御聖訓「此の事に
あはん為なりけり」
広布請願の大闘争を
ここから! 私から!
最高の自分史を綴ろう!
顕謗法抄 P445
『大酒なる者此の地獄の苦免れがたきか』
【通解】
大酒飲みの者は、此の地獄の苦しみを免れ難いのではないだろうか。
〈寸鉄〉 2019年6月21日
「人生は強気でいけ」恩師勝つための信心。確信の祈りと行動で障魔は退散
本陣・東京が激闘。師子奮迅の勢いで勇敢に進め。民衆の底力示し凱歌を!
常勝の天地・大阪の友が総立ち。圧倒的拡大を!勝利の旋風を巻き起こせ
認知症の予防、「人に会う」ことが脳の機能鍛える—研究。賢く皆で協力
官庁を装った封書等、巧妙な手口の架空請求が増加。慌てず即相談・通報
☆私がつくる平和の文化 第6回 平和構築の主体者
◇インタビュー 戸田記念国際平和研究所所長 ケビン・クレメンツ博士
「私がつくる平和の文化」第6回のテーマは「平和構築の主体者」。インタビューは、ニュージーランド出身で、世界的な平和学者として活躍する戸田記念国際平和研究所所長のケビン・クレメンツ博士です。今年3月に同国で起きたモスク襲撃事件の経験などを踏まえ、私たちが寛容と共生の社会を築くために必要な視点について語ってもらいました。(構成=内山忠昭、歌橋智也)
——今年3月にクライストチャーチで起きたモスク襲撃事件は、世界に大きな衝撃を与えました。
博士 "こんな悲劇が平和なニュージーランドで起きるなんて、信じられない"というのが、多くの人たちの思いでした。今回の事件で尊い命を奪われた51人は、そのほとんどが平和な暮らしを求めてニュージーランドに移住したイスラム教徒でした。
この事件を通して私たちは、"移民に対して、本当に差別や偏見を抱いていなかっただろうか。現実には差別があったのに、見過ごしていたのではないか"と、反省を迫られたのです。
若き女性リーダーであるアーダーン首相は、直ちに法律を改正して銃規制をより厳しくするとともに、"暴力による報復に走ることなく団結しよう"と人々に呼び掛けました。
私が教えているオタゴ大学の学生たちは、寛容の精神を表明しようと「安全な場所」というポスターを作りました。一人一人の違いや共通性を認め合う"安全で平和な場所"の大切さを皆で考えたいと願ったからです。ポスターは移民の人にも分かるようアラビア語も併記。これに賛同した個人やお店が、次々とポスターを張り出してくれました。
私も、寛容な人、差別を傍観しない人を育てるには、そのための教育が重要だと考えました。そこでまず、幼稚園の先生たちに、異なる民族や宗教の子どもたちに尊敬をもって接するよう講習会を開催しました。これには、難民問題に取り組む私の妻も協力してくれました。
今、ニュージーランドでは、小さな差別も許さない社会をつくっていこう、「平和の文化」を築いていこう、という挑戦が始まっています。
——SNSやメディアの役割も問われる事件でした。
博士 今回の事件では、容疑者が、銃を乱射する様子をフェイスブックで生中継したことにも衝撃が走りました。
SNSには、過激で暴力的な情報もあふれており、多くの若者がその影響を受けています。大事なことは、そうしたメディアの情報をうのみにせず、「本当かな?」と疑ってみること。あくまで自分の価値観や道徳観に照らして、立ち止まって考える習慣を身に付けることです。
メディアは、ある集団に対して、悪いイメージをつくりがちです。そこから差別が始まります。しかし、一人一人を尊厳をもった個人として見れば、その個性、かけがえのなさに気付き、それが私たち自身をも豊かにするのです。
——クレメンツ博士の学問の師匠であったエリース・ボールディング博士は、「平和の文化」の理念の提唱者でした。
博士 彼女は、平和構築における「女性の役割」を重視していました。なぜなら女性は、「自分たちの安全は他者との平等な関係性の中にある」ことを知っているからです。家庭、友人関係、職場においても、本当の意味の「安全」とは、人との関係性の中にしかない。それを理解し、より安全で平和な関係を築くことが「平和の文化」です。 今、戦争の悲惨さや脅威が青年に受け継がれていないために、若い人たちは、軍事力などのハードパワーに頼れば自分たちの「安全」が守られると誤解しています。
博士は、「平和の文化」とは「耳を傾ける文化」とも表現していました。対立する人間同士が相手の意見にも耳を傾け、「対話」を通して問題解決への道を開くには、両者が安心して心を開き、対話できる環境を整えることが大事だと訴えていたのです。
私も博士の後継者として、皆が安心して自由に対話できる場をつくろうと日々努力を続けています。
◇正義を貫く「勇気」を
——平和を築くために、私たちに必要なことは?
