◇今週のことば
大きく苦労した分
大きく境涯は開かれる。
「賢者はよろこび」と
我らの広布と人生の
黄金の「日記文書」を!
2018年9月3日
顕仏未来記 P509
『伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり』
【通解】
伝教大師は法華秀句に次のように述べている。「浅い教え(爾前権教)は信じやすく理解しやすいが深い教え(法華経)は信じ難く理解し難い、とは釈尊の教判である。浅きを去って深きに就くのが丈夫の心である。
〈寸鉄〉 2018年9月3日
神奈川・静岡で交歓会。永遠に師弟の道を!正義の心は世界の同志と共鳴
「此の土は本土なり」御書ここで必ず勝つ!栄光はそう腹を決めた勇者から
スポーツ部が発足10年。負けじ魂で己の最高記録へ。君の挑戦を皆が応援
信頼し得る友を持つほどの幸福なし—哲人。友情育む語らいに充実の日々
中高生の1割超がネット依存の疑い。家族で使用ルールを。納得の対話で
☆歌声高く 第16回 信濃の歌/雪山の道
◇信越に人材山脈は堂々と
"人材山脈"と仰がれる信越。そこには常に、師弟共戦の歌声があった。
池田先生は長野に「いつも歌声の長野」との指針を贈り、「明るいはずんだ歌声が、いつもみなぎっている長野であってほしい」と期待を寄せてきた。
その長野に県歌「信濃の歌」が誕生したのは1978年8月23日。先生はこの前日、新出発の大会が行われる松本へと向かう列車の中で、筆を走らせていた。会館に到着するや、居合わせた同志、功労者、運営役員を激励しつつ、合間を縫って作詞を続けた。推敲が重ねられ、作曲担当者の元に歌詞が届いたのは午後10時過ぎ。さらに翌23日も、県歌発表の会合が始まる直前まで手直しが続いた。
"まだ、なすべきことはある! 断じて妥協などすまい! ここに、全精魂を注ぎ尽くすのだ!"——当時の真情を先生はつづっている。師弟の魂をとどめるこの歌と共に、長野は歩み続けてきた。
2008年、長野研修道場で開催された青年部代表研修会で、代表が「信濃の歌」を歌った。池田先生は"勢いよく歌おう。「信濃ここにあり!」と歌っていくんだよ"と——。
師に誓った歌声を響かせながら、友は誉れの信濃路を広布に駆ける。
◇
新潟県歌「雪山の道」が発表されたのは、78年10月のこと。当時、池田先生は識者との会見や関西指導など、多忙を極めていた。しかし、"深い雪の中で活動することになる冬が訪れる前に、何とか新潟の同志に歌を贈りたい"との思いから、時間を惜しんで、移動の車中や歩く間も、一行、二行と歌詞を紡いでいった。
10月12日に歌詞ができ上がり、同25日に曲が完成。"新潟に県歌ができた"との報は、瞬く間にメンバーに伝えられた。そして同30日、聖教新聞の新潟版に、歌詞と楽譜が掲載されたのである。陰険な悪僧の仕打ちに必死に耐えてきた新潟の同志に、爆発的な喜びが広がった。
翌79年8月、会長を辞任して間もない先生に、一目でも会いたいと、代表が長野研修道場へやって来た。"先生の前で、あの歌を"——しかし、いざ"その人"を前にすると涙が込み上げ、声にならなかった。けなげな弟子を温かく励ます先生。師の慈愛に、反転攻勢を誓った。
今、県歌の誕生から40星霜。幾多の戦いを勝ち越えて、牧口先生の故郷である柏崎には、牧口先生の名を冠した、全国で初の墓地公園の整備が進む。大聖人流罪の地・佐渡にも、後継の人材が陸続と躍り出る。
厳しい雪も、襲い掛かる苦難も、不撓不屈の信心で乗り越えて、友は不動の人材山脈を築きゆく。
MEMO
長野県歌「信濃の歌」誕生の淵源や意義は小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章、新潟県歌「雪山の道」は第29巻「常楽」の章につづられている。
SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)では、それぞれの歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等のほか「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
〈信濃の歌〉
一、ああ荘厳に この城で
幾日幾夜 語りたる
地涌の旅人 いざや征け
われらが信州 この法戦
おお民衆に 力あり
二、そよ風吹雪の 故郷は
われらの魂魄 信濃路に
これぞ思い出 忘れまじ
ここに功徳が 満開と
ああ情熱と 英知あり
三、広布の行進 堂々と
老いも若きも 美しく
アルプス仰ぐ 君が顔
われらの雄叫び 合唱は
信濃の天地に 舞い舞えり
〈雪山の道〉
一、ああこの吹雪 風雪も
この世の雪山 わが道と
燃ゆる元初の 輝きは
永遠の幸へと 続くなり
ああ続くなり 新潟は
二、おお海原は わが心
正義に燃ゆる わが友と
大聖偲びて いざや征け
ああ新潟に 誇りあり
誇りの天地 新潟に
三、ああ鐘は鳴る この街に
祈りと幸と 広宣の
世紀に響け 君も打て
ああ新潟は 夜明けなり
夜明けの凱歌 新潟は