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立正安国論 P32
『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや』
【通解】
あなたは一刻も早く、誤った信仰の寸心を改めて、速やかに実乗(法華経)の一善に帰依しなさい。
そうすれば、この三界(欲界・色界・無色界)は皆、仏国土である。仏国土であるならば、どうして衰微することがあろうか。
十方の国土はことごとく宝土である。宝土であれば、どうして破壊されることがあろうか。
〈寸鉄〉 2018年9月8日
歴史的な日中提言50周年永久に輝く信義と友誼。我らが「金の橋」を未来へ
『新・人間革命』が完結。さあ心も新たに栄光凱歌の日記文書を!師と共に
宮崎の日。妙法に行き詰まりはない!地域照らす"励ましの太陽"と光れ
「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ」御書。試練こそ成長の因
世界で14億人が運動不足—調査。友の為に歩く学会活動は心身共の健康法
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月15日
◇幸福の波は一人から
池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回から4回にわたり、北欧のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンで刻まれた共戦のドラマを紹介する。
初代会長の牧口常三郎先生が、『創価教育学体系』の序文の中で言及した師弟がある。"近代デンマーク精神の父"と呼ばれる教育者グルントヴィと、弟子のコルである。
19世紀、グルントヴィは「国民高等学校」を構想。その設立と普及に努めたのが、師の構想を継いだコルだった。牧口先生はこの史実に触れながら、『創価教育学体系』の発刊も、戸田城聖先生の奮闘なくしてはありえなかったと述べている。そして、その愛弟子の姿に、「創価教育学の前途に一点の光明を認めた」と記した。
恩師・戸田先生の遺志を胸に、世界に仏法の種をまき続けた池田先生の闘争もまた、各国で広布の「一点の光明」となりゆく同志を励ます旅であった。
先生のヨーロッパ激励行の第一歩は、デンマークにしるされた。
◇地涌の菩薩よ
「北欧の玄関口」と呼ばれる、デンマークの首都コペンハーゲン。池田先生を乗せた飛行機が、この地に降り立ったのは1961年10月5日。現地時間の午前7時過ぎだった。
当時、デンマークにまだメンバーはいなかった。コペンハーゲン市内を歩きながら、先生は"やがて地涌の菩薩が出現するように"と、大地に題目を染み込ませていった。
3年後の64年10月、先生は再びデンマークを訪れている。
同国SGI理事長のヤン・モラーさんが、仏法を知ったのはその頃のこと。アスコーにある国民高等学校に入り、寮でルームメートになった日本人が学会員だった。
題目に興味を持ったモラーさんは、創価学会のことをもっとよく知りたいと、単身、日本へと向かう。シベリア鉄道から船へと乗り継ぎ、68年5月、横浜港に到着した。
直後の6月1日、東京・台東体育館で開催された男子部幹部会。モラーさんにとって、生まれて初めて参加する学会の会合だった。
壇上にいた池田先生は、会場を埋め尽くす若人の中に金髪のモラー青年を見つけた。
あいさつに立つやいなや、「きょうは、外国人の同志も参加されています」と。モラーさんを前方に招き、固い握手を交わした。
この時、先生は「壇上からあいさつするかたちになってしまい、申し訳ない。でも御本尊の前では、みんな平等だからね」と。
モラーさんは「先生の大きな心に包まれた感動は、今でも忘れられません」と語る。
日本に滞在した半年間、多くの座談会に参加した。「日本語は分かりませんでしたが、いつも明るく、躍動感に満ちていました」
デンマークに帰国すると、コペンハーゲン大学に入って日本語や日本文化を学んだ。御書を研さんし、先生の指導を学び深めながら、同国広布の草創を開いていく。
デンマークは自由を重んじる国。同時に、宗教に疑問を抱く人は多い。弘教はなかなか進まなかった。
悩みに直面するたびに、師との原点を思い出し、自らを鼓舞したモラーさん。"必ず、広布の道を開いてみせる"と強盛に祈った。メンバーがいると聞けば、車やフェリーを使って、デンマーク全土を励ましに駆けた。
