2019年6月23日日曜日

2019.06.23 わが友に贈る

今日の努力と挑戦が
未来の自分を輝かせる。
「さあ、やろう!」と
すがすがしい決意に燃え
人間革命の歴史を共に!

日女御前御返事 P1243
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉る』

【通解】
ここに日蓮は、どういう不思議であろうか、竜樹、天親等、天台、妙楽等でさえ顕されなかった大曼陀羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、初めて、法華弘通の旗印として顕し申し上げたのである。

〈寸鉄〉 2019年6月23日
沖縄「慰霊の日」。人々の心に平和の砦を。不戦のスクラム拡大へ誓い新た
兵庫が怒濤の追い上げ。猛然と攻め抜け。「まさかが実現」の逆転劇を必ず
京都、滋賀、福井の躍進が常勝の決定打!大関西の新しき伝統築く勝ち戦を
「広布は私がやる」との気概で進め—恩師。師子は率先。そこに創価の魂
雨の自転車走行、75%が危険感じた経験。傘差し運転は厳禁。規則を順守

☆負けじ魂ここにあり わが生命の学園生 第19回 東京校 1994〜96年度
民衆のために苦労と忍耐を!
大事なことは"戦いきろう!"との情熱が燃えているかだ。

富士が見えるぞ
武蔵野の
渓流清き 鳳雛の
平和をめざすは
何のため
輝く友の 道拓く
未来に羽ばたけ
君と僕

熱戦の余韻冷めやらぬ阪神甲子園球場。
誇らしげな球児たちの歌声に、スタンドに駆け付けた応援団らも声を重ねる。その"凱歌"の響きは、球場の銀傘を揺るがし、大空にこだましていった——。
1994年8月10日。創価高校の硬式野球部は、2年ぶり3度目の出場で「甲子園初勝利」を果たした。
テレビやラジオから流れる校歌「草木は萌ゆる」に、声をからして応援した全国の人々は、胸を熱くした。
同部が初めて甲子園の土を踏んだのは、83年夏。大会屈指の好投手を擁するも、初戦突破はならなかった。2度目の夏(92年)は、1回戦で強豪と対戦。接戦の末、1点差で涙をのんだ。
"甲子園で我らの校歌を"——この思いは、野球部だけでなく、在校生や卒業生、保護者らの悲願にもなっていた。
初勝利のその日、創立者・池田先生は、北海道に向かう機内で吉報を耳にした。窓の外には、大きなV字形の雲が浮かんでいた。
先生は詠んだ。
「日輪に 白雲までも Vサイン 何と不思議な 優勝サインよ」
憧れの舞台に、7番ショートで先発出場した片桐哲郎さん(高校25期)。「校歌斉唱の場面は夢見心地で、あまりよく覚えてないんです。宿舎で録画した映像を見た時に、実感が湧いてきました」
画面には、涙して歌う多くの観客が映し出されていた。片桐さんはその光景を心に焼き付ける。
"もう一度、校歌を!"
続く2回戦で、片桐さんはホームランを放ち、チームの勝利に貢献。ベスト16という歴史を飾った。
同部はその後も、破竹の勢いで勝ち進む。
94年、秋の都大会と明治神宮大会で初優勝。95年、春のセンバツ甲子園に初出場し、春の都大会で初優勝。夏の西東京大会を制し、再び甲子園に戻ってきた創価ナインは2度、校歌を歌い、ベスト8に輝く。
片桐さんは卒業後、創価大学、社会人野球を経て、学園の教員に。硬式野球部の若き監督として、2007年には母校を春夏通算8度目の甲子園へと導いた。
「勝利を待っていてくれる人が、日本中、世界中にいる。これほど幸せな学校はありません。生徒たちには、日本一を目指す真剣勝負の青春の中で、池田先生との生涯の原点を築いてほしい」

