2019年2月14日木曜日

2019.02.14 わが友に贈る

さあ「二月闘争」の
後半戦を意気高く!
生命力をわき立たせ
広布拡大の最前線へ
敢然と飛び出そう!

四信五品抄 P342
『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ』

【通解】
質問する。あなたの弟子が、すこしの理解もなく、ただ一回だけ声を出して南無妙法蓮華経と唱えた場合、その人の修行段階はどのようなものなのか。
答える、この人は、単に四味・三教の最後の修行段階の者や、爾前の円教の人を超えるだけでなく、さらには真言宗などの様々な宗派の開祖である善無畏・智儼・慈恩大師・吉蔵・道宣・達磨・善導らよりも勝れること百千万億である。是非とも、日本国中の人々よ、私の弟子たちを軽んじるべきではない。

〈寸鉄〉 2019年2月14日
妙法以上の智慧は断じてない—戸田先生。何事も祈りから。常勝の方程式
岡山の日。師弟の誓いは友の胸に赤々。歓喜の春呼ぶ対話の大旋風今こそ
副役職の友が光る組織は無敵。リーダーは連携を密に。心合わせて勝利へ
ピラミッドは頂からは作れぬ—作家。わが足元で友情拡大。広布はここに
特殊詐欺に警戒。安易に銀行カードは手渡すな。家族・地域で注意喚起を

☆2月度座談会拝読御書 生死一大事血脈抄
確信の祈りで幸福境涯を確立
一日一日を完全燃焼し悔いなき人生を

◇拝読御文
『相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』御書全集 1338ページ8行目〜10行目

◇本抄について
本抄は文永9年(1272年)2月11日、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地・佐渡の塚原で認められ、最蓮房に与えられたお手紙と伝えられています。
最蓮房について詳細は不明です。ただ本抄の内容から、もともと天台の学僧であった最蓮房が、「生死一大事血脈」という仏法の極理について、大事な質問をしたことに対する御返事とされています。
題号の「生死一大事」とは、生と死を繰り返して流転する生命において根本の大事、つまり生死の苦悩を解決する万人成仏の法を意味します。
また「血脈」とは、法が仏から衆生へ伝えられていくことを、親から子へ血筋が受け継がれることに譬えた言葉です。
大聖人は本抄のはじめに、「生死一大事血脈」とは「妙法蓮華経」にほかならないことを、天台・伝教の釈を引いて明らかにされます。
続いて、衆生が生死一大事の血脈を受け継ぐための信心の姿勢について、3点にわたって示されます。
1点目が、仏と法と私たち衆生の生命の三つに差別がない、すなわち妙法の当体である衆生自身の胸中に、尊極な仏の生命が具わっていることを信じて題目を唱える実践です。
2点目が、三世にわたって御本尊から離れないという持続、不退転の信心です。
3点目に、広宣流布を目指して、異体同心で南無妙法蓮華経を唱える中にこそ、生死一大事の血脈が受け継がれることを教えられています。
拝読御文は、本抄の末尾の一節であり、生死一大事の血脈を受け継ぐ「正しき信心の要諦」を明かした部分になります。

◇臨終正念と祈念
死をどう捉えるか——そこに宗教の真価が問われるのではないでしょうか。
人間は生まれた瞬間から、死に向かっているといえます。死は誰にでも訪れるものであり、誰一人として免れることはできません。ゆえに仏法では、死から目をそらすのではなく、死を正しく見つめることで、人生を豊かにしていくことを説いています。
今回学ぶ御文で大聖人は「強盛の大信力」を起こして、「南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念」していくように教えられています。
臨終正念とは、死に臨んでも心を乱さず、正しい念慮(思い、考え)を持つことです。
つまり、臨終の時に、一切の魔に心を乱されることなく、信心を貫くことができた歓喜と感謝に満ちて、永遠に崩れぬ幸福境涯を確立することです。
では、どうすれば、臨終正念の境涯を勝ち得ることができるのでしょうか。
本抄で大聖人は「"臨終は只今にある"と覚って信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人のことを、普賢菩薩勧発品第28には『この人は寿命が終われば、千もの仏が手を差し伸べ、死後への恐怖を起こさせたり、悪道に堕とさせたりするようなことはしない』と説かれている」(御書1337ページ、通解)と仰せです。たとえ今、死を迎えたとしても、"人生に一点の悔いもない"と言い切れる信心の姿勢が大切なのです。
自らが「強盛の大信力」を起こしていくのはもちろん、眼前の一人に"今、この時しかない"と、仏縁を広げ、励ましを送る生き方こそ、悔いなき人生の正道です。一日一日を完全燃焼する"戦う信心"に、仏界の生命は脈動するのです。

