2019年2月2日土曜日

2019.02.02 わが友に贈る

本当の失敗とは失敗を
恐れて挑戦しないこと。
「臆病にては
叶うべからず」だ。
さあ 勇気の一歩を!

瑞相御書 P1140
『夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる』

【通解】
十方は依報である。衆生は正報である。依報は、たとえば影であり、正報は体である。身がなければ影はない。と同じく正報がなければ依報もないのである。またその正報は依報をもってその体を作る。

〈寸鉄〉 2019年2月2日
「今一重強盛に御志あるべし」御書。日々、清新な祈りを。喜び勇んで出発
励ましの拡大こそ人材と友情広げる鍵。全幹部が最前線の地区に飛び込め
女性の「10帰運動」を励行。打ち合わせ等は価値的に。周囲も配慮忘れず
景気拡大、6年2カ月で戦後最長に。庶民が実感伴うまで公明が先導せよ
援助が必要な子供は世界で4千万人—調査。子は宝。笑顔輝く未来を皆で

☆本紙創刊2万号記念特集(上) 聖教新聞の歩み 2019年1月20日
◇民衆の側に立つ正義の言論城
1951年(昭和26年)4月20日に創刊された聖教新聞。池田先生は聖教の使命をつづった。「民衆の中で生まれ、民衆に育まれた聖教新聞は、永久に民衆と共に進む正義の言論城である」と。ここでは創刊2万号の佳節に当たり、「聖教新聞の歩み」を紹介する。

◇師弟の語らい
聖教新聞の原点は「師弟」である。
1950年(昭和25年)、戸田先生の事業は、深刻な経済不況のあおりを受け、厳しい苦境にあった。
事業の破綻が決定的になると、それを聞き付けた新聞記者がスクープにしようと接近してきた。
同年8月23日、池田先生は、その矢面に立って渉外に当たった。そして翌24日、戸田先生は池田先生と共に取材に応じた。
誠意と道理を尽くして応対した結果、いいかげんな記事が世に出ることはなかった。
この直後、戸田先生は池田先生に語った。
「新聞は強い武器だな。これからは"文"の戦いだ」
「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い時期に新聞をもたなければいけない。大作、よく考えておいてくれ」
最大の苦境の中、師弟の語らいから生まれた新聞が、聖教新聞である。後に、この「8・24」が「聖教新聞創刊原点の日」に制定されている(2007年)。
1951年(昭和26年)3月、戸田先生を中心に、初の企画会、編集会議が開かれた。この場で「聖教新聞」の名称が決まり、紙面構成等が協議された。
戸田先生は語った。
「この新聞をもって、広宣流布の火蓋を切っていくのだ。あらゆる意味で言論戦の雄とならねばならぬ」
池田先生はこの日の日記に記している。
「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す」と。それから1カ月後の同年4月20日、聖教新聞の「第1号」が発刊されたのである。
1面のトップ記事は「信念とは何ぞや?」と題する戸田先生の論文。下段には戸田先生の小説『人間革命』が掲載された。2面には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍り、弘教の金字塔を打ち立てた草創の鶴見支部の奮闘が紹介されている。
当初の発行部数は、5000部。旬刊(10日に一度の発行)、2ページ建ての紙面構成であった。
創刊から約2週間後の5月3日、戸田先生が創価学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は、東京・市ケ谷のビルへ移転した。
カメラは旧式のものが1台あるだけで、机を二つ並べるといっぱいの狭い部屋だった。この小さな一室で制作された聖教新聞は、同志の勇気を鼓舞し、広布前進の勢いを加速させる役割を果たしていった。