やがてその労苦は、花を咲かせ始める。新会員と新たな活動者が誕生し、広布の水かさは増していった。
◇断じて行く
2度目のデンマーク訪問に先立つ64年10月16日、先生はノルウェーを初訪問した。
東南アジア、中東、ヨーロッパの10カ国を回る旅は最終盤に入っていた。先生の体調を気遣い、ノルウェー訪問の中止を進言する同行幹部もいた。
だが先生は、即座に言った。"たった一人で頑張っている人がいるからこそ、私は断じて行く"と。
その「一人」とは、ヒロシ・イシバシさん(ノルウェーSGI最高参与)。当時、首都オスロの日本大使館で、調理師として働いていた。
千葉県出身のイシバシさんは、15歳で東京・銀座の料亭に弟子入り。料理の師匠の紹介で信心を始めた。
しばらくして、セイロン(現在のスリランカ)の日本大使館に調理師として勤務するように。61年1月、先生がインドに向かう途中、セイロンの首都コロンボに立ち寄った折、出会いを結んだ。
大使のノルウェー転任に伴い、同国へ渡ったイシバシさん。ほとんど会員がいない国で奮闘するイシバシさんに会うため、先生はノルウェー行きを決めたのだ。
オスロの空港で迎えたイシバシさんを見つけると、先生は、笑顔で再会を喜んだ。イシバシさんと一緒に来ていた大使館の運転手である青年も招き、宿舎の一室で懇談。
オスロ滞在中、先生はフログネル公園や、北極、南極の探検船を展示した博物館などを訪れている。イシバシさんと並んで歩きながら、生活の苦労の話に耳を傾けた。
ある時、宿舎の近くを散策していた先生は小さな石を拾い、大事そうに上着のポケットに入れた。その光景を、イシバシさんは今も心にとどめている。
「セイロンでも、ノルウェーでも、先生はたった一人の私を励ましに来てくださった。ただの石でもダイヤモンドのように大切にされるのが、先生のお心だと知りました」
オスロを発つ前、先生はイシバシさんに語った。「それぞれの国で誰か一人が立ち上がれば、必ず次の人が出てくる。幸福の波が広がっていく。あなたが立てばいいんだよ」
この指針を胸に、妻のエミコさんと共に、国土の7割を占める山を越え、広布に奔走したイシバシさん。大使の離任後も、料理人としてノルウェーに残った。とはいえ、日本食文化は社会にまだ根付いておらず、ホテルでウエーターの下働きから始まった。
苦しい時も、広布の"一粒種"となり、日本料理の"第一人者"になるとの師への誓願が背中を押した。包丁を握るチャンスが訪れれば、自慢の腕を振るった。やがてコック長にも抜てきされた。
独立し、「桜」という名前のレストランを開いた。さらに会社を立ち上げ、系列の和食レストランを12店舗にまで広げた。
「自分の決めた広布の道、料理の道を真っすぐに進んでくることができました」とイシバシさん。師への感謝の心が輝く。
◇冥益の人生
ノルウェーの隣国・スウェーデンでも、広布の灯がともったのは60年代であった。
同国SGI婦人部のヤエコ・シューグレンさんが64年、結婚を機に首都ストックホルムに移った時、一人の信心の先輩がいた。上原鏡子さんである。
上原さんは日本で入会し、60年、勤め先の関係で、スウェーデンに渡った。
62年、先生は本の扉に「冥益」と書き、上原さんに贈った。翌63年1月にも、ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会に出席したパリで、上原さんを励ましている。
地道な信仰を貫き、大きな福徳を積みゆく"冥益の人生"——師が示したままに広布に生きる喜びを、上原さんはスウェーデンの同志と分かち合った。
シューグレンさんもその一人。上原さんと会い、勤行と教学研さんに励むことが信心の滋養となった。「御本尊と先生から離れてはだめよ」と語る上原さんから、水の流れるような信心を教わった。
上原さんはストックホルムだけでなく、メンバーが住む西部の都市イエーテボリ、南部の都市マルメにも足を運んだ。彼女の励ましの中で生活苦を勝ち越え、広布の草創を支えた人が多くいる。
広布の伸展を見届けながら、上原さんは79年、故郷の鹿児島で生涯を閉じた。後年、先生はその生涯について言及している。
「(スウェーデンの広布を支えたのは)上原鏡子さんという、鹿児島出身の女子部員です。『スウェーデンは私一人で開いていきます』と言ってくれた」