博士 どこまでも人間を信じ抜くことです。それは出会う人たちに尊敬を持つことから始まります。相手に恐怖や不信を抱けば、相手もそれを感じます。反対に、相手に愛情や尊敬の念を抱けば、相手もそれを感じるものです。
「平和の文化」とは、恐れや憎しみを愛に、非寛容を慈悲に、悲観主義を希望に変えていくことです。それが、個人の人間関係も、さらに社会や政治における関係をも変えていくことになるのです。
私は池田SGI会長と啓発に満ちた対話を重ね、対談集も編みました。池田会長の平和行動の根底に「人間への信頼と慈愛」があることに、深い共感を寄せています。
私の父も、生涯を懸けて平和のために行動しました。父は亡くなる直前、私の娘から、幸せに生きる秘訣を問われ、「愛と勇気と希望が必要だよ」と答えました。とりわけ「勇気」だと。
生き抜くこと自体が勇気。人を育てるのも勇気。権力が間違った方向に進もうとする時に、それに反対するのも勇気。勇気のない人間に平和を築くことはできない、と語っていました。創価学会の歴史を見ても、牧口初代会長、戸田第2代会長が軍部政府に反対したのは、正義を貫く勇気があったからだと思います。
ボールディング博士は言いました。「平和の文化を構築するには、自分が築きたいと思う世界——人間の平等が守られ、戦争と武器のない世界——を想像することが大事」と。その実現のためには、世界市民の意識に立つ民衆が行動することです。「平和の文化」を自らの生き方とする一人一人が、平和構築の主体者だからです。
ケビン・クレメンツ 1946年、ニュージーランド生まれ。オタゴ大学国立平和紛争研究所の所長をはじめ、国際平和研究学会(IPRA)の事務局長などを歴任。ニュージーランド、オーストラリア、イギリスなど、各国政府の政策顧問も務めた。2017年7月から現職。
◇「みんな語り部になれるんよ」
誰でも平和構築の主体者になれる——そんな思いを長年伝え続ける広島の夫妻を取材しました。
「私は被爆者でも、広島生まれでもありません。でも広島の心、平和を願う心は、語り継ぐことができると思っています」
そう語るのは品川俊子さん。夫・正則さんと共に、原爆資料館や慰霊碑などの解説をする「ヒロシマ・ピース・ボランティア」として活躍する。
品川さんは、終戦後の1945年(昭和20年)10月、中国・北京で生まれた。翌年、家族で日本へ引き揚げ、父の実家のある広島で暮らした。
20歳の頃、品川さんの生き方を決定づける出来事があった。大阪に住む叔母から被爆体験を聞いたことだ。叔母は出産を間近に控え、爆心地に近い実家に里帰りしていた。
8月6日午前8時15分。閃光と熱線。すさまじい爆風。2階建ての実家は瞬く間に押しつぶされた。気が付くと、祖母は大きな梁の下敷きに。そこに猛烈な勢いで炎が迫っていた。祖母は叫んだ。「福ちゃん(叔母)、お願いじゃけえ、早う逃げんさい! いい子を産むんよ!」と。その直後、誰かが叔母を強引にその場から連れ出した——。
"母を見捨てて逃げた"と自分を責め続け、叔母はその後、生涯、広島の地を踏むことはなかった。叔母は声を絞り出すようにして言った。「あなたのおばあちゃんは、人に尽くす優しい人だった。その人が生きたまま焼かれた……。広島には、あなたのおばあちゃんのような人が何百、何千といたことを絶対に忘れないでほしいんよ」
品川さんはこの時、生涯、平和に尽くそうと誓った。
以来、3人の育児に奮闘しつつ、創価学会女性平和委員会の一員として反戦出版や、核兵器廃絶の展示に携わり、「被爆体験を聞く会」の開催にも貢献。2004年、夫・正則さんの定年を機に、二人で半年間の研修を受け、ピース・ボランティアになった。
品川さんは修学旅行の子どもたちに必ず言っていることがある。「みんなも平和の語り部になれるんよ」
ある日、奈良の小学生から、うれしい手紙が届いた。
"おじいちゃんに広島での話をしたら、おじいちゃんも戦争に行った時の話を初めてしてくれました。私も語り部になります"
海外から訪れる人とも一期一会の出会いを大切にし、交流を深める中、被爆者と共にアメリカやイギリス、イタリアなどで講演する機会も得た。昨年8月にはモンゴルで品川さんの祖母の話を題材とした絵本が出版された。
正則さんは被爆70年の2015年にピース・ボランティアの代表幹事を務めた。
「目の前の"一人"を大切にすることから平和は生まれる」——そう固く信じ、品川さん夫妻は、世界へ、未来へ、広島の心を伝え続ける。
★池田先生の指針から
誰もが、平和を望んでいる。
どんな人にも、他者を慈しみ、大切にする心が具わっている。
ほんの少しの勇気が、友を守る力となる。
何気ない言葉でも、人生を変える時がある。
大事なことは、誰の心にもある良心と勇気を一人、また一人と呼び覚まし、地域を、社会を、そして人類全体を包み込んでいくことではないだろうか。
池田大作
(「随筆 我らの勝利の大道」から)