◇「即」の一字
生死一大事の血脈を受け継ぐ信心によって、いかなる境涯が得られるのでしょうか。
拝読御文では、信心の利益を「煩悩即菩提・生死即涅槃」と仰せです。つまり、煩悩や生死の苦悩をバネにして、仏の智慧を発揮し、安穏と歓喜の境涯を確立することができるのです。
この変革の法理のカギを握るのが「即」の一字です。
大聖人は「爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭うて別に菩提涅槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり」(御書821ページ)と仰せです。
「煩悩」と「菩提」、「生死」と「涅槃」は、字義通りにとれば、正反対のものです。ゆえに法華経以前の教えでは、煩悩を厭うことで菩提に至ると説いていました。
しかし、煩悩を否定して覚りを得るという考えは、突き詰めれば生を否定することにつながります。
戸田先生は、「自分の煩悩に生きながら、煩悩のままに、安心しきった幸福境涯をつかむ生活を『煩悩即菩提』『生死即涅槃』というのです」(『戸田城聖全集』第2巻)と語られています。
「即」とは、単に異なるものを結び付けるのではなく、煩悩の迷いや生死の苦悩の質を転換させることなのです。「自身を苦しめる煩悩」から「自身を人間革命させる煩悩」へと転換させる積極的な意味が「即」の一字にはあるのです。
大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書732ページ)と仰せです。
悩みや苦しみを御本尊への強き祈りに変えることで、悩みや苦しみは乗り越えるべき自身の使命、人間革命の原動力となり、悪戦苦闘の人生をも楽しんでいける境涯を開いていくことができるのです。

◇誤った血脈観
生死一大事の血脈は、決して特定の人間だけに流れ通うものではありません。万人成仏が仏の願いであることからも明らかなように、あらゆる人に開かれたものなのです。
日蓮大聖人は、拝読御文の前の部分で、「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(御書1337ページ)と仰せです。一切衆生に成仏の血脈を継がせようとの大聖人の慈悲心があふれています。
そもそも本抄の冒頭で、「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」(同1336ページ)と、伝えられるべき法は「南無妙法蓮華経」にほかならないと示されています。
ところが日顕宗は、「血脈相承」を受けるだけで、仏の内証(心の中の覚り)、法体(覚りの法そのもの)が、法主から次の法主だけに伝えられるとする、"神秘的"な血脈観を主張しています。そこから、法主が絶対であるとの法主信仰も生じています。しかし、こうした誤った血脈観は、大聖人、日興上人の教えとは全く無縁の邪義です。
同じように題目を唱えているといっても、そこに「信心の血脈」がなければ、無価値になってしまいます。そのことを「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と仰せです。信心の血脈こそ、流れ通わすべき一大事なのです。
大聖人の御遺命である広宣流布を実践する学会にこそ、日蓮仏法の本義が脈々と受け継がれていることは明白です。
学会の中で、同志と共に、広宣流布に邁進する私たちにこそ、信心の血脈が流れ通うのです。

★池田先生の指針から 「今」を真剣に精一杯生きよ
臨終とは、「人生の総決算」の場です。この時、「どう生きてきたのか」が厳しく問われます。その時に、何の悔いもなく、自身の人生を深く肯定し、大満足で臨終を迎えられるか。逆に、後悔と自責の念で人生の終幕を迎えてしまうのか。
まさに、臨終の時にこそ、その人の生き方そのものが、何一つごまかしようがなく、この一瞬に凝縮されます。したがって、臨終をたとえ今迎えたとしても、雲一つない澄み切った青空のごとく、何一つ悔いや不満がない。そう断言できるように、どれだけ「今」を真剣に精一杯生きているか、ということが最重要になります。
瞬間、瞬間、「今、臨終になっても悔いがない」と言い切れる覚悟で、「現在」を真剣に生きる。それが「臨終只今にあり」という信心です。(『生死一大事血脈抄講義』)
◇ ◆ ◇
戸田先生は、「ありのまま」の本有無作の境涯の達人であられた。外見は凡夫の姿そのものであっても、学会の前進のためにいつも頭脳は鋭く回転しておられた。何よりも広宣流布への責任感は、まさしく悟りの大境涯であられた。広宣流布を必ず成し遂げようとの大煩悩を持ち、責任即悟達の大境涯から、広宣流布に生き切る生死不二の姿を現じられた先生でした。
「ありのまま」とは、その身のままでありながら、常に生命を磨いていくことです。現代的に言えば、人間革命の真髄の姿が即身成仏の実証にほかならない。
要するに、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」とは、「戦い続ける信心」の中でこそ実現するのです。(同)

参考文献
○…『生死一大事血脈抄講義』(聖教新聞社刊)
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第19巻(同)