自分に負けない人が
最後に栄冠をつかむ。
「いよいよ強盛の
恩志あるべし」
今こそ信心で立とう!
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 P241
『瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し』
【通解】
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人界である。このように他人の相には六道がすべて具わっているのであり、四聖は冥伏していて日常に現われないけれども委しく探し求めるならばかならず具わっている。
〈寸鉄〉 2018年9月26日
「法華経は師子吼の第一なり」御書。強気の祈りで栄光の峰へ!勇敢に語れ
大変な所でうんと戦え。広布の勝利を開け—恩師鍛えこそ最高の青春の宝
未入会のご家族に感謝と配慮を。日々の振舞こそ和楽の土台。誠実第一で
国の調査装った詐欺が横行。口座、暗証番号等を騙し取ると。声掛けで撃退
2050年、海のプラごみが魚の総重量上回る—予測。国境越えた対策を
☆御書と歩む� 第35回 三世永遠に福徳の旅路を
『今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり』(新池殿御消息、1435ページ)
◇通解
(お送りいただいた白米を)さっそく一乗妙法蓮華経(御本尊)の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経と、ただ一遍唱えました。亡くなられた最愛のお子さんを、「成仏は決定して疑いない」との経文通りに、霊山浄土へとお送りするためである。
◇同志への指針
題目の力は計り知れない。ただ一遍でも縁する生命を成仏へ導く大功徳があると、御本仏は示されている。
最愛の家族との別れは悲しい。しかし、生死を超えて妙法で結ばれている。霊山浄土はいずこにあるか。唱題し、広布に励む家族の胸の中にある。常に一緒である。
三世永遠に「生も歓喜、死も歓喜」の境涯で、常楽我浄の旅路を共に歩みゆくのだ。
☆御書に学ぶ「彼岸」の意義
今月23日を中心に全国で「秋季彼岸勤行法要」
学会員の題目こそ最高の追善回向
創価学会では今月、「秋分の日(23日)」を中心に、全国の主要会館、墓地公園、納骨堂で「秋季彼岸勤行法要」を営み、故人への追善の勤行・唱題、焼香を厳粛に行います。ここでは日蓮仏法における「彼岸」の意義について、御書を拝しながら確認していきます。
◇日本独特の風習が定着
日本では年2回、「春分の日」や「秋分の日」を挟むそれぞれ前後1週間を「彼岸」と呼び、墓参や先祖供養を行っています。しかし、これは仏教本来の伝統ではなく、日本独特の風習です。
「春分の日」や「秋分の日」は、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈みます。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結び付き、「彼岸会」として定着していったともいわれています。
特に、彼岸に合わせて墓参りする習慣は、江戸時代以降、いわゆる"葬式仏教"のもとで根付いたと考えられています。彼岸の本義に立ち返るならば、今日、用いられている先祖供養の意味とは、無関係なものなのです。
そもそも「彼岸」とは、「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸」との対比で用いられます。
此岸とは煩悩の迷いの世界を譬えたもの、彼岸とは成仏の覚りの境涯を譬えたものです。
また、彼岸には成仏の境涯とともに「到彼岸」、すなわち、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいます。
法華経以前の教えでは、生まれ変わるたびに仏道修行を繰り返すという「歴劫修行」によって彼岸を目指すことを説いていますが、私たちが実践する日蓮大聖人の仏法はそうではありません。
大聖人は、法華経の肝心であり、成仏の根本法である「南無妙法蓮華経」を唱えることで、この一生のうちに成仏の境涯を開く(=彼岸に到る)ことができると示されています。
◇仏法の随方毘尼の観点
御書にも、「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(1501ページ)など、「彼岸」という言葉が使われています。しかし、大聖人が「先祖供養」の意義で用いられている箇所は一つもありません。
むしろ、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(御書1448ページ)と仰せのように、南無妙法蓮華経を唱え、広布に生き抜くことで、誰もがこの一生のうちに生死の大海を越えて、覚りの境涯に到達することができるのです。
そもそも大聖人の仏法では、毎日の勤行・唱題が、先祖への追善回向となっています。毎日が彼岸であり、いわば「常彼岸」とも言えるのです。
