2018年9月14日金曜日

2018.09.13 わが友に贈る

「はたらかさず・
つくろわず・もとの儘」
気取らず 飾らず
清らかな信心を貫こう!
そこに無冠の力が湧く!

法蓮抄 P1045
『信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し』

【通解】
信がなくてもこの経を行ずることは、手がなくして宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。

〈寸鉄〉 2018年9月13日
御書を拝して境涯を開くのだ—恩師。青春時代に揺るがぬ人生の原点築け
東京・府中の日。勇気を漲らせ対話に先駆!共戦の師子吼で拡大即栄光へ
正法を持つ人は「一人もかけず仏に成る」御書。大確信で同志に励ましを
地震や台風後の義援金・修繕等、便乗詐欺に警戒。冷静に確認・相談・通報
子供のネット問題防止の鍵は小まめな話し合い—専門家。親子で賢く活用

☆世界に魂を 心に翼を 第7回 人間に歌あり(下)
◇生きる誇りを呼び覚ます
東北3県(岩手、宮城、福島)の小・中学校などで開かれてきた「東北希望コンサート」。本年7月、70回の節目を迎えた。
2011年3月11日の東日本大震災では、民音東北センターのスタッフが、民音の活動を支える民音推進委員の安否確認に車を走らせた。
広大な沿岸部を、道路の寸断や冠水を避けつつ避難所から避難所へ。齋藤潤一さん(民音東北総センター長)は「昼間なのに街が静まりかえって、夜は真っ暗。色も音もないように感じました。想像を絶する被害に言葉を失いました」と回想する。
宮城・塩釜の婦人は自営の事務所を津波で失っていた。「コンサートのチケットも流されて」とうつむく姿に、齋藤さんは「いつか必ず、希望の音楽を届けます」と誓った。
同センター長の竹中栄雄さんは、石巻の避難所に泊まり込み、救援活動に力を注いだ。
津波で家を流され、娘と義母を亡くした婦人がいた。ぽつりと漏らした一言に胸を突かれた。
「民音、早く始まらないかな。前に進むには音楽が必要だから——」
石巻では、市民会館を中心に多彩な民音公演が開かれてきた。
震災後は全国的に自粛ムードが広がり、音楽イベントが次々と中止に。テレビでも音楽番組は放映されず、公共広告のCMが繰り返し流れた。
民音公演も、再開のめどが立たなかった。
◇ ◆ ◇
震災から3週間。学会の東北音楽隊の有志が、石巻の避難所で演奏会を開いた。
マーチ「ライヴリー アヴェニュー」に「情熱大陸」。久々の"生の音楽"に、子どもたちが手拍子でリズムを取る。後ろで遠巻きに眺めていた人も次第に前へ集まってきた。
演奏後も拍手がやまず、あるお年寄りは、曲がった背中をさらに曲げて「ありがとう」と。「もう一度頑張ってみる」と涙ぐむ人もいた。
演奏者自身も被災している。楽器を取りに帰ろうとしたが、浸水で家に近づけない。数日前に家族の遺体が見つかった人もいた。
この場で見守っていた竹中さん。「掛ける言葉すらない中で、音楽に心をぐいっと持ち上げられたかのようでした」と振り返る。
「震災以来、久しぶりに音楽を聴いた気がしました。音楽を耳にしてはいたはずですが、"伝えようとする人"がいて、初めて音楽が心を動かしたのかもしれません」
皆で相談し、未来をつくる子どもたちに音楽を贈ろうと決めた。
◇ ◆ ◇
津波に耐えて残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」。そのすぐそばに校舎があった気仙中学校で、2012年5月、初の東北希望コンサートが行われた。
同校の校舎は、津波で3階建ての屋上まで水没し、生徒は仮設住宅から仮校舎に通学していた。
出演したのは、アカペラバンドのINSPi。
前夜、茨城での公演を終え、最終電車で岩手へ。"一番喜んでもらえる歌は何か"と選曲し、アカペラでアレンジした気仙中学校の校歌を歌うことに。深夜まで声を合わせた。
コンサートの終盤、生徒の代表があいさつに立った。
「津波で校舎はなくなりました。でも仮校舎で過ごす日々の中で、いつも気仙中生としての誇りを呼び覚ましてくれたのが校歌でした」
「皆さんに私たちの思いが届くように、一生懸命に歌います」