「頼れる人もいない。言葉もそれほど上手ではない。しかし彼女は掃除や皿洗いをしながら生活費を切り詰めて戦ったんだ。無名の、このような人々をこそ、私は励まし、宣揚したい」
スウェーデンの副婦人部長などを歴任したシューグレンさんは、86歳の今も元気に広布に走る。次代の青年の成長を、うれしそうに見つめながら。
どの国でも、地涌の使命を自覚した一人から、今日の世界広布は開かれた。その道に続く人を励まし、たたえる先生との師弟の共戦譜は、さらに続く。
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月19日
◇"創価家族"の和楽の前進
池田先生がデンマークとノルウェーを訪問した1960年代、両国をはじめ北欧の各地で、広布の礎が築かれていった。
ムツコ・ディゲルネスさん(ノルウェーSGI総合婦人部長)は66年、日本で入会。船舶会社に勤めていたノルウェー人の夫は信心に反対で、生まれた2人の子どもについても「入会は認めないよ」との一点張りだった。
夫の転勤でタイに住み始めると、ディゲルネスさんは英語版機関誌「セイキョウ・タイムズ」を毎月、読んでは信仰に励んだ。
そんなある日、「僕も信心をやるよ」と夫が一言。知らないところで、机に置かれたセイキョウ・タイムズを読み、仏法への理解を深めていたのだ。念願だった、一家和楽が実現する。
75年2月、家族でノルウェーに移住。同年5月、夫は先生が出席したフランス・パリでの会合に参加する機会があった。
終了後、夫のもとに歩み寄った先生は、肩を抱きながら、「(ノルウェー広布の"一粒種"の)イシバシさんを支えて、ノルウェーを頼むよ」と温かな励ましを送った。
この直後、夫に肺がんが見つかった。それでも先生の励ましに勇気をもらい、命を振り絞って、広布の活動に励んだ。更賜寿命し、77年1月に生涯を閉じた夫は、生前、ディゲルネスさんに語った。「子どもたちを、広布の人材に育てるんだよ。それが先生との約束だから」と。
その後、ディゲルネスさんは言葉の壁や経済苦に直面しながら、"唱題の人は、勝利の人"との先生の指針を胸に、歯を食いしばった。清掃業や老人ホームでの仕事で生計を立てながら、広布を開拓していった。2000年から9年間、同国の婦人部長を務めた。
亡き夫の遺志を継いだ子どもたちも、広布の庭で育った。長女のアウドさんは同国の女子部長、青年部長を経て、今、理事長として全土を駆ける。
◇自分らしく
サツキ・イノウエさん(デンマークSGI婦人部アドバイザー)は68年、日本で入会した。大学卒業後、デンマークの国民高等学校でデンマーク語と英語を学ぶ。その後も首都コペンハーゲンで、住み込みの家事手伝いとして働いた。
当時、同国の会員はまだ少なかった。イノウエさんらはフェリーに乗り、コペンハーゲンと海峡の対岸にあるスウェーデンのマルメにも通いながら、学会活動に励んだ。
73年5月、パリで参加した会合で、池田先生との出会いがあった。先生は、イノウエさんに「よく来たね」と優しく語り掛けた。
当時、自分に自信がないことが悩みだったイノウエさん。先生の激励を胸に、"自分らしく生きよう"と心が決まった。就職活動にも生き生きと臨み、日系の航空会社から採用を得た。
同じくパリで師との出会いを刻んだ夫と、74年に結婚。生後間もない長男を亡くす悲しみにも遭ったが、夫婦で乗り越えた。夫はデンマークの青年部長、書記長を務めながら、ヨーロッパ各地を奔走した。
その夫が93年、病のため、44歳の若さで亡くなった。当時、次男のサトルさんは15歳、三男のキヨシさんは12歳。悲しみに暮れるイノウエさんに、希望を送り続けたのは先生であった。
その年、日本で海外のメンバーと懇談した先生は、イノウエさんの状況を聞き、"頑張るんだよ。お題目を送っているよ"と渾身の励ましを。イノウエさんは大粒の涙を流しながら、一歩も引かないと誓った。
仕事と子育て、そして広布の活動に挑戦し抜いた。航空会社とその関連会社には40年間勤め、信頼を広げた。
2人の息子も広布後継の人材に。サトルさんは、デンマーク男子部長を務めた。共にデザイナーとして活躍する2人は2004年、独自のブランドを設立。新進気鋭のアーティストとして今、注目を集める。
本年、イノウエさんは入会50年。「家族皆で広布の人生を歩めたことが、何よりの幸せです。感謝を胸に、青年部の成長を見守り、応援していきます」
◇広布のロマン
東京出身のヨウコ・ハーディングさん(スウェーデンSGI総合婦人部長)も、高等部時代、世界広布のロマンに夢を膨らませた。