◇学会の躍進と共に
53年(同28年)9月6日、聖教新聞は旬刊から週刊になった。
60年(同35年)5月3日、池田先生が第3代会長に就任すると、戸田先生の遺言である「300万世帯の達成」を目標として、新たな前進が始まった。
学会の躍進と共に、聖教新聞もさらに発展を遂げていく。同年9月3日に週2回刊、2年後の62年(同37年)1月1日からは週3回刊となった。
この年の11月末、学会は300万世帯を突破した。
広布の上げ潮の中、65年(同40年)の新年号から、池田先生の小説『人間革命』が連載開始。この年の7月15日から「日刊8ページ建て」となった。
当初、日刊化は10月からの予定だった。だが、「もう少し、早くできないだろうか」というのが池田先生の思いだった。小説『新・人間革命』第10巻「言論城」の章には、その真情が記されている。
「学会の前進は、日ごとに速まっている。週三回の発行では、もう、学会の前進のスピードに、ついて行けない時代になった」
事実、66年(同41年)11月に学会は600万世帯、さらに69年(同44年)2月には、700万世帯に達している。
70年(同45年)9月28日、本社ビルが完成。翌71年(同46年)1月4日から、現在の「日刊12ページ建て」になった。
「5000号」を迎えたのは、76年(同51年)4月30日。折しも創刊25周年の佳節であった。
池田先生は同年4月20日付の本紙に「創刊25周年に寄せて」を寄稿。その中で「5000号を迎え、25歳の若者となった聖教新聞の本舞台はいよいよこれからである」とし、本紙が1万号を数えた時を思い描きながら、「この人間の機関紙はいかなるものになっているであろうか」とつづった。
さらに、寄稿の結びで、「聖教新聞は、学会員一人一人が創りあげている新聞であり、広布の歴史そのものである。これまでの輝かしい伝統を継承し、発展させて、永遠に世界の庶民の味方として、歩みゆくよう祈ってやまない」と期待を述べた。
この頃、第1次宗門事件の嵐が吹き始めていた。宗門の悪侶や退転・反逆者らの策謀が渦巻く中、池田先生は80年(同55年)7月、休載していた『人間革命』の執筆を再開。それは、学会が反転攻勢を開始する大きな力となった。
90年(平成2年)7月19日、本紙は「1万号」の佳節を刻んだ。この2日後、法主を名乗る日顕が極悪の本性をさらけ出し、その年の暮れに、第2次宗門事件が勃発。聖教新聞は破邪顕正の論陣を張っていった。

◇平和の哲理を世界へ
翌91年(同3年)11月28日、学会は邪宗門・日顕宗の鉄鎖を断ち切り、世界宗教へと大きく飛翔を開始した。
SGIは当時の115カ国・地域から、今や192カ国・地域に広がった。
以来、本紙は連日にわたって世界広布の息吹を報じてきた。
93年(同5年)2月11日、池田先生の小説『人間革命』(全12巻)が完結した。同年の11月18日からは、小説『新・人間革命』の連載が開始された。
2004年(同16年)11月6日、本紙は「1万5000号」を迎えた。池田先生は呼び掛けた。
「毎朝、聖教の配達をしてくださる全国の"無冠の友"の皆様、愛読者の皆様、そして聖教を支えてくださるすべての方々に、心から『万歳!』と感謝を申し上げたい。さあ、世界平和のために、世界の広宣流布のために、『聖教の正義の言論城』から、新たなる勝利と希望の大道を開き、邁進してゆこうではないか!」
池田先生は、その決意のまま、激務の合間を縫って、自ら信念のペンを執り、全国、全世界の同志に生きる希望と勇気を送り続けてきた。
昨年9月8日には小説『新・人間革命』(全30巻)が完結。新聞連載回数は日本一の6469回に達し、400字詰め原稿用紙でおよそ1万5000枚に及んでいる。
そして、きょう2019年1月20日、本紙は「2万号」に。本年11月には、新社屋「創価学会 世界聖教会館」が完成する。
池田先生は万感の思いを和歌に託した。

ああ聖教 
 世界中に
  飛びゆきて
 平和と文化の
   言論 輝け

「2万号」という金字塔は、池田先生が一号一号、手作りで築き上げてきた"言論の魂"の結晶である。