきたい」

92年当時、約1500人だったインドの地涌の陣列は、池田先生が再訪する97年には、約4000人まで拡大する。
そのうねりは年々、勢いを増し、先生の初訪問(61年)から58星霜となる本年、久遠の誓いに立ち上がった同志のスクラムは、20万人を超えて大きく広がっている。