コンサートの返礼にと、生徒も歌の練習を重ねていた。生徒が選んだ一曲もまた、校歌だった。
民音のスタッフは振り返る。
「歌が誇りを呼び覚ます——思いがけない言葉でした。歌はどんな時も無力ではない。音楽の力を信じることを教えてもらいました」
以来、校歌を一緒に歌うことが、コンサートの恒例となった。
東北希望コンサートはIBC岩手放送、東北放送、ラジオ福島、TBSラジオ、民音の共同主催。子どもたちの歌声に乗せて、被災地の今をラジオ番組等で発信してきた。
◇ ◆ ◇ 
民音創立者の池田先生は、折々に歌の力に言及している。
"声は生きている。生きているから、他の生命を揺さぶることができる。声に込めた思いは、「耳」という「魂への門」から入り、心の中から何かを引き出して、身体をも動かす。「歌う」ことは「うったう(訴える)」ことである。天に訴えれば祈りとなり、人に訴えれば心の橋となり、癒やしとなる"
池田先生の民音設立の着想にも、歌のドラマがあった。
先生は、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死した長兄のことを考えるたびに、竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』を思い浮かべた。
作中で、終戦を知らずに敗走する日本軍が、イギリス軍に包囲される場面がある。日本兵は「庭の千草」や「埴生の宿」を口ずさみながら、爆薬を積んだ荷車を運んでいた。
そこにイギリス兵が歌う「庭の千草」「埴生の宿」が聞こえてきた。歌は英語だが曲は同じ。どちらもイギリスで古くから愛唱されていた歌に、日本語の歌詞を付けたものである。特に「埴生の宿」は、イギリス人にとって、幼い頃の家族や故郷の思い出と共にある大切な曲だった。
両軍の兵士はいつの間にか声を合わせて歌っていた。手を握り、互いの家族の写真を見せ合った。日本兵は、そこで3日前に戦争が終わったことを知った。歌が心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。
「音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、普遍的な共感の広がりをもっている」
——57年前の2月、ビルマなどアジア諸国を巡る平和旅の中で、先生は国境を超えた文化交流を提案。それが民音設立の淵源となった。
◇ ◆ ◇
遠い町の人たちにも、人生で一度は本物のプッチーニ、ヴェルディというオペラの真髄を聴いていただきたい。そんな長年の夢が、民音のおかげでかないました——。
そう話すのは、佐藤しのぶ氏。日本が誇るオペラ歌手である。
音楽は、医療のように命を救うことはできないかもしれない。だが、心は救える。それは、あらゆる人に歌を届ける中で得た確信でもある。
バングラデシュのストリート・チルドレンと触れ合った折、幼子を膝の上に乗せ、子守歌を歌った。
「また来るね」と言うと、幼子は「私が生きてるうちに来て」と。
「どこの子どもたちも親に愛されたい。母親に抱き締められ、子守歌を歌ってもらって眠るのが一番安心するんです」と述懐する。
昨年11月、東北希望コンサートに出演するため、佐藤氏は岩手県北部にある久慈市の小学校へ。全校生徒数は23人(当時)である。
「人数を知って"ますます行きたい"と思いました。子どもたち一人一人と心が通う場を持たせていただけることが、何よりの喜びでした」
東北希望コンサートへの出演は、2013年の石巻に続いて2回目。
児童との距離は、ほんの1、2メートルほど。ピアニストのキハラ良尚氏の伴奏で「花は咲く」など10曲を披露し、共に校歌を響かせた。
佐藤氏は語っている。
「民音が、ニュースで報じられないような所で文化交流に取り組み、世界の平和を促進してきたことを、ひしひしと感じております。私は、創立者の思想と全く同じ思いで平和への祈りを込めて歌ってきました。これからも同じ心で歌い続けます」
これまで44の市区町村で開かれた東北希望コンサート。各界のアーティストが、約1万4000人の子どもたちと歌声を紡いできた。
歌が人を励まし、歌が人を結ぶ。
どんな時も歌と共に——民音が広げてきた平和への願いである。