スウェーデンに会員がいることを学会書籍で知り、1971年に初めて同国を訪れた。そして77年、ビザを取得して首都ストックホルムに移住した。
その直前、思いがけず先生との出会いがあった。出発の報告をすると、先生は「そうか、スウェーデンに行くんだね」とうれしそうにうなずき、真心の励ましを送った。
当時、スウェーデンの活動はストックホルム、イエーテボリ、マルメが中心。哲学と議論が好まれる同国の社会に、生命尊厳の仏法の哲理を広げていた。
ハーディングさんは信心に励みながら、スウェーデンで「公認ガイド」の資格を取得した。79年にフリーランスのガイド、通訳として仕事を始め、国内外に活躍の舞台を広げてきた。
81年、フランスのトレッツで行われた会合に参加した時のこと。先生は、スウェーデンでの生活や気候について尋ねながら、「困ったことがあれば、何でも言うんだよ」と。
ハーディングさんは「先生はずっと見守ってくださっていたのだと、感動で胸がいっぱいでした」と語る。
84年、スウェーデンで「核兵器——現代世界の脅威」展が開かれた。この頃には、日本から渡って草創期を支えたメンバーと共に、現地で生まれ育ったメンバーも多く信心に励むようになっていた。
そうした広布のうねりの中で、スウェーデン、そして北欧の同志は、大きな節目を迎える。89年6月の、池田先生のスウェーデン訪問である。
この年、先生は1カ月以上にわたってヨーロッパを歴訪した。イギリスに次ぐ訪問地として、ストックホルムの空港に到着したのは6月1日の午後5時半ごろだった。
当時、ハーディングさんは全国婦人部長。2児の母でもあった。宿舎で先生を歓迎した時、それまでの苦労が報われた思いがし、感極まって涙があふれた。そんな彼女を先生は、温かく包み込むように激励した。
先生の滞在中、ハーディングさんは陰で行事運営を支えながら、宝の原点を刻んだ。
◇親孝行の人生
この訪問で先生は、グスタフ国王、カールソン首相ら国家要人との会見、国立東洋美術館での"自然との対話"写真展の特別鑑賞会などに出席。その間隙を縫って6月3日、スウェーデン文化会館の開館式に出席した。
その折、忘れ得ぬ出会いを結んだのが、男子部長だったフレドリック・フルトマンさん(スウェーデンSGI理事長)である。
学生時代に信心を始めたフルトマンさん。両親は別居し、フルトマンさんは12歳の時から、父のカールアクセルさんと暮らしていた。息子から信心の話を聞き、父はまず1年間、題目三唱を実践するようになった。
英語の御書を読み始めた父は、弁護士だったこともあり、仏法の論理性にも興味を持った。毎日の唱題は、やがて2時間に。82年、晴れて入会した。
89年、二人はスウェーデン文化会館で先生を迎えた。親子そろっての懇談で、先生は、カールアクセルさんに「息子さんに一つ、アドバイスをしてもいいですか」と。そして、フルトマンさんの目を見て言った。「お父さんを徹底して守っていきなさい。もっと親孝行するんだよ」
フルトマンさんは、意外な思いがした。「私は父に、仏法を教えることができた。これ以上の親孝行はないと思っていました」
実はこの前日、父は先生と言葉を交わしていた。「息子に感謝しています。私を折伏してくれたんです」と話すカールアクセルさんに、先生は「それだけでは、親孝行は十分ではないのです」と応じた。
当時を振り返るたびに、フルトマンさんは師の慈愛の深さに胸を熱くする。
「幼少期、父と離れて暮らしていた私は、さびしい思いをしていました。そのわだかまりは、ずっと心に残っていました」「一方で私にとって、池田先生は父のような存在です。その先生が、"あなたはお父さんの息子なのだよ"と、伝えてくれたのではないかと思ったのです」
先生との出会いの7年後、カールアクセルさんは、がんで生涯を終えた。生前、親子で先生との思い出を振り返った。病床の父は、フルトマンさんに言った。「お前以上の息子はいない。私は私の人生に、何の後悔もないよ」と。
"2人の父"から受けた愛情と優しさを受け継ぎ、今、フルトマンさんは理事長として同志を励ます。自らも父となり、長男は男子部本部長を務める。
フルトマンさんは、ストックホルム市内に三つの建物を持つレンタルオフィス会社を経営し、社会でも実証を示す。
先生のスウェーデン訪問の折に生まれた、いくつもの出会いのドラマ。ここから、北欧の"創価家族"の和楽の前進が始まる。