その上で、学会は「随方毘尼」(仏法の本義にたがわない限り、地域の習俗や時代の風俗に従うべきであるという考え)の観点から、春と秋の彼岸を一つの節目に、信心を深め、仏縁を広げる機会として、追善の法要を行っています。
法要には、信心をしていない方々も多数参加して、真心から故人を追悼しており、共感の輪が広がっています。
◇他者に「回らし向ける」
学会の「勤行要典」の御祈念文には、「先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養のために」とあり、学会員は日々、勤行の際に回向を行っています。
御書には、「南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(712ページ)と仰せです。
「回向」とは本来、自身の積んだ仏道修行の善根を他者に「回らし向ける」ことです。御書にも「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」(1429ページ)とあるように、私たち自身が今世での成仏を目指して修行することこそ、仏教正統の実践であり、その功徳を故人に回らし向けることが追善回向の意義です。
大聖人の御遺命である広布にまい進する学会員の日々の勤行・唱題こそ、故人への最高の追善回向にほかなりません。
そうした点を踏まえれば、日顕宗の「僧侶に拝んでもらわなければ回向にならない」等の主張が、いかに的外れなものかが分かります。
そもそも、「僧は葬送儀礼に関わらない」というのが釈尊の遺言であり、仏教の伝統でした。回向は僧侶に拝んでもらうことで決まるのではなく、あくまでも自分自身の信心によるものです。
創価の同志が会館等に集って勤行・唱題し、信心の継承者として広宣流布への決意を深める——。この学会の法要こそ、日蓮大聖人のお心にのっとったものなのです。
〈コラム〉 謗法への布施
●悪への供養は悪道に堕ちる
日顕宗は、"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない"などと主張していますが、これは御書とは関係のない全くの邪義です。
日蓮大聖人は堕落した僧侶を、「食法がき」(御書1111ページ)と痛烈に破折されています。
日顕宗の坊主は「お経回り」と称して檀家を回り、僧侶の読経をありがたいものだと思わせては供養を稼いでいます。また、塔婆や戒名を"金もうけの道具"にするなど、大聖人を利用して供養集めをしています。そうした姿こそ「食法餓鬼」そのものです。
大聖人は「真心からの供養であっても、悪への供養であれば功徳とならず、かえって悪道に堕ちてしまうことになる」(同1486ページ、趣意)と仰せです。
日顕宗は広布を破壊し、大聖人に違背する大謗法の輩です。日顕宗に塔婆供養などを頼めば、謗法の与同罪で功徳どころか罰を受けてしまいます。日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となり、かえって自身が悪業を積むことになるのです。
★池田先生の指導から
日蓮大聖人は、御義口伝で明快に仰せになられている。
「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる」(御書712ページ、通解)
この末法濁悪の現代世界にあって、大聖人の仰せ通りに、難を乗り越え、不惜身命で広宣流布に励んでいるのは、ただ創価学会の私たちだけである。
この私たちの唱える題目には、計り知れない大功力がある。それは、生きている人々はもちろん、亡くなった方々の生命にも厳然と通ずる。
その題目の光は、たとえ言語に絶する地獄の苦しみの生命であっても、赫々と照らして、必ず必ず即身成仏させることができると御断言なのである。
私たちの題目の響きには、それほどの力が込められているのだ。
御本仏の仰せは、絶対であられる。
この一点を大確信していくならば、いかに悲しい生死の別れがあろうとも、嘆きに沈むことはない。
生命は永遠である。三世にわたって、心を通わせていける。苦しみから救っていける。悲観や感傷をも超克しながら、「常楽我浄」の生命の旅を、ともに励まし、ともどもに歩んでまいりたい。
戸田先生は、よく語られた。「広宣流布のために、日夜活躍している子どもの信心の功徳によって、必ず親も成仏していけるのである」
"坊主に拝んでもらわなければ成仏できない"などとは、御書のどこにも記されていない。
大聖人は、親孝行の真心を尽くした女性の弟子に対して、"亡くなった、優しかったお父さまは、娘のあなたの題目の声を聞かれて仏になられるのです"と励ましておられる(同1424ページ)。
さらに、信心に励む女性門下に、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(同1231ページ、通解)と教えられている。
大聖人の仏法においては、自分自身が仏道修行に励んで成仏することが根本であり、その功徳を故人に回らし向けることが、真の追善回向になる。
それは、大聖人の御心に寸分も違わぬ、創価学会の広宣流布の和合僧の中でこそ、実現できるのだ。
(2008・9・26付、秋季彼岸勤行法要でのスピーチ〈上〉)