◇勇気の人たれ
「皆の力で、朗らかに、伸び伸びと、21世紀への長い長い伝統をつくっていきましょう」
創立30周年が2年後に迫った1995年、池田先生は新時代の学園建設に臨む生徒らにエールを送った。
東京校の「栄光祭」や関西校の「健康祭」など、学園には創立者との思い出深き歴史がある。その意義を踏まえ、新たに「栄光の日」(7月17日)、「情熱の日」(10月10日)、「英知の日」(11月18日)を定め、東西両校で記念の行事を行うこととなった。
先生は、これらの第1回の式典に、真心のメッセージを寄せた。
「『栄光』とは、いったい、何か? それは、有名になることでもなければ、人気や流行に乗ることでもない。いかなる困難にあおうとも、揺るぎない信念で、民衆のために苦労し、民衆のために忍耐し、民衆のために戦い続ける人こそ、真実の『栄光』の人であると、私は思う」
「一時の勝ち負けよりも大事なことは、何か。それは、『がんばろう! 戦いきろう!』という熱き"情熱"が、わが胸に赤々と燃えているかどうかです」
「まことの『英知』の人とは、すなわち『勇気』の人である」
学園生は"1期生"の気概で、初めての行事に取り組み、草創からの先生のスピーチを真剣に学び深めていった。
高校26期の松藤慎一朗さんは、当時3年生。学園生への指針を収めた『創立者とともに』を常に持ち歩き、各地から集った栄光寮の仲間と夢や理想を語り合った。
"語学を磨いて世界へ"との先生の期待に触れ、創大を卒業後、大手飲食チェーンに就職。思うようにいかない現実に辞めようかと悩んだ日が幾度もあった。そんな時、松藤さんを支えたのは『創立者とともに』に収録された先生の詩だった。
「希望に燃えて 怒濤に向い たとい貧しき 身なりとも 人が笑おが あざけよが じっとこらえて 今に見ろ……」
就職から5年、希望していた海外事業部に配属。その後、精力的な働きぶりが買われ、海外展開を主軸とする新しい会社の設立に携わる。現在、アジア60店舗を管轄するインドネシアの現地法人の代表取締役に。親会社の最高執行責任者(COO)も務める。
英知・栄光・情熱——学園で若き翼を鍛えた鳳雛たちが今、使命の大空へ、力強く羽ばたいている。

◇勝利者の条件
第27回卒業式(97年3月16日)が行われた創価学園・池田中央体育館。
卒業生の席は、鮮やかな紺色に染まっている。全員が、そろいのガウンに身を包んでいた。
これは、池田先生の提案によるもの。この年から、門出を迎えた小学生(えんじ色)と高校生(紺色)にガウンが、中学生には桜のコサージュが贈られることに。
衣装や社会的地位の違いを全て覆い隠すガウンは、学問の前では、皆、平等であることを示す「学問の民主主義」の象徴である。
卒業式に出席した先生は、その意義に触れて訴えた。
「わが学園生は、牧口先生が、厳寒の牢獄にあっても、最後までカントの哲学書を探究されていたごとく、一生涯、学問を愛し続けていただきたい。私も、今でも勉強を続けている。自分で自分を鍛えている。皆さんも全員が、それぞれの道で、『博士』の存在となって英知を光らせていただきたい」
石川由紀さん(高校27期)もこの日、紺色のガウンに袖を通した一人。学園時代、池田先生が環境開発国際会議に寄せた論文に感動し、学問への情熱を燃え上がらせた。
そこには、人類は「万物の尊厳性を守る"保護者"」であり、「地球生態系の創造的調和をもたらす"調整者"とならなければならない」との視座が示されていた。
"将来、先生の構想の一端を担える人材に"との志を抱き、創大の工学部(当時)に進学。だが、勉学や部活動など目まぐるしい毎日に、心身のバランスを崩してしまう。創立者や友人の激励により、何とか研究の道に進むも、博士号取得の寸前で体調は限界に。やむなく博士課程を満期退学した。
環境調査会社で働いた後に結婚し、茨城県・東海村へ。同じく学園出身で研究者の夫を支え、子育てに奮闘する中、青春の誓いを果たせていない悔しさが日に日に募っていった。
ある日、石川さんは一念発起する。幼い2人の娘を育てながら、論文の執筆を開始。家族や周囲の応援もあり、2年間の苦闘の末、ついに念願の博士号を取得する。現在は、つくば市にある研究機関に勤務。一昨年からは、大学の非常勤研究員も務めている。
家事や育児、仕事に追われながらも、"青春の誓いの道"を懸命に歩む石川さん。その胸には、池田先生から贈られた卒業指針が深く刻まれている。
「君よ! 思うようにいかぬ一日一日も 忍耐で乗り越えよ! ここに勝利者の条件があることを忘れまい」

◎金曜日の夜から強行軍で兵庫に行き、足の悪い叔母の足となり、楽しくF活動ができました。功徳で購入できた新車が大いにやきうに